9
丘の鼻からミルトンはサント・ステーファノを見下ろしていた。白く濃い煙の出るいくつもの煙突が明かしていたように、大きな村はとうにすっかり目覚めていたのに、人けがなく無言のまま眼下に横たわっていた。村を鉄道駅と繋ぐ長い直線道路にも人けがなければ、反対側の鉄橋の先からカネッリを覆う丘の稜線あたりまですっかり見通せるカネッリへの真っ直ぐな街道も、空っぽだった。
腕時計を横目で見た。五時数分を指していたけれども、夜のあいだにきっと遅れたのだろう。少なくとも六時にはなっていた。
大地はずぶ濡れで黒ぐろとして、大して寒くもなく、空は灰色だったのにここ久しく目にしなかったような軽さと広さを見せていた。ミルトンのズボンは腿のうえまで泥の撥ねを浴びて、登山靴などは泥濘製の二本のニョッキそのものだった。
裸木の広い灌木地帯を迂回してサント・ステーファノに下りながら、ベルボ川に小橋の架かっているのを承知していたあたりを目指した。垂直に降りて突きでた岸のうえに出たときなどは、流れの一部をいくらかかいま見ることができた。川の水はくすんだ淡い色をしていたけれど、まだ溢れるのにはほど遠かったし、小橋もたしかに架かっていた。徒渡らねばと考えるだけでも、熱みたいに身体が震えた。具合が悪かった。ことに肺が痛んで、軟骨が金属に変わってしまった左右の肺の先端が擦れあうみたいな気がしたし、それがまた不快で、苦しんでいた。一歩ごとに体内に全面的な弱さと憐れさの感覚が募るのだった。《こんな体調ではやり遂げられないし、試みることだってできやしない。機会の訪れないように願いたいくらいだ》しかし彼は下っていった。
それでも彼は分水嶺下のあの乾し草置場でぐっすりと眠ったのだった。乾し草の下に潜りこんで、口の前に小さなトンネルを掘りおえた途端に、いきなり眠りこんでしまったのだ。乾し草置場の丈夫な屋根のうえに、このうえなく激しく、甘美に雨が音をたてながら降りそそいでいた。
翌日せねばならない困難な恐ろしい仕事のいささかも干渉しない、悪夢なし、夢なしの、鉛の眠りであった。そのうえ雄鳥のときを作る歌声と、谷側の犬の長鳴きと、雨の止んだ静けさとで、目が覚めたのだった。すぐさま彼は乾し草の小山の下から抜け出た。跳ね起きて坐りながら、彼は乾し草置場の縁に身体を移して、両脚を宙にぶら下げたまま、じっとしていた。そこにおのれのこと、フールヴィアのこと、ジョルジョのこと、戦争のことと、十全な意識が彼に襲いかかり、彼を浸した。すると彼は震えだして、その唯一の果てしない震えは彼の全身を貫いて踵に至り、彼は夜がいまよりは少しはましに昼に抗って長くなってほしいと祈るのだった。ちょうどそのとき、家から農夫が出てきて泥濘のなかを、灰色の波濤に育ちつつある光のなかでなおも幻みたいな厩舎めざして歩いてきた。ミルトンは顎を擦っていて、長く疎らな不精鬚の金属的な擦れる音があたりの数メートル四方に拡がった。実際、百姓はうえを見あげて呆れてしまった。「そのうえで夜を過ごしたのかね? まあ、そのほうが少しはましか。何事もなかったし、おれも眠れたからな。もしおまえがおれの屋根の下にいると知ったら、おれは片目だって閉じやしなかったことだろう。だけどもう下りなよ」ミルトンは両足を揃えて麦打ち場に飛びおり、大きな鈍い音とともに着地して、あたり一面に泥水の大飛沫を飛ばした。降り立ったところに突っ立ったまま、うつむいて、ガンベルトに触っていた。「おまえは腹が減っているだろうが」と、百姓が言った、「おれにはおまえにやるものがほんとにない。丸パン一個ぐらいならおれが食わずにやってもいいが……」「いや、いらない、ありがとう。」「それともおまえ、グラッパ酒を一杯やるか?」
「ぼくが気狂いならばね」
パンを断わったのは間違えだった。いまは身が空っぽでばらばらになりそうな感じがして、下りの最も険しい道のりにほとんど重心なしで挑まねばならず、カネッリの見えるところまで行きつく前に、どこかの一軒家に立ち寄ってパンを求めたほうが良さそうだ、と彼は自分に言った。
彼は平地にたどり着いて、小橋へと急いだ。やがて下流をめざしすぎていたのに気がついて、沢を五十歩ほど遡らねばならなかった。
ずぶ濡れででき損ないの板敷のうえを渡った。川原の向こうの村はあいかわらずまったく静まり返っていて、静けさのなかに蟻集していた。
川原は広く、どの石も生きている泥の川床のうえに休んでいた。それで彼の足の下で、石は揺れ動くかと思えば、するりと抜けて逃げてしまうのだった。村の大広場をあちらの側で閉じている、階上に建て増しされた家並の裏手の窓辺やバルコニーのうえにも、誰も、一人の老婆も、一人の子供も、彼は見かけなかった。
彼の知っている細い路地づたいにその広場に出て、飛び跳ねるようにそれを横切り、村の反対側に出たなら、カネッリへの街道の右手の野辺をゆくつもりだった。そのあたりが〈赤い星〉の地帯で九十九パーセントの確率で彼らの斥候に誰何されるとしても。《で、おまえは誰だ? どこのコマンドだ? で、なぜ私服なんだ? われわれの地帯でなにをしている? われわれの合言葉を知っているか……?》
細い路地の入口めざして足を速め、土砂に埋まった川原のうえ、膿んだ刺草の茂みのあいだを進んだ。と、そのとき、縦隊の轟音が彼の耳に雪崩れこんだ。実に迅速で、村の手前の直線道路の最後の部分に早くも達していた。六ないし八台のトラックに違いなかった。あの来襲の一陣の風にすでに見舞われた村からは、なんの悲鳴も、なんの動揺も漏れてこなかった。しかし、ミルトンよりは上流の川原に面した一軒の家から半裸の男が飛びだしてきて、ベルボ川めがけて砂利のうえを突進した。力走する男の踵の下から小石が弾丸みたいにあたりに飛び散った。飛ぶように流れを徒渡ると、丘の麓の並木道に一瞬の間に姿を消した。
騒音の質から察して、縦隊は速度を緩めて広場で向きを変えているところだった。そこでミルトンはベルボ川めがけてダッシュし、遮蔽となる草木の最も繁茂したあたりの対岸をめざした。なにかが彼の背後で爆鳴したが、慌てて閉じられた窓扉のただのばたんという音だったに違いない。
流れに足を踏み入れてみれば、凍るように冷たくて、呼吸と視界が奪われてしまった。こうして盲て徒渡ると土に触れるなり、羊歯の茂みの蔭へ倒れこんだ。すぐさま後ろの丘を見やって、人けがなく静かなのを見、それから振り向いて村を窺った。そうして半ば身体を捩っただけでも、すでにどれほど泥まみれになってしまったかを見てとるには充分だった。
エンジン音が消えてその直後に、兵隊たちが地面に飛びおりる鈍い響き、広場の四隅を制圧しに彼らの走る足音、将校たちの飛び交う命令をミルトンは聞いた。カネッリのサン・マルコ黒シャツ旅団だった。
そのとき彼らが視界に入った。左手の最後の家の角から分隊が出てきて、すでに組み立てた機関銃を腕に抱えてベルボ川に架かる橋のうえに速歩でやって来た。ミルトンは這いながら後退して、六十歩しか離れていない橋上の機関銃からできるだけ距離を置こうとした。
彼らは欄干ぎわに機関銃を据えつけると、ベルボ川に迫りだしているピラミッド状の大きな丘全体にゆっくりと銃口をめぐらしたあと、ミルトンが下ってきた丘の道の最後のカーブにぴたりと照準を合わせた。すぐあとで広場から一人の将校がやって来た。機関銃の照準を首肯した様子で、兵隊たちとお喋りを始めた。遠目にも、彼が人気取りに終始しているのがわかった。とある瞬間にバスクベレーを脱いで、片手で金髪を撫でつけてから、またバスクベレーを被った。
ジョルジョの交換相手にはぴったしの男だ、とミルトンは思った。だがその将校はおろか、彼の用には同様に足りる兵隊たちの最後の一人でさえ、彼の射程内に入ってこないだろうことはたしかだった。兵隊たちが来てからまだ五分と経っていなかったのに、ミルトンは早くも悟った。あの侵攻は、彼には道の途中で餌を目の前にぶら下げてくれたのだが、実際にはカネッリへの彼の道のりを倍加させ、平地の旅を大方は登り道に変えさせたことにほかならなかった。そしてそのことを思うだけでも、石塊を迂回せざるをえない一匹の蟻みたいにおのれが見えてくるのだった。
川の水が靴のなかで揺れながら、悪寒を覚えさせて、ついには胃は空なのに嘔吐するみたいな痙攣を彼にもたらした。ついで喉のなかに咳の大きな絡まりが迫りあがってくるのを感じて、頭を腕の内側に突っこんで、口は泥濘に接するくらいに近づけて、できるだけ音を抑えて咳をしようとした。なんども破裂、炸裂するみたいに咳きこんで、固く閉じた瞼の裏の昏い空に赤や黄色の星々や稲妻が閃いて、彼は深手を負わされた蛇みたいに地面のうえで跳ねあがった。やがて唇は泥に塗れたまま、ふたたび目を橋のほうに向けた。兵隊たちは彼の咳を聞かなかったし、タバコをふかしてはピラミッド状の丘のあらゆる層に素早く目を走らせていた。あの中尉はすでに広場に戻っていた。
あの激しい発作とのたくりの最中に拳銃を無くしたのではあるまいか、との恐怖が彼を襲った。息を殺しながらゆっくりと片手を腿のうえに持ってゆき、やがて不意に革ケースに指が触れた。あった。
七時の時鍾が、小教会区の鐘楼で鳴った。くり返し鳴った。村びとはまだ誰ひとり姿を見せなかった。最もいたいけな子供も、ひとりの曾祖母も、ひとりの傷痍軍人も姿を見せなかった。谷川に面した家並の線が墓地の正面みたいに見えた。ミルトンは想像した。大広場を行き交う兵隊たち、彼らの将校は村に二箇所あるバールで熱い飲物を飲みながら、ウエートレスを苦しめている。《おまえはパルチザンの恋人がいるな。おれたちに話さないね。パルチザンはどんなふうにセックスするの?》
他の兵隊は視野に入ってこなかった。ミルトンは長いあいだ橋のうえの連中を監視した。ひっきりなしにタバコをふかしながら、彼らはあたり一帯を見張っていたが、いまは橋の下流、教会のほうの、川原のなにかにことに注意を引かれているように見えた。ミルトンもそちらの方角に首を伸ばして、橋のアーチ越しに下を覗きこんで、いったいなにがそんなに面白いのか見出そうとしたがむだだった。が、それから兵隊のひとりが笑いだし、ほかのみなもつられて笑った。やがてもうひとりがピラミッド状の丘の中腹にいきなり指を突き立てて、ふたりが機関銃の後ろに取りついた。しかしなにもせずに、しばらくすると、みなは指差した男の背中を叩いていた。
どうしようもなかった。せいぜい、連中のひとりが川原まで下りてきて用を足す、それも橋上の仲間の視界内で掩護されて、くらいのことだったろう。最大限、見栄を張ってひとりが、丘の人けのない道のとっかかりまで単身足を伸ばすくらいのところだろうが、それでもミルトンにはその男をどうすることもできなかっただろう。運がよければ、その男を殺せるくらいのことでしかなかっただろう。
用心せずに大きく咳をしてから、彼は這って後退して丘の裾のほうに向かった。ポプラ林に入るやいなや、葦を折るみたいな音を立てながら、身体を真っ直ぐに伸ばして立ちあがった。目に入った最初の小径を採って丘にまた登りはじめた。そこはまだたしかに橋のうえの機関銃の有効
射程距離内であったが、丘の黒ずんだ中腹をバックに彼を見わけることは敵兵の誰ひとりできなかった。こうして彼は背をかがめてゆっくりとだけれど確実に、無関心に、登ってゆきながら、震えつつ、頭を揺り動かしていた。高い声でとぎれとぎれに彼はおのれに話していた。《やつらがぼくの行く手を塞いでしまった。お蔭でぼくは気狂いじみた回り道をしなければならない。だのにぼくは具合が悪いんだ。家へ、家へ。だって、もう決して知ることはできないのだから。彼はとうに銃殺されてしまったに違いない》
彼は胸と、腹と、両膝を泥で汚していた。登りながら、せめて一部だけでも泥を剥がし落とそうとしたけれども、痺れた指先のせいでうまくゆかなかった。やめたが、胸糞の悪い泥を我慢するのに努力せねばならなかった。
橋のうえの兵隊はもう小さな木偶人形でしかなかった。あの高さからは村の広場さえもじっと見下ろすことができた。トラックは六台で、別の戦争に斃れた者たちの記念碑のまえに駐車してあった。兵隊は百名ほどで、ゆっくりとしかし休みなしに行き交っていた。
彼は頂への小径をだしぬけに棄てて、丘の中腹に斜めに分け入り、ピラミッド状の丘を目指した。《まだ彼を銃殺してはいない。それにぼくは知らないでは生きていられない》雨と地滑りがあらゆる起伏を削り流し、どんな小径もかき消していた。踝まで泥濘に漬かりながら、彼は丘を横切っていた。立ち止まって、登山靴に重くこびりついた何キロもの泥をこそげ落とさずには、もうあと四歩と前に進めなかった。ピラミッド状の丘の中程に帯状に拡がる森の茂みを目指した。それは、サント・ステーファノへのサン・マルコ旅団兵の侵攻を迂回するための序にほかならなかった。
木々は雨に黒く汚れて、風もないのに、やかましく雨だれを落としていた。
その木々の下に入るや、たちまち乱れる足音、狼狽、警戒心と不運に口籠もる絶叫が聞こえた。そこで彼は片手を突き伸ばして言った。「怖がらないで。ぼくはパルチザンだ。逃げないで」
あの丘に住む五、六人の男たちだった。森に避難して、あの下のほうのサント・ステーファノでのファシスト軍の動きを窺っていたのだった。みなマントに身を包んで、ひとりは丸めた毛布を肩から脇の下に斜めに背負っていた。彼らは食べ物の包みも持っていた。もしも兵隊たちが彼
らの丘を奇襲したとしても、彼らは即座に逃げだして二十四時間もしくは四十八時間でも遠くに留まるだけの用意をしていた。
口を開かずに、ただ彼の異常な泥まみれの姿をこっそりと眺めながら、彼らはおのれの観測所に戻って、ベレー帽や肩を濡らす雨だれにも無関心だった。彼らの最年長者が、またこの男がいちばん上機嫌にこの状況に耐えているように見えたのだが、髪も口髭も真っ白でユーモアを湛え
た眸で彼を見ると、ミルトンにたずねた。「愛国者よ、おまえの考えでは、いったいいつ終わるのか?」
「春に」と、彼は答えたけれど、その声は嗄れすぎてうそ寒く響いた。咳をひとつしてから重ねて言った。「春だ」
彼らは顔色を変えた。ひとりが神を罵ってから言った。「でもどちらの春だ? 三月の春もあれば、五月の春もあるぞ」
「五月だ」と、ミルトンがはっきりとさせた。
みなは茫然と自失してしまった。やがて年寄りが、どうしてそんなに泥まみれなのか、とミルトンに尋ねた。
ミルトンは、なぜかわからないが赤面してしまった。「下りで転んで、ぼくは胸をついたまま何メートルも滑ってしまったんだ」
「それでもその日は来るのだな」と、年寄りが刺すような眼差しでミルトンを見つめながら言った。
「必ずその日は来る」と、ミルトンが答えて口を噤んだ。しかし老人はなおも飽きたらずに貪るように彼を凝視しつづけていた。たぶん、実際に飽くことを知らなかったのだろう。「必ずその日は来る」と、ミルトンがくり返した。
「ならば、そのときには」と、老人が言った。「やつらを誰ひとりとして許すなよ。望みをかけておきたいものだ」
「ひとり残らず」と、ミルトンが言った。「ぼくらはすでに了解しあっている」
「誰もかも、やつらをひとり残らず殺さねばならないのだぞ。なぜなら、やつらの誰ひとりとして、死刑よりも軽い罪には値しないのだから。死は、断わっておくが、やつらのうちの最も悪くない者にとってさえも軽すぎる罰なのだぞ」
「やつらをひとり残らず殺す」と、ミルトンが言った。「ぼくらは同意している」
しかし老人の話は終わっていなかった。「誰もかもと言うのはだ。まさしく全員のことだ。看護兵も、コックも、従軍司祭もだ。いいかよく聴くのだ、若者よ。わたしはおまえを若者と呼べる歳だしな。わたしは肉屋がやって来て仔羊を買ってゆくときには、目に涙を浮かべる人間だ。
それでも、その同じ人間のわたしがおまえに言うのだ。誰もかも、最後のひとりまで、やつらを残らず殺さねばならないのだぞ。そしてこれから言うことも胸に刻んでおけ。栄えあるその日が来たときに、もしもおまえたちがやつらの一部だけを殺して、憐れみにかられるままにか、それとも血そのものに飽いて胸糞が悪くなってか、あとの者どもを生かしておくなら、おまえたちは大罪を犯すことになる。それこそほんとうの裏切りというものだぞ。その大いなる日に、脇の下まで血に汚れていない者は、わたしの前に来て、良き愛国者だなどと抜かすな」
「心配しないで」と、歩みだしながらミルトンが言った。「ぼくらはみな一致している。やつらのひとりでも許そうと考えるくらいなら、むしろ……」
彼はその句をみなまで言わずにその場を去ったけれど、声の届かぬところまで行かないうちにあの農夫たちのひとりが長閑に言うのが聞こえた。「いま時分になっても、まだ雪が降らないってのは不思議じゃないかな?」
まさしく森の尽きるところであのピラミッドの丘に長い崖が繋がっていて、それは駅の直線部分と平行に走って、やがてまさしく駅舎そのものの真向かいで低くなっていた。ミルトンは心に決めた。崖の頂まで登って、それから駅に向かって下って、駅舎を迂回してから開けた野に出て、ときどきそこらの桑畑に身を隠しながら進んで、鉄橋を右手に見ながらなおも進んで、こうして山端にたどり着く、その裏手はもうカネッリだ。そうすれば、と彼は考えた。いまはサント・ステーファノにいるがいずれの時刻にか基地に戻らねばならぬ縦隊の新たなどんな容喙も避けることができる。
ポケットを探って、二本の巻きタバコを取りだし、較べてみた。一本目は半分に千切れていたし、もう一本は片方の端からタバコが抜け落ちていた。その二本目を唇に銜えたけれども、黄燐マッチを擦るべき乾いたごく小さな表面がどこにも見つからなかった。なるほどコルト拳銃の銃把の鮫革の頬ならば、乾いていたが、そうまでする気にはならなかった。絶望しきった微苦笑を浮かべてタバコをポケットに戻すと、崖づたいに無理やり進みだした。
道路と平行して走る線路を絶えず目で追いながら前進した。線路は錆ついてところどころずぶ濡れの雑草に覆われて、淋しく、休戦発表のあの日以来、列車に侵されることもなかった。ミルトンにとって、鉄道はいまだに《九月八日》と告げるのだった。たぶんこれからもずうっとそう告げつづけるのかもしれない。九月十三日のあの灰色で暑い朝、汚れて変装して、疲れ切っているのに全然床に就きたくもなければ腰をおろしたくさえなかった、家へ生還したおのれの姿を、彼はまた見た。彼の母親はわが目を信じられずに、彼に触れたがったし、それでもなお信じがたくて施し物の私服を彼から脱がせようとし、顔にこびりついた埃を落としてなおもたしかめようとした…… 《ローマから!?》と彼女が言った。《おまえはローマから戻った! あたしらの小さなアルバで起こった地獄を、あたしはこの目で見て、ローマで起こったことの恐ろしさを頭に浮かべた。あたしにはおまえがそれを切り抜けられるとは思えなかった、でしょう? おまえみたいな子が、いつも頭を雲のなかに突っこんでいて……》ところが彼はそれをくぐり抜けてきた。〈終着駅〉であの怪物みたいな列車に乗りこんだ瞬間以来、彼は脱出できることを決して疑わなかった。軍隊の果てしない不幸のさなかで幸運が、おのれには幸運が微笑むであろうことを彼は承知していた。
《で……トリーノのお嬢さんは?》ほらそのときフールヴィアを指すのに、彼の母親の決まってした言い方、皮肉でしかもわくわくさせるあの言い方を、彼は使った。たぶん、予感していたのかもしれない。《しょっちゅう見かけたわ》と、母親が答えた。《彼女はしょっちゅう町なかにいたよ。軍務不適格者の若者たちとね》それから俯いてつけ加えた。《彼女はトリーノへ帰ったよ。三日まえに》、するとミルトンは、手探りしながら、椅子を探しに出ていった。
サント・ステーファノの鐘楼でかすかに鐘が半打されたのが聞こえたが、ミルトンにはそれが果たして八時半なのか、それとも九時半なのか、わからなかった。
山端の裾で彼は十時の時鍾が鳴るのを耳にした。そしてこちらはカネッリの鐘楼で打ち鳴らしているのに違いなかった。
空はどんな染みや煙も掃き清められて、いまはすっかり白一色だった。雨は降っていないのに、木々の葉叢と灌木が単調に雨だれの音をたてていた。
ゆっくりと慎重に登っていった。なぜなら泥まみれの凝灰岩の岩壁の小径はこのうえなく滑りやすかったし、また、カネッリから巡察にいつ出動してくるかも知れぬ巡邏隊の行動半径内にすでに踏みこんでいたからだった。こうした直接の、即座の危険の可能性にもかかわらず、彼はどうにもタバコが吸いたくて堪らなかったけれど、こちらの丘の上にも黄燐マッチを擦れそうな乾いた箇所一センチ四方が見つからなかった。コルト拳銃の銃把の鮫革の頬のことをまた思い浮かべたけれども、この期に及んでも彼はそのような仕方でおのれの拳銃を虐待する気にはなれなかった。
そのうえ、ちょうどそのとき──彼は登り道の三分の二以上をこなしていたが──山端の裏手の路上に、サント・ステーファノ侵攻からカネッリに帰投した縦隊の轟音が聞こえた。騒音の激しさから判断すると、トラック隊は最高速度で穴だらけの街道を突っ走ってきたらしかった。
《したたかだな》と、彼は悲しみをこめて思った。轟音は谷底で急速にかき消えたけれども、敵の騒音によって彼の体内に注ぎこまれた戦きが背骨づたいにすっかり吐きだされてしまうまで、待ってからミルトンはまた登りだした。戦きの放出を助けるかのように、全身を物憂くひと揺すりしてから、また出発したのだった。
山端のうえにおのが姿を現すころには縦隊はとっくに兵営にすっかり帰投しおえているだろう、と読んだのだ。これに関して、ミルトンの知るところでは、サン・マルコ旅団は前ファシスト支部に宿営しているのだが、カネッリに来たことのない身では、それがどこに位置するのか知る由もなかった。しかし半ば田舎風、半ば工業的なその大きな村を一瞥するだけで、兵営がどれか割りだせると踏んでいた。兵営を目標点としてではなくて、不可欠な基準点として捉えていたのだった。
ずっと敏速に登って、頂の一歩手前で息を殺して、即座に眼下の村を見るつもりでいた。だが、頂は丸みを帯びて、野生の朝鮮薊だらけの未耕地が広がるばかりだった。両脇を見張りながら、身をこごめてそこを走り抜けた。目に見えるただ一軒の家は左手二百歩のところにあった。ずぶ濡れの草木のもつれた塊によって黒っぽい屋根だけが辛うじてすれすれに見える一軒家だった。
崖っ縁に危なっかしく生えている茨の茂みの後ろに滑り降り、彼はその後ろにしゃがんで枝の間からカネッリを見おろした。素早く包括的な一瞥、そのすぐあとに、斜面を登る田舎道や細道を、巡邏中の小隊がいないかどうか、くまなく探った。何事もなく、誰もいない。そこで村を観察することに集中した。
村は完全に、不自然なくらいに人けがなく静まり返って、最小の部落からでも立ちのぼるあのざわめきさえも欠けていた。あのまったくの生気のなさを、サント・ステーファノからいま帰投したばかりの縦隊のせいだ、と彼は思った。暮らしの唯一の徴はいくつもの煙突から立ちのぼる蒸気まじりの濃い白い煙だったが、その白い煙もごく低くたれこめた白い空のなかにたちまち見わけがつかなくなっていった。
彼はファシスト支部を突きとめた。ひどく上塗りのはげ落ちた、褪色した赤い大きな立方体の建物で、ところどころに板囲いや小さな土嚢によって半ば盲た窓があって、小塔のうえには双眼鏡を手に歩哨が立っているに違いなかった。だが、その衛兵はミルトンの潜む斜面の真向かいの、赤たちの蠢動する丘々を絶えず監視しているのかもしれなかった。
兵営の中庭に視線を押しこもうとするのだが、高い側壁のせいで、奥に虚ろなアーケードのある、中庭の人けのない帯みたいな一部分しか彼には見わけることができなかった。
おのれの潜む斜面の裾の集落を調べようと、彼は身を乗りだした。ひっそりとして人けのないまったく鄙びた村外れの地区で、操業していない大きな製材所があるだけだった。
どうしようもなく、彼はため息をついた。ボタンを外した革ケースのうえに手を乗せたまま、彼にはどうしようもなかった。とある瘤の向こうに葦原を見つけて、四歩跳んでそこに着くと、葦の茂みのあいだからもう一度村を調べた。なにひとつ変わらなかった、ただ煙突から吐きだされる煙の量が増えただけだった。
どうしようもなく、さらに下ってみるほかはなかった。第二の目標点として農具用の小屋を選んだが、小屋といっても四本の柱に屋根をのせただけのもので、ぶどう畑の真ん中にあり、はや丘の中腹だった。そこに通ずる小径はあったけれど、あまりに真っ直ぐで急なうえに、兵営の小塔と妙に一直線なので、ミルトンはその径を走ってみる気はまるでしなかった。こうしてぶどうの枝々や針金を押し退けつつ、パテみたいに粘りつく、硫黄みたいに黄色い泥に踝まで嵌まりながら、彼はぶどう畑の真ん中の小屋にたどり着いた。一本の支柱の陰に待ち伏せしたが、すぐに首を横に振って、惨めによしてしまった。《こんなのはぼくに向くジャンルじゃない》と、彼はおのれに言った。《まさしくぼくにやれる仕事なものか。いまのぼくみたいにひどい状態にありうる男を、ぼくはたったひとりしか知らない。いや、彼はもっとひどいありさまかもしれない。そしてその男こそまさにジョルジョなのだ》
しかしさらに下る勇気が彼に残っていた。やがて平地に入りこむ未開墾地と境を接する、最後のぶどう畑の終点にある硫酸銅のコンテナーに、彼は目を付けていた。村から巡邏隊が姿を現して咄嗟に逃げねばならない場合にも、さらに下っておくほうが彼には好都合だった。とにかく斜
面をまた駆けあがるのは論外で、右であろうと左であろうと構わずに、側面に逃れて彼は助かろうとすることだろう。斜面を下から見上げると、泥で覆った石壁みたいに、いまでは見えた。
拳銃を握って降りていった。小径から一羽の雀が羽音高く飛び立っていったが、それでも慌てた様子ではなかった。カネッリにはなかった大きな鉄工所だけで立てうるような、曰くありげな、たっぷりした、こもった轟きが村なかに鳴り響いた。二度とくり返さなかったし、村にはそれにたいする微塵の反応もなかった。兵営は直線距離にして百メートル以内にあった。深い静けさのあまり、兵営の裏手に積み重ねられた石塊に打ち当たるベルボ川の波のざわめきが聞こえたような気がミルトンはした。
コンテナーの陰にしゃがんで、拳銃は腿のうえに置き、冷たいセメントに片腕を回した。そこからは轍のあとが深く刻まれて穴だらけのサント・ステーファノへの街道がきれぎれに見渡せた。
あの最後の下りで彼は、おのれの腹積もりよりもはるかに左手に大きな製材所を残してしまい、それが悔やまれた。絶望的な場合にはあそこには山積みの板材のブロックがいくつもあって絶好の一時的隠れ場ともまた逃げ道の迷宮ともなっただろうに。
彼はトゥレイーゾの村に、そしてレーオという男に、おのれの守備隊に、鋭い郷愁を覚えた。
右手から続けざまのざわめきが途切れなく聞こえてきたので、ミルトンはおのれに言った。あちらではぶどう畑が短い急斜面となって落ちこんでいるが、その真下に一軒家があるのだ。白い空にたちまち呑みこまれてしまう渦巻き状の煙が、その目に見えない煙突から昇っていた。
拳銃を握った。物音。が、それは街道の手前一軒目の家のバルコニーに面した戸の軋む音でしかなかった。一人の女が部屋から身を乗りだして、壁から俎板を外すと、丘に一瞥もくれずに、また中に入った。そして犬の吠え声、雌鳥たちの鳴き声ひとつせず、空には一羽の雀も飛んでいなかった。
そのとき、右手に、まさしくその先端が彼を舐めている黒い影を、目尻で捉えた。コンテナーの陰で身体全体をくるりと一回転させて、その影の持主に銃口を向けた。びっくりして、すぐに銃口を下げた。油まみれで汚い全身黒ずくめの老婆だった。彼がそんなにもびっくりしたのは、
老婆が二十歩離れていて、太陽が出ていなかったのに、彼はその影によって文字通り押し潰されるのを身に感じたからだった。
彼に話しかけていた。が、ミルトンは平たく紫色の唇の動きだけしか感じとらなかった。一羽の雌鳥が老婆のあとをぶどう畑の縁までついてきて、いまは畝のなかで餌を漁って泥を引っ掻いていた。やがて老婆はスカートをつまみ上げてミルトンと向かいあう畝のなかに入ってきた。その男物の登山靴の下で、泥が音を立てていた。
支柱のところで立ち止まって言った。「おまえはパルチザンだね。あたしらのぶどう畑でなにをしているんだい?」
「話すのはいいがぼくをじっと見ないで」と、ミルトンがささやいた。「空を見上げながら話してほしい。この上まで兵隊はやって来る?」
「見かけなくて一週間になるね」
「ほんの少し大きな声で話して。いつもは何人くらいで来るの?」
「五、六人だね」と、顔を空に向けながら老婆が答えた。「一度なんかは縦隊全部がとおりすぎたよ、みな鉄兜を被ってね。でも、たいていは五人か六人だね」
「一人歩きは決してしない?」
「今年の夏、それに九月になってもまだ、あたしらの果物を盗みにくるのさ。だけど九月以後はずっと頻繁だね。おまえさんはあたしらのぶどう畑でなにをしているんだい?」
「怖がらないで」
「あたしは怖かないよ。あたしはあんたらの味方だからね。それにどうしてあたしがあんたらの味方にならずにおれよう? あたしの大きな孫たちはみなパルチザンに入っているというのに。あんたは孫たちを知っているだろう。みな〈赤い星〉に入っているよ」
「ぼくはバドッリオ派なんだ」
「ああ、ならばあんたはイギリス軍に変装した男たちの仲間なんだね。だのに、なぜ宿無しの恰好なんかしているのさ? 言ってくれるかい、あたしらのぶどう畑でなにをしているんだい?」
「ぼくはあんたらの村を見て、調べているんだ」
女は不安のあまり狼狽した。「やつらを攻撃するつもりじゃ? あんたらまさか気が狂ったんじゃない? まだ早すぎるよ!」
「ぼくをじっと見ないで。空を見ていて」
空を見ながら、老婆が言った。「あんたらは守りとおせるものだけを取らねばならない。あたしらは解放されるのは嬉しいけれど、それは一回こっきりで済む場合だけの話さね。さもないと、戻ってきたやつらがあたしらの血で仕返しをするのだから」
「ぼくらは攻撃しようなんてちっとも思っちゃいない」
「だろうね、いま思うに」と、彼女が言った、「あんたが攻撃の下調べにくるってのはありえないよ。あんたはバドッリオ派だし、カネッリを攻撃するのは〈赤い星〉だろうから。カネッリは〈赤い星〉にとっておかれているんだ」
「そのことに異論はない」と、ミルトンが言った。そしてそれから、「済まないけれど、頼まれてくれないか。ぼくは昨日の晩から食べていない。家に戻って丸パンをひとつぼくにとってくれないか。またここまで泥のなかを来ることはないだろうし、畝のとっかかりのところでそれをぼくに投げてくれればいい。ぼくは空中でそれを受け取るつもりだから、安心して」
鐘楼で十一時を告げる鐘の最初の一打が鳴った。
老婆は時鍾が鳴りおわるのを待ってから、言った。「往って戻ってくるよ。でも犬にやるみたいにあんたにパンを投げたりはしない。あんたにパンとラードでサンウィッチを作りに往ってくるから、投げたりしたら空中で台無しになってしまう。それにあんたは犬じゅないもの。あんたらはみなあたしらの息子だよ。あたしらにいまはいない者たちのかわりにあんたらに食べさせてあげる。あたしのことも思っておくれ、二人の息子はロシアにいて、いったいいつあたしのもとへ帰ってくるのか、誰にもわからない。だけど、あんたはまだ言っておくれでないね、あたしらのぶどう畑で待ち伏せして、ここでなにをしているのか」
「やつらの一人を待っているんだ」と、ミルトンは老婆を見ずに言った。
彼女が顎をしゃくりあげた。「ここを通らなきゃならないのかい?」
「いや、どこであれ、ぼくが見かけたところで。居住区の外なら誰のためにも少しはましだ」
「やつを殺すためにかい?」
「いや。生かしておいてこそぼくの役に立つんだ」
「やつらは死んではじめて役に立つのに」
「わかってる、だけど死人はぼくの役には立たない」
「で、どうしたいんだね?」
「空を眺めて。ぶどう畑を見守っているふりをして。ぼくはやつをぼくの仲間と交換したいんだ。やつらは彼を昨日の朝、捕まえた。そしてもし交換できないと……」
「かわいそうな幼子よ。ここカネッリの牢屋にいるのかい?」
「アルバだ。」
「あたしはアルバがどこか知ってるよ。なら、なぜあんたはカネッリまで来て不意打ちをしてみようというの?」
「なぜなら、ぼくはアルバ出身だから」
「アルバとはね」と、老婆が言った。「あたしはアルバには一度も行ったことはないけれど、どこにあるかは知っているよ。一度はそこへ行ってみたいものだ、列車に乗って」
「心配しないで」と、ミルトンが言った。「食べ物を貰ったらすぐに、ぼくはあんたらのぶどう畑から出て、街道に移動するから」
「待ってて」と、彼女が言った。「あんたに食べ物を持ってくるから。あんたがあたしに話したことは恐ろしい仕事だし、空きっ腹かかえてやれるようなことじゃないんだから」
早くも畝づたいに遠ざかってゆき、泥は彼女の衣服のうえにまで跳ねかかった。振り返って、彼に最後の一瞥をくれると、崖を下った。
十分、十五分、二十分が過ぎたけれども彼女は戻ってこなかった。ミルトンは結論した。老婆は戻らないだろう。たまたま出合って、ただおざなりにあんな話をして、あげくに厄介ごとからおさらばしたんだ。彼女のあとをつけて懲らしめるだけの時間も意志も彼にはないことを、よくよく承知のうえのことだったのだ、と。彼はそう確信したから、行く先さえ決まれば、とっくに移動してしまっていたことだろう。
ところが、十二時半の時鍾がまさに鳴ったときに、老婆はまた現われて、背中の後ろにラードの大きな切り身を挟んだ大きなパンを隠しながらやって来た。ミルトンはそれを口に入る大きさにするために、力をこめて押しつぶさねばならなかった。彼は激しく噛み砕いたけれど、ラードの切り身はたいそう厚くて風味豊かだったので、下側のパンまで噛んだあとでさえもう一度ラードの切り身が歯の先に当たる感覚を、覚えたほどだった。
「もう行ってください、ありがとう」と、最初の一口のあとで彼が言った。
しかしあの女は彼の前にしゃがんで、ぶどう畑の支柱に凭れかかっていた。だから、ミルトンは彼女が見せているものを、細い紐で押さえた黒い毛糸の靴下のうえの痩せこけた灰色の腿を、見ないように視線を転じた。
「なにをしているの? ぼくはもう必要なものはないのに」
「それを言うのはまだ早い。あたしの話はあんたに興味あるかもしれないのだから。あたしの娘婿があんたに話しに出てきたがったけれど、家のなかにいてあたしに任すように彼を説き伏せて来たんだよ」
「なんなの?」
「〈赤い星〉にいるあたしの孫たちのうちの一番年長の孫に、あたしらが長いこと言おう言おうと思ってきたことだよ。だけど、いまはそれをあんたに言うことにしたのさ。なぜって、あんたは切羽詰まって必要なのだし、もう待ってはいられないだろうからね」
「でもいったいなんなの?」
「あんたの探すファシストへの手引きがあたしにはできるというのさ」
ミルトンはサンドイッチをコンテナーの縁に置いた。「誤解のないようにしておこう。ぼくが探しているのは兵隊であって、民間人のファシストではないのだよ」
「あたしがあんたに指してあげるのは兵隊さ。軍曹だよ」
「軍曹か」と、うっとりしてミルトンがおうむ返しに言った。
「この軍曹は」と、老婆が受けた。「あたしらの地区にしょっちゅうやって来て、ほとんど毎日だし、いつも一人だよ。ある女、ある女仕立屋のためにやって来るのさ。この女はあたしらの隣人だが、あいにくとあたしらの敵なんだよ」
「女はどこに住んでいる? すぐその家を示して」
「女はあたしらの敵だとあんたに言ったよね、だからそのわけを話しておきたい。でもはっきりさせときたいのだけど、あたしらは彼女への意趣返しにあんたに教えるわけではなくて、ただあんたを助けて、あんたの仲間を救うためなのだからね」
「ええ」
「あの女があたしらに、とりわけあたしの娘になした一切の悪事にもかかわらず、そうなのだからね。もうわかっただろ、あの女は淫らで穢れているんだ。そしていまあの女がこの軍曹とやっていることなんか、以前あの女がしたことと比べたら、ほとんどなにものでもないんだよ。あの女は二十歳まえに三度も中絶している、とあんたに言っておくだけで充分だ。カネッリとあたり一帯じゅうで彼女は一番穢れているし、世界じゅう歩き回って探したって、彼女よりも穢れている女が果たして見つかるか分りゃしない」
「でもどこに住んでいるんだ?」
相手を閉口させるその話し方を、老婆はいっこうに変えなかった。
「あの女はあたしの娘と婿のあいだにたんと悪事を仕込んだものだった。とくに、ここいらの出ではないあたしの婿は、そんなことは根も葉もないことだと誓って言うあたしらをさしおいてあそこのあの女の口車に乗るという間違えを仕出かした。しかしいまじゃ、ようやく目が覚めて、
あたしの娘とは以前よりもうまくいっているんだよ。あの汚い女があたしらに毒を盛ろうとした以前よりもね」
「ええ、ええ、でもどこに……?」
「しかもただの悪意からそうしていたのだから。たぶん、この近辺でたったひとりの本物のふしだら女であることに耐えられなくなったのかもしれない。だから、女友だちをでっちあげたんだ。だけどそれはでっちあげでしかなかった」
ミルトンは指先を弾いてサンウィッチをコンテナーのなかに落としこんだ。「あんたらと女仕立屋とのことなど、まるで関心はない。それがわからないのか? ぼくにとって重要なのはあの軍曹だ。彼はしばしば女に会いに来るのか?」
「可能なときにはいつでも。あたしらは何時間も窓辺で見張っているから。あたしらがこんな犠牲を払うのも、彼が女に会うごとに必ずチェックして知らせるためなんだよ」
「空を眺めて」と、ミルトンが言った。「習慣的にはいつそこへ往くんだ?」
「ほとんどきまって晩の、六時ごろだね。でもときには昼食後の、一時ごろってこともある。きっと上官たちの覚えがいいんだね。とても頻繁に自由外出を得ているけれど、そんな真似ができるのは見たとこやつ一人だね」
「軍曹だな」と、ミルトンが言った。
「あいつが軍曹だとあたしに言ったのは娘婿だよ。あたしには階級なんて見わけがつかないからね。やつが現れたら、あんた心して掛からないと。とてもいかつい顔つきで、軍服の下で筋肉がもりもりしているし、あたしらのところを通るときにはいつでも拳銃を撃てるようにしているよ。一度やつに出くわしたときには、あたしはもうアカシアの木立に隠れる間さえなかった。拳銃は、こんなふうに、ポケットから半分出していたね」
「拳銃だけか」と、ミルトンが言った。「自動小銃を携えているのを見かけたことは一度もないの? 例の銃身に穴の開いたやつを?」
「あたしは自動小銃がなにかはよく知っているよ。だけどやつはいつも拳銃だけで出歩いているね」
ミルトンは関節が強張りだした両足を擦った。それから言った。「一時に通らなかったら、六時にやつを待ち伏せてやる。必要なら、明日中も」
「今晩中にはきっと通るともさ。それにやつのことだから、一時ごろにもちょっと立ち寄るかもね」
「それなら急いでその家をぼくに教えてくれ」
老婆の脇をすり抜けてぶどうの枝のあいだから、彼女の指先を辿って、彼はその家を見た。最近、正面を文化的に改修した小さな田舎家だった。前には一掌尺の泥濘の狭い麦打ち場があって、鉄格子と戸口のあいだにいくつか滑らかな大石が並べられていた。街道から二十メートルほどの
高台に建っていて、裏手には荒れるにまかせた菜園があった。
「あそこへ往くにはやつはいつも街道を通るのか? 一度も畑を縫っては往かなかったか? 兵営からは畑を抜ければ真っ直ぐにあそこへ往けるのが、見て取れるけど」
「きまって街道を通るね。少なくともこの季節にはね。彼女のもとに泥まみれで着きたくはないのだろう」
本能的にミルトンは拳銃をたしかめた。老婆はそれとわからぬほどに身体を避けて呼吸を荒くした。
「いまのいま通るとは言ってないよ」と、言った。「いいかい、あたしが言ったのは、やつはたいていは晩にあそこに往くということ。いま一度、正確に言うと、やつは可能ならいつでも、三十分間でもそこに往くんだ。そして女はいつでも待ち構えている、みたいだね。年中盛りのついている二匹の犬だよ」
「あんたらのぶどう畑の隣はなに?」
「見えるだろ、あの狭い荒れ地だよ」
「そしてそのあとは?」
「アカシアの茂みがあるのさ。土地があんな瘤さえなければ、そのアカシアの梢が見えるはずだのに」
「そしてそのあとは?」
「街道さ」もっとよく見て叙景するために老婆は目を閉じていた。「街道さ」と、くり返した。
「アカシア林はまさしく街道に面しているんだよ」
「わかった。アカシア林はあの家の高さまで続いているのか?」
「あんたの聞いていることの意味があたしにはわからないけど」
「ぼくがアカシア林の外れまでゆけば、あの家の真向かいに出るのか?」
「正面みたいなものさね、少し左寄りなだけだ。もしあんたがアカシア林の外れに突っ立つとすればね」
「アカシア林の外れにはなにがあるの?」
「小径だよ」
「アカシア林と同じ高さにあるの?」
「跳び下りても一メートルくらいだよ」
「小径は街道に通じているんだね、ええ? そして反対の方角に進むと、どこに往くの? 丘の頂かな?」
「そうだよ。あたしらの丘の頂さ」
「そこまで小径は切り通しみたいなままなの、それともすっかり剥きだしなのかな?」
「切り通しのままさね」
「ぼくはアカシア林に紛れこんでゆくよ」と、ミルトンが言った。「上手くゆきさえすれば……」そしてぶどう畑をくだる準備をした。
老婆が彼の肩を掴んだ。「お待ち。で、もししくじったら? しくじったら、あんたは手引きしたのはあたしらだったと言うつもりかい?」
「心配しないで。ぼくは死人みたいに唖になるから。だけど、どうしても上手くゆかねばならないのだよ」
10
流れるようにひっそりと一匹の蛇にも似て、彼はアカシア林の外れめがけて這っていった。匍匐することでミルトンは、進みくる軍曹に五秒間先んじたという意味において、同時性は完璧、位置の移動は理想的だった。衝突は数学的に小径と街道の合流地点で起こるだろうし、軍曹はまさにおのれ自身の背中の一平方センチメートルを彼に差しだすことだろう。なにも容喙しないかぎり、五秒間地球が止まって、彼ら二人だけに自由に行動させないかぎりは。
ことは実に容易だったので、目をつぶってでもできたことだろう。
彼は両膝のうえに身体を丸めて跳びながら、空中で左手に半ば身体を捩った。実に広々として街道とほぼ空全体を覆った背中の真ん中に、拳銃を突き立てた。反動で軍曹のうなじが彼の口のなかに入りそうだったがすぐ、視界から消え落ちた。男が膝のうえにくずおれたからだった。やつをしゃんと立たせて、拳銃の二度目の突きでやつを小径のなかで向き直らせて、アカシア林の陰に入った。それから股の付け根の熱に膨れあがったポケットから拳銃をもぎ取って、自分のポケットに収め、嫌悪感を覚えながらやつの胸部を探って、ようやくやつを丘のほうへ押した。
「項の後ろで両手を組め」
アカシア林のすぐあとで、村の方角では、日没の翳を小径に反射している赤みを帯びた泥濘の岸辺がくっきりと浮かびあがっていた。
「敏速に歩け、だが滑らぬように用心しろ。もし滑ったらおれはおまえを撃つ、おかしな真似をしても同様だ。おまえは見てないがおれの手にあるのはコルト拳銃だ。おまえはコルト拳銃がどんな穴を開けるか知っているか?」
男は伸びやかで思慮ある足取りで登っていた。道ははや急坂で、崖が大きくなってきた。男は背丈こそミルトンにわずかに及ばなかったけれども、肩幅はその倍はあった。ミルトンはそれ以上、男を調べて詮索せずに、事情を男に呑みこませることのほうをあまりに急いていた。
「おまえはおれがおまえをどうするのか、知りたいだろう」と、やつに言った。
軍曹は震えて黙っていた。
「聞け。歩調を緩めずに、おれの言うことを注意して聞け。まず第一におれはおまえを殺すつもりはない。わかったか? おまえを殺す‐つもりはない。おまえのアルバの同類がおれの仲間を捕まえて、銃殺しようとしているんだ。だが、おれはおまえを彼と交換する。おまえとおれ、おれたちは間に合わねばならないのだ。だから、おまえはアルバで交換されるんだ。聞こえたか? なんとか言え」
答えなかった。
「なんとか言え!」
首筋を強張らせて、男は二度ほどはい、はい、と辛うじて答えた。
「だから、おまえはおかしな真似をするな。おまえの得にはならないぞ。もしおまえがおとなしくしていれば、明日の正午にはおまえはアルバで、おまえの同類たちのただなかで、はや自由になるのだ。わかったか? 話せ」
「シ、シ」
ミルトンが話しているあいだに、軍曹の両耳は拡がってひらひらし、まるで遠くから呼ばれるのを聞きつけた犬たちの耳みたいだった。
「もしおまえがおれに撃たざるをえなくさせるなら、おまえは自殺したも同然だ。わかるか?」
「シ、シ」男は首筋を強張らせて、固定したみたいだったけれど、その瞳は四方八方にぐるぐる回転しているに違いなかった。
「望みをかけるんじゃないぞ」と、ミルトンが言った。「おまえらの巡邏隊に出くわすことなんぞに、望みをかけるんじゃないぞ。なぜなら、その場合には、おれはおまえを撃つからだ。巡邏隊を見ると同時におれはおまえを撃つ。だから、それはおまえが死ぬことを祈るのと同じなのだ。話せ」
「シ、シ」
「そのシ、シ、のほかに、なんとか言え」
大斜面の下流で一頭の犬が吠えたが、陽気な吠え声で、急を告げる鳴き方ではなかった。彼らはすでに勾配のほぼ三分の一をこなしていた。
「通りはしないだろうが」と、ミルトンが言った。「だが、もし農夫がひとり通りかかったなら、おまえは直ちに崖側の路肩に避けるんだ。そうしてその男がおまえをかすめることなく通りすぎれるように。またその男にしがみつこうなどという最悪の考えをおまえが思いついたりしないように。わかったか?」
やつは頷いた。
「そんなのは死ぬとわかった者の思いつきそうな考えだ。しかしおまえは死ににゆくのではないのだからな。滑らないように用心しろ。おれは赤ではない、おれはバドッリオ派だ。お蔭でほんの少しは安堵したかな、ええ? 思うに、おまえはもう納得したことだろう。おれがおまえを殺さない、と。まだおれたちはカネッリに近すぎるからって、まだおまえらの巡邏隊に出くわす可能性が残っているからって、こんなことをおれは言うんではないぞ。もっとあちらへ行ったらもう少しましに扱ってやろう。なあ、聞こえたか? なら、震えるな。よく考えろ、いまさら震えるなんの理由がある? 背中に拳銃のショックのせいなら、いまごろはもう収まっていいはずだ。おまえはサン・マルコ旅団の軍曹なのだろう、それとも違うのか? 今朝、サント・ステーファノで空威張りしていた連中のひとりなのだろう、おまえも?」
「違う!」
「大きい声を立てるなよ。おれには興味ないことだ。そして震えるのは止めて、なにか言え」
「で、なにを言えというんだ?」
「行こう、少しはましになった」
山道がいきなり曲がっていて、ミルトンは片側いっぱいに寄って、捕虜にした男の顔を注視しようとした。しかしあとになってみると、顔の高さに平らに上げられた両肘のせいや、歩行による揺れのために、灰色の目玉や目立つ小さな鼻くらいしか見て取ったとは言えなかった。そのことで苛立ちはしなかった。結局、彼には関心のないことだった。男の顔に彼の関心はなかった。それは彼の交換に応じるアルバのファシスト軍司令官も同じことだったろう。彼が下士官であろうと関係なかった。なんらかの軍服を身に纏った、男でありさえすれば充分だった。だが、なんという男、なんという軍服か! ミルトンは満足感をこめて、甘美さまで覚えながら、あの重々しくしかも弾力のある身体を仔細に眺めた。そして初めてあの軍服に、彼ミルトンの定めたゴールへと歩みゆくあの軍靴にさえも、親しみを感じた。なんて大きな交換通貨だろう、これでいったいどれだけの購買力があることか! あのような軍曹の対価としてなら、ファシスト軍司令官は三人ものジョルジョを彼に売ってくれることだろう、と考えているおのれに驚いてしまった。しかし同時にこうも考えて彼は驚くのだった。あの男は確実に殺している、確実に銃殺している、と言ったほうがよいかもしれない。やつの気配は銃殺者そのものだ。銃殺された少年たちのやせ衰えたあどけない顔々が、彼らのはだけた胸が、舳先みたいに突き出た胸骨さえ、やつの目の前にはまだ止まっている。おお、これもまた知らずにはおけない別の真実だった。けれども彼はそのことをやつに訊かないだろう。やつは必死になって否定しつづけることだろう。たぶん、コルト拳銃を押しつけながらならば、たしかに殺した、けれど正規の戦闘でだ、とやつは白状するかもしれない。しかしそうしたミルトンの尋問はきっとことを複雑にして、いまミルトンが望みをかけはじめたスムーズで迅速なマンゴへの歩行がさだめし遅滞をこうむることだろう。フールヴィアに関する真実こそが絶対的な優先権を有していた。それどころか、あの真実だけが存在したのだった。
「パトロール隊のことは忘れるんだな」と、催眠術に近い、優しい声でやつに言った。「ここいらに出張っていないことを祈れ。おれはおまえを殺さずに、保護してやろう。おまえには指一本上げさせないからな。おれたちのところには、辛い目にあった人びとがいて、おまえを手に掛けたがるだろうが、おまえに手出しはさせない。おまえにはひとつことだけに役立ってもらう。納得したか? 話せ」
「シ、シ」
「出身はどこか?」
「ブレッシャだ」
「おまえらはブレッシャ人が多いなあ。で、名前は?」
男は答えなかった。
「おまえはおれに名前を言いたくないのか? おれが自慢すると思っているのか? おまえのことはいまも今後二十年間も、決して話しはしない。決して自慢しないさ。言いたくないのならおまえの胸にしまっておくがいい」
「アラリーコ」と、軍曹が一息に言った。
「おまえは何歳で応召した?」
「二十三歳だ」
「ぼくの仲間の応召の歳だな。この点でも符合している。で、まえはなにをしていた?」
男は答えなかった。
「学生か?」
「まさか!」
山端は急速に高度を落とし、いまは消え失せて、山道は丘の斜面にすっかりその姿を晒していた。ミルトンは下のほうにカネッリを盗み見た。そしておのれが踏んでいたよりも少ししか遠ざかっていないのを悟った。村は、リフトの床が迫りあがるみたいに、彼の眼下に迫りあがってきた。
「山側に移れ。山肌すれすれに歩け」
別の急な曲がり角、しかし今度はミルトンはなにもせずに、やつの顔の大部分を見て取るどころか、見ないために目を伏せさえした。
軍曹が荒い息を吐いた。
「おれたちは半ば以上きた」と、ミルトンが言った。「喜ぶべきだぞ。おまえはますます救いに近づいているんだからな。明日の正午にはおまえは自由になって、またおれたちに敵対できるのだ。それに誰が知ろう、おまえはおれに仕返しできるかもしれない。まさしくおまえとおれだ。
ありえぬことじゃないさ、おれたちのやっている戦争ではな。おまえはむろんおれを交換しやしないだろうが、ええ?」
「いや、いや!」と、軍曹が山肌を擦った。否定するというよりはむしろ哀願していた。
「なぜ恥ずかしくなるんだ? 思うんじゃないぞ、おれがおまえのことをおれよりも残酷だと見なしているなんて。人それぞれが最大限を相手から抜きとることだろう。おれはおまえから最大限を抜きとって交換捕虜とし、おまえはおれから最大限を抜きとっておれの命を奪うことだろう。おれたちは完全に互角となるだろう。だから……」
「ノ、ノ!」と、あの男がくり返した。
「気にかけるな。気晴らしに、冗談を言ったまでだ。目下のことを考えるとしよう。おれはおまえを保護すると言った。到着次第、おまえに食べ物と飲物をやろう。タバコ一箱も進呈しようじゃないか。英国タバコだ、おまえには目新しいだろうが。髯もあたらせよう。おれとしたら、おまえにはアルバの司令部にしゃきっとして出頭してもらいたいからな、わかったか?」
「手を下ろさせてくれ」
「だめだ」
「縛られているみたいに脇にぴたっとつけておくから」
「だめだ、しかしあとで少しはましに扱ってやる。今夜はおまえはベッドで眠ることだろう。おれたちは麦わらのうえで眠るのだけど、おまえはベッドで眠ることだろう。おれ自身は戸口の前で見張りに立とう。そうすれば、眠っているあいだにおまえに悪さをするやつもいないだろうからな。そして明日の朝は、交換に、おれの仲間の最良の男たちがおまえに同行することだろう。彼らはおれが選ぶつもりだ。まあ、見るがいい。おれはおまえを虐待してはいないよな? 言え、おれはおまえを虐待しているか?」
「ノ、ノ」
「あのほかの男たちにおまえは会うだろう。みなと比べたら、おれは獣だよ」
彼らは頂近くに来ていた。ミルトンは時計を盗み見た。あと数分で二時になる。五時にはマンゴに着くだろう。ちらっとカネッリを見下ろしたとき、彼は短い眩暈に襲われた。その眩暈の渦のなかに最も多く流れこんだのが疲れか、絶食か、上首尾か、彼の知る由もなかった。
「おまえとおれはいまではいい位置にきた」と、彼が言った。
そうした言葉を聞くなり、軍曹ははっと立ち止まって呻いた。ミルトンが身震いして拳銃を握りなおした。「おい、なにをわかったんだ? おまえは誤解している。おれはおまえを殺したくはないんだ。ここでもどこかほかの場所ででもだ。おれはおまえを決して殺さないだろう。もうくり返し言わせるな。納得したか? 話せ」
「シ、シ」
「また歩きだせ」彼らは登って野っぱらに出てそこを縦断しだした。ミルトンにはその野原が朝見たときよりもだだっぴろく感じられた。朝と同じようにおし黙って閉じて無関心なあの一軒家を、ミルトンは横目で見た。軍曹はいまは盲ながら、野生の不断草を避けもせずに泥のなかを大股に歩いていった。
「待て」と、ミルトンが言った。
「ノ」と、あの男は言いながら、立ち止まった。
「止めないか、ええ? おれはあることを考えていたんだ。聞けよ。わが守備隊のいる村をおれたちは通り抜けねばならない。もちろんあそこにも火傷するほどに熱くなった人たちがいる。ことにおれの二人の仲間がいるけど、その兄弟たちをおまえらが殺したんだ。それがおまえらサン・マルコ旅団だったとは言わないがな。あの男たちはおまえの心臓を食らいたがるだろう。だから、おれたちはあの村を躱して行こう。おれの知っている谷間づたいに迂回して行こう。だが、おまえはおれに面倒……」
軍曹の指が恐ろしい音を立てながら項から解けた。両腕が白い空に羽ばたいた。こうして宙に浮いた男はぞっとさせるし、ぶざまだった。男は横っ跳びに、路肩めがけて飛んだ。しかも身体はすでに下へダイビングするなかで弓なりになっているように見えた。
「ノー!」と、ミルトンは叫んだが、まるでその叫び声が引金をひいたかのように、コルト拳銃が発射した。
男は膝のうえにくずおれて、一瞬、全身を縮めて、頭を隠して、小さな目立つ鼻だけが空に突き刺さったかのようだった。彼にもあの男にも、大地は関係ないかのように、なにもかもが白い空に宙吊りになって起こったかのように、ミルトンには思えた。
「ノー!」と、ミルトンは叫びながら、あの男の背中を貪ってゆく赤い大きな染みを狙って、また発射した。
11
雨があがったばかりのなのに地を剃るような風が凄まじく吹きつけたので、泥濘の床から砂利が剥がれて、路面を小川となって流れた。光はこの世界からほぼすっかり退いて、いくつもの風の渦巻ばかりが視界を狭めようと競りあっていた。
二人の男が二十歩ほどの距離をおいて向かいあって、見わけようとしてか、それとも機先を制しようとしてか、拳銃の革ケース近くに手をたらしたまま、前方にじっと目を凝らしていた。やがて、帆みたいにはためく迷彩レインコートを着て、一軒家の角から出てきた男のほうが、曲がり角の出口でぴたりと立ち止まった。そして草や木よろしく風にそよいでいる男のほうに、ゆっくりと拳銃の銃口を向けた。
「近寄れ」と、拳銃の男が言った。「両手を高く挙げて、打ちあわせろ。両手を打つんだ」と、風に負けまいと、いっそう大きな声でくり返した。
「おまえはファービオじゃないか?」と相手が聞いた。
「そういうおまえは?」と、ファービオが聞き返しながら、銃口を感知できないほどわずかに下げた。「おまえは誰だ? ひょっとして……ミルトンか?」
そしてまるで一方が他方の支えをもう一秒でも待てないかのように、狂乱したかのように、互いに駆け寄った。
「きみがこのあたりに?」と、トゥレッツォの守備隊の副司令官だったファービオが言った。
「きみをこのあたりで見かけなくなってから何世紀も経った。ぼくらは目と鼻の先の丘に暮らしながらいたずらに何世紀も会わずに過ごして…… いったいどうしてきみは私服なんだ?」彼はミルトンの私服を見わけるのに目を凝らさねばならなかった。それほどに泥まみれだった。
「ぼくはサント・ステーファノからやって来た。おのれの私的な用件のために」
風の侵略のせいで、彼らは声のかぎりに声を張りあげながら、そしてしばしば、相手が求めもしないのにわざわざ繰り返しながら、話していた。
「サント・ステーファノには今朝サン・マルコ旅団がいたぞ」
「きみはそれをぼくに言うのかい? 生命からがらベルボ川を飛び越さねばならなかったこのぼくに」
ファービオは心から笑った。すると、一瞬の間にその笑い声は風によって遠くへ、まるで一本の羽根みたいに、くるくると吹き飛ばされていった。
「ファービオ、きみのところに武器のない男はいるかい?」
「え、ないやつがいるのかい?」
「だったら、これをやってくれ」と、ミルトンは軍曹のベレッタ拳銃を彼に差しだした。
「たしかに。だが、きみはなぜこれをくれちまうんだ?」
「ぼくには重くなった」
ファービオはその拳銃を掌に乗せて重さを計り、ついで自分の拳銃と比べた。「こいつは立派だ。ぼくのより新しいぞ。明るいところでまた調べてみよう。ま、それまでは……」そしてファービオは軍曹の拳銃を革ケースに収めて、自分の古い拳銃はポケットに滑りこませた。
「重荷だったんだ」と、ミルトンが言った。「ファービオよ、ジョルジョについてはなにか知れたか?」
「なんて言ったんだ?」
「あの牛小屋に入って話そう」と、路肩の向こうのあばら屋を指さしながらミルトンが叫んだ。
「あそこにだけは入らないでおこうよ。なかにはぼくの部下たちが三人いて、みな疥癬もちだ! 疥癬だぜ!」
ファービオは向きを変えて風に背中を向けながら、まるで話し相手のミルトンではなしに、道端の溝のなかに伸びた男に話すかのように、半ば身体を捩って話した。「この風がなかったら、ここからでも彼らの呻くのが聞こえることだろう。罵り、呻きながら、熊みたいに壁に身体を擦りつけているのだ。ぼくはあのなかにはもう入りたくない。なぜって、掻いてくれってせがむからだ。木や鉄の切れ端をきみに突きつけて、それで掻いてくれってせがむんだ。爪で掻いてももう感じないんだ。五分まえにはディエーゴに絞め殺されるところだった。ぼくに鉄櫛を渡して、
それで掻いてくれって言うから、むろんぼくは断わった。そしたらディエーゴはぼくに飛びかかって首を絞めたんだ」
「ジョルジョのことを話そう」と、ミルトンが叫んだ。「きみは彼がまだ生きているというんだな?」
「その点については皆目わからない。ということは、彼がまだ生きているということだろう。やつらが彼を銃殺したのなら、誰かがアルバからぼくらに知らせにきたはずだ」
「こんなひどい天気では、誰も来ないかもしれない」
「その種の知らせはこんなひどい天気をついてでも誰か知らせにきたはずだ」
「きみによると……」と、ミルトンがまた言いだした。そのとき、一段と強烈な突風が彼を見舞った。
「あそこの裏手へ!」とファービオが叫ぶなり、ミルトンの肘に触れて、彼と一緒に、トゥレッツォの入口に聳える石組めざして突進した。
「きみによると」と、遮蔽物の陰に入るなり、ミルトンがまた言いだした。「彼はまだ生きているのか?」
「そうじゃないかな、皆目わからないのだから。やつらは彼を裁判にかけるのだろう。彼の家族は必ずや司教に介入を頼むだろうから、そうした場合には裁判が飛ばされることはない」
「いつやるのだろう?」
「そいつはわからない」と、ファービオが答えた。「ぼくが知っているのは、ぼくらのある男が捕まってから一週間後に裁判にかけられたってことだ。実際には、やつらは裁判所を出るやいなや、彼を銃殺してしまったけれどもね」
「ぼくは確実なことを知らねばならない」と、ミルトンが言った。「ファービオ、きみはなにひとつ確実なことをぼくに言ってくれていない」
まるで額と額を突きあわすかのように、ファービオが首を伸ばした。「だけどミルトンよ、おまえは気でも狂ったか? どうしてぼくがきみになにか確実なことを言えるんだ?それともきみは、ぼくがポルタ・ケラースカの遮断地点に出頭して、ベレー帽を手に……」
ミルトンが手を振って遮ったが、ファービオは終いまで言いたかった。「……ベレー帽を手に、こう言えとでも。《失礼、ファシスト諸君よ、ぼくはパルチザン・ファービオだ。諸君の礼節にかけて、教えてもらえはすまいか、ぼくの仲間のジョルジョはまだ生きているかどうか?》だけどミルトンよ、おまえは気でも狂ったか? ところで、きみはこんな下のほうまで、ただジョルジョのことを知りたいばかりにやって来たのか?」
「そうとも、きみたちが町に一番近いからな」
「で、これからどうする?トゥレイーゾに戻るのか?」
「きみらのところで眠るよ。明日、ぼくはアルバに接近して、町なかに少年を遣って情報を集めさせるつもりだ」
「ぼくらのところに泊まるがいい」
「だけどぼくは歩哨の輪番には加わりたくない。ぼくは今朝の四時から立ちずくめだし、昨日も丸一日歩いたからな」
「誰もきみに歩哨に立てとは求めないさ」
「それならどこで眠るのか示してくれ」
「ぼくらは散り散りになって眠るんだ」と、ファービオが説明した。「アルバが近すぎるし、やつらはいまでは夜間も行動するからな。ぼくらは全員が一か所には眠らないんだ。そうすれば、もしやつらがぼくらを不意に襲っても、一部しか虐殺されずにすむからな」そのうちに彼は石組から離れて、水中の枝みたいに風のなかで波うつ片腕で、闇のなかにうねる野辺の連なりの彼方の、トゥレイーゾに面した丘の麓の細長くて低い一軒家を指し示した。「第一級の厩舎があるし」とファービオがつけ加えた。「かなりの家畜がいてどの窓にもガラスが嵌められている」
「きみがぼくを送るのか?」
「その必要はない。そこでぼくらの仲間ときみは出会うさ」
「そのなかに誰かぼくの知りあいもいるかな?」と、ミルトンは尋ねた。仲間と一緒になる見通しにうんざりしていた。
ファービオは諳んじている名前のなかから選んでいたが、やがて言った。なかでも老マテーに出会うことだろう、と。
夜になったし、何千もの木々が必死に梢を鳴らしていた。まもなく小径を見失って、それを探そうともせずに、彼はふくら脛まで泥に塗れながら、真っ直ぐに野辺を突っ切った。決して近寄ってこない家の幻を凝視しながら、ひと所で足踏みをしている気分に彼は襲われたものだった。
泥濘の畑よりもさしてしっかりしていない麦打ち場にようやくたどり着いて、泥の一部を振るい落とそうと立ち止まったときに、トゥレイーゾの丘の黒ぐろとした正面が迫ってレーオのことを彼に思い出させた。──ぼくは彼からすでに一日くすねてしまったし、明日もう一日くすねることだろう。この世が終わってしまえばいい。誰が知ろう、どんなに彼は腹を立てて心配することだろう。しかし腹を立てて心配するのならまだしも、やがて彼はどんなに幻滅することか、わかりゃしない。ぼくにはどうしようもない。だけどほんとうに残念なことだ。彼はぼくに相応しいどんな形容詞を使ったものか、わからなかったのだ。さんざん頭を絞って彼はついにそれを見つけたっけ。古典的。古典的なやつ。彼も含めて、誰もが狼狽しきったときに、ぼくが冷静で明晰だったからって、彼はぼくが偉大だなんて言ったものだった。
苦い思いを呑みこみながら、厩舎の戸口に歩み寄って、荒々しく扉を押し開けた。
「あおーっ」とひとりの声がした。「静かにやってくれ。おれたちは心臓が悪いんだから」
彼は敷居のうえで立ち往生してしまった。厩舎のなかの熱気に息がつけなかったし、アセチレン灯の反射に目が眩んだのだった。
「まあ、おまえはミルトンじゃないか!」と先程の声がした。そこでミルトンはそれがマテーの声だとわかって、彼が最初に目にしたのもマテーのいかつい顔の輪郭とその優しい眼差しだった。
梁に吊るされた二つのカーバイドの明かりによって明々と照らしだされた、大きな厩舎であった。飼葉槽に六頭の牡牛が首を突っ込んでいて、囲い柵のなかには十頭ほどの羊がいた。マテーは厩舎の真ん中にいて、藁束のうえに腰を下ろしていた。他の二人のパルチザンは秣槽のうえに
坐って、寄ってくる牡牛たちの鼻面を膝で絶えず押し退けていた。もう一人は秣の大箱の底で眠っていて、大箱の板に寄せて広げた足が見えていた。台所への戸口近くには老婆が子供用の椅子に腰をおろして、糸巻棒で紡いでいた。その髪は紡ぎとった糸と同じ材質みたいに見えた。「奥さま、今晩は」と、ミルトンが言った。老婆の脇で袋を積み重ねた層のうえに男の子が跪いて、ひっくり返した盥のうえで宿題を書いていた。
マテーがおのれの脇に彼を呼んで、麦わらのうえを片手で叩いた。休息中だというのに、マテーは自分の武器はすべて身につけていて、登山靴の靴紐さえ緩めていなかった。
「ぼくがおまえさんを怖がらせたなんて言わないでくれよ」と、彼の脇に腰を下ろしながらミルトンが言った。
「誓って言うが、いまじゃ、おれは心臓が弱いんだ。この職業が心臓にかける負担は潜水夫よりももっと始末が悪い。おまえはまるで砲撃みたいな音を立てながら、戸を開け広げた。おまけに、おまえさん、自分がどんな顔をしているか、わかってるの? ちょっと聞かせな、鏡を見なくなってから大分経つんだろう?」
ミルトンは両手で音を立てながら顔を擦った。「きみらはなにをしていたんだ?」
「なにも、五分前まではおれたちは兵隊拳をしていた。五分前からいままではおれは考え事をしていた」
「なにについて?」
「おまえには妙に聞こえるかもしれないが、おれは捕虜になってドイツにいるおれの弟のことを思っていた。ここでおれたちが火に掛けられている一切合財にもかかわらず、おれはまさしく彼のことを考えていた。おまえは誰もドイツで捕虜になっていないか?」
「友だちと学校仲間だけだ。九月八日にやられたのか? 弟はギリシアにいたのか、ユーゴスラビアにいたのか……?」
「とんでもない」と、マテーが言った。「弟はアレッサーンドリアに、家のすぐ近くにいたのに、逃げられなかった。おれたちは人びとがローマから、トリエステから、地獄から帰りつくのを目にしたのに、アレッサーンドリアから彼は帰ってこなかった。おふくろは九月末日まで戸口に立っていた。いったいどんな事態だったのかわかりゃしない。言っておくが、弟はぼんやりどころか、おれたち兄弟のなかで文句なしに一番抜け目がなかった。いろんな算段、いろんな向う見ずを彼が教えてくれたんだし、なかにはパルチザン暮らしのなかでいまだにおれの役に立っていることだってあるんだ。まあ、おれの弟のことはさておき、言っておくがおれたちは、ドイツへ送られてしまったおれたちの人間のことをもう少し考えるべきだよ。一度だってそれが話題にのぼるのを耳にしたことがあったか、たったの一度でも? 誰ひとり彼らのことを思い出しやしない。しかし、おれたちはもっと彼らのことを、言っておくが少しは念頭においておくべきなんだ。彼らのためにも、おれたちはもそっとアクセルを踏みこむべきなんだよ。どう思う? 鉄条網のなかで身の毛もよだつありさまなのに違いない。地獄の下層カイーナにも似た飢えに苦しんでいるに違いないし、気が狂うことばかりだ。たった一日でも彼らにとっては由々しい、決定的な差となりうる。もしもおれたちがそれを一日でも早く止めさせられれば、誰かは死なずにすむだろうし、誰かは気狂いにならずにすむことだろう。彼らをできるだけ早く帰還させねばならない。そしておれたちはなにもかも語りあうことだろう。おれたちと彼らと、そして彼らには実に悲しいことだろう、ただ受身のことばかりしか語れないというのは、そしておれたちの活動に漲る物語を聞かねばならないというのは。ミルトンよ、おまえはこのことをどう思う?」
「そうだ、そのとおりだ」と、彼が答えた。「しかしぼくはドイツに送られた者たちよりもはるかに運のない男のことを考えていたんだ。まだ生きているのなら、ドイツ行きにだってサインするだろう男、彼にとってはドイツが酸素になるやもしれぬ男について。おまえはジョルジョのことを知っているか?」
「〈絹のパジャマ〉のジョルジョか?」
「なぜ彼のことを〈絹のパジャマ〉と呼ぶんだ?」と、飼葉槽に跨がっていた二人のうちの一人、リッカルドが聞いた。
「言うなよ」と、ミルトンが鋭く言った。
「おまえには関係ない」と、マテーがリッカルドに言い、それからミルトンに小声で。「どうしようというのだ? やつらが彼を捕まえたのを知ったとき、おれは麦わらのうえに寝るのにパジャマを着た彼のことを思い出さずにはおれなかった」
「だが、やつらが彼になにをすると、おまえは思うんだ?」
マテーは真っ向から目をぎょろつかせた。「おまえはなにをすると思うんだ?」
「しかしまず彼を裁判にかけるだろう」
「ああ、そうだ」と、マテーが言った。「そいつはたぶんそのとおりだ。それどころか、間違えなく、そのとおりだ。ジョルジョみたいなタイプはいつだって銃殺前に裁判にかける。それは、おまえを捕まえても同じことだ。おまえも裁判にかけるだろう、おまえならジョルジョよりも確
実に。おまえたちは大学生で、高級魚だ。開けるが楽しみの玉手箱だからな。おまえたちには裁判をするだろう。おまえたちには裁判をするのがやつらには好都合なんだ、わかるか? ところがこのおれや、あそこの後ろにいるあの二人は、やつらにとってそんな手間をかけるほど面白くないわけだ。だから、捕まえるや、たちまち壁に投げつけて、まだ宙を舞っているあいだに、撃ち殺してしまう。だがな、ミルトンよ、はっきりとさせておくが、おれがおまえを好きなのはそんな差があるからじゃないぞ。すぐにくたばるか、それとも三日後にか、それがどれほど違うってんだ?」
「ファシストの畜生め」と、男の子が言った。
祖母がその子を糸巻棒で脅しつけた。「二度と聞きたくないね。おまえはパルチザンたちの真ん中で呆れたことを学ぶものだ」
「これできないよ」と、彼が宿題のことを彼女に言った。
「もう一度やってごらん、きっとできるから。女先生はおまえができもしないことを宿題に出すはずはないからね」
飼葉槽のうえの二人のうちのもう一人、ピンコが言った。「マネーラの二股道で昨日の朝捕まったあの男の話をしているのかい?」
「昨日の朝なものか」と、ミルトンが指摘した、「一昨日の朝だ」
「いいか、おまえが間違えている」と、ミルトンを横目で見ながらマテーが言った。「あれは昨日の朝のことだったんだ」
「話しているのはあの男のことだろう?」と、ピンコが言い張った。「捕まったときの様子がおれにはどうも腑に落ちないなあ」
ミルトンが藁束のうえで身体を回した。「なにが言いたいんだ?」と言いながら彼は、ジョルジョを批判した、つまりはフールヴィアをじかに侮辱したようにも彼には思えたあの阿呆なよそ者を、目を剥きだして睨んだ。「なにが言いたいんだ?」
「おれが言いたいのは、あの男が、ブラッキーみたいに最後まで身を守って戦った男や、ナンニみたいに口に銜えて直ちに自決した男のタイプではなかったということだ」
「霧だったんだよ」と、ミルトンが答えた。「霧のために彼は戦うことも自決することもできなかった。事態を理解する暇さえ彼にはなかったんだ」
「ピンコよ」と、マテーが言った。「おまえは口を噤んでいるよい機会を逃したな。昨日の朝は見たこともない濃霧だったのを、もう忘れたのか? 彼に出くわしたのと同じように、ファシスト軍は立木にぶつかることも、牧場の牝牛にぶち当たることもできたんだぞ」
「霧のなかでは」と、ミルトンがきめつけた。「彼は男であることも他の何者であることも示すことはできなかった。肉体だけだ。だけど、彼が男だったことなら、ぼくはおまえに請けあえるぞ。せめて物理的に可能だったなら、彼だってナンニと同じようにきっと口に銜えて撃ったことだろう。そのことをぼくは一度この目で見た。去年の十月のことだった。ぼくらの誰もまだパルチザンに入ってなくて、パルチザンたちは半ば神秘だったころの話だ。あの十月に町がどんなだったか、おまえたちもぼくと同じように覚えているだろう。どの街角にもグラツィアーニ布告が貼りだされていて、ドイツ兵たちが機銃付のサイドカーでまだ走り回っていたころの話だ。また頭を擡げた最初のファシストどもに、認知されなかった憲兵たち……」
「おれは」と、ピンコが口を挟んだ。「そうした認知されなかった憲兵たちの一人から、おれは武器を取りあげたんだ……」
「おまえはぼくの話を終いまで聞け」と、ミルトンは歯並の奥で言った。
家族は彼らを天井裏や地下室に隠して鍵を掛けておくか、彼らを自由にさせておくにしても、ただ町なかへ出ただけで親殺しとなるような責任やら罪やらの話をするのだった。けれどもあの十月のとある晩、ミルトンとジョルジョはもう閉じ籠もって隠れているのに耐えきれなくなって、クレリチ家の女召使の手引で、映画を見にゆくことにした。ヴィヴィアン・ロマンス主演の映画がかかっていた。
「彼女を思い出すなあ」と、リッカルドが言った。「バナナみたいな口してたっけ」
「どこでかかってたんだ?」とマテーがくそまじめに聞いた。「エデン座か、それともコリーノ座か?」
「コリーノ座だ。ぼくはおふくろにちょっと下りていってタバコの闇をやっている隣人から巻きタバコを買ってくると言ってやったし、ジョルジョも彼の家族になにか似たようなことをでっちあげたことだろう」
彼らは近道を通って映画館へ行った。歩きながら怖くはなかったが良心の呵責で一杯だった。猫一匹出会わなかったし、彼らをさらに仰天させたのは天気がにわかに嵐模様になったことだった。まだ雨は降りださなかったけれど、稲光が凄くて刻一刻と街なかが菫色に溢れ返った。彼らは映画館に着いて、もうロビーにいるときからホールは無人に近いだろうと察しがついた。もぎり嬢は非難のしかめ面をして彼に切符を渡した。彼らは高桟敷にのぼって五人の先客を見かけたが、いずれも非常口近くに陣取っていた。ミルトンは高桟敷から身を乗りだして下の平土間を盗み見た。十五人ほどの観客がいたけれども、たいていはみな徴兵年齢や証明書類の悪夢とは無縁の年端のゆかぬ少年たちに違いなかった。しかしどの非常口も開け広げられていて、すきま風が吹きこもうが、外の雷鳴がうるさかろうが、お構いなしだった。
「その映画はどんな話だった?」とリッカルドが尋ねた。
「それは重要じゃない。ただタイトルは『盲た美女』だったとだけおまえには言っておこう」
第二部が終わる前に高桟敷に残っているのは彼ら二人だけになってしまった。ほかのわずかな観客たちは先に来て映画を全部観おわったのだった。新たに入ってくる客は皆無だった。ミルトンとジョルジョは移動して手摺りぞいの席に腰を下ろして、まさに平土間を視野に収めて、なにか相互の安全と連帯をはかろうとした。そのとき突然ロビーから叫び声と走り回る足音が聞こえて、平土間の連中は非常口に殺到した。《やられた!》とミルトンがジョルジョに言った。《呪われよ、ヴィヴィアン・ロマンス!》ミルトンは非常口に飛びついたが、外側から閉じられて、閂がかかっていた。肩で体当たりしてみたけれど、戸はわずかに揺れただけだった。下では騒動が続いて、むしろ大きくなった。叫び、走り回り、扉を叩きつけ、壁にぶち当たっていた。《やつらが高桟敷に上がってくるぞ!》とジョルジョに叫んで、通常の出口に突進しながら、やつらに先んじて階段に達し、外側のバルコニーに出て、四メートルほど飛び下りて中庭に着地することに望みを繋いでいた。突進はしたけれど手遅れだと確信していたし、最後の階段を四段跳びに駆け上がってくるファシストたちの真上に腹から飛びこむことになる、と思っていた。まっしぐらに突進していたのではあるけれど、最後の一瞥をジョルジョに送った。そして彼が手摺りに跨がって、すでに虚空に身を投げださんばかりなのを見た。
「おまえたちのうちでコリーノ座に行ったことのある者は、高桟敷から飛びおりたら平土間まで十メートルはあることを知っているだろう。それなのに、ジョルジョは下へ身を投げて、平土間の鉄の椅子のうえに叩きつけられようとしていたのだ。《止せ!》とぼくは彼に叫んだが、彼はぼくに返事さえしないで、ぼくを見ようともしないで、ぼくの前方の扉に眼を据えて、ファシストたちが雪崩れこんでくる瞬間を捉えようとしていた。ところが、下のほうからなにもかも鎮まった。何事も起こらなかった。つまりファシストは無関係だった。たんに切符売場で窃盗未遂があって、もぎり嬢が叫び立てて、雑用係たちが駆けつけてなどなど、だけのことだった。だのに、誰もがファシストによる一斉検挙だとばかり思ったのだった。しかし、事実は、証拠は残った。ファシストの最初の鼻面が覗いたとたんに、ジョルジョは身を投げて死んだことだろう」
ひとしきり沈黙があって、やがてマテーが言った。「もしもまだやつらがやってなければ、ジョルジョは自分で命を縮めそうな気がする。おれには監獄にいる彼の姿が目に浮かぶ。もしも彼がどうして捕まってしまったのか思い返したなら、怒りと絶望のあまり、彼は頭を壁に打ちつけて粉微塵にしてしまうことだろう」
またひとしきりの沈黙があって、やがて男の子が祖母に言った。「むだだよ、こんな作文、おいらには書けないよ」
老婆がため息をついてパルチザンたちを振り返った。「あんたらのなかで少しは先生のできる人が誰かいないかしら?」
マテーがミルトンを指さし、ミルトンは機械的に藁束から腰をあげてゆき、男の子のうえに屈みこんだ。
「その男は先生以上だよ」と、マテーが老婆に耳うちした。「その男はもろに教授だね。大学からまっしぐらに丘に登ってきたんだから」
すると老婆が。「まあ、なんてことかね。なんて立派な人たちをこの呪われた戦争はあたしらの貧しい土地まで引きずりこむものかね」
「題はなんだね?」とミルトンが尋ねた。
「樹木はぼくらの友だち」と、男の子が音節を切って発音した。
ミルトンはしかめ面をして身体を真っ直ぐにした。「ぼくにはできないな。すまないが、きみを手伝うことはできないよ」
すると男の子が。「あんたは先生で、おいらが…… でも、ファシストの畜生め! なぜ来たのさ、おいらを手伝えないのなら?」
「ぼくは……別の題かと……思ったんだ」
彼は厩舎の隅へ行って、藁束をほぐしに蹴りはじめた。眠らねばならなかった。十分くらいで不意に眠りこめばいいと思った。あの軍曹は気にならなかった。やつは自殺したのだった。彼は関係なかった。それに顔だって見てはいなかった。眠らねば、禍だ。彼は疲れきって、衰弱しておしまいだった。彼は一枚の葉よりも薄い、まるで濡れ落葉みたいなおのれを感じた。
あいかわらず飼葉槽に腰を落ち着けながら、リッカルドが大きな声で話していた。
「マテーよ、あんたは正確には何歳なんだい?」
「歳食ったものさ」と、マテーが答えた。「おれは二十五歳だよ」
「たしかに老耄だな。あんたはもう下の平地の肉屋向きだよ」
「馬鹿をこけ!」とマテーが言った。「そんな意味で言ったんじゃないぞ。おれが言いたかったのは、経験を積んでいるということだ。死んでゆく仲間をたくさん見すぎたからな。辛抱が足らなくて、女が欲しくて、タバコを吸いたくて、車を乗り回しながらパルチザンをするマニアのせ
いで」
ミルトンはあいかわらず手を眼のうえに乗せたまま、身を捩った。「明日。明日、どうしよう? どこへ探しにゆこう? だけど、それも無駄なことだ。軍曹が死んで、なにもかも終わった。こうしたチャンスは一度しか恵まれないものだ。しかしあの不運なやつ……やつはすでに発見されたのか、それともまだあの丘の上で闇のなかに病葉の下にひとり横たわっているのか、わかりゃしない。だが、なぜだ、なぜ? あいつは一途に思いこんでいた、ぼくらがパトロール隊の圏内にある間こそ甘いことを言うが遠く離れた途端にぼくがやつを殺す、と……不運なやつ! けれども明日、探すプランもなしにぼくはどのように過ごしたらいいのか?」
両手で耳の一部も塞いではいたけれど、ほかの男たちの会話がよく聞こえて、彼はそのことにひどく苦しんだ。
病気の老いた女教師の代理をさせに村に新たに送りこまれた若い女先生に、ピンコが話を導いた。ピンコは彼女が気に入っていたし、それはリッカルドも同じだった。
「あの可愛そうな女先生のことはそっとしておいておくれ」と、老婆が言った。
「でもなぜ? おれたちは彼女に悪さをしようてんじゃないよ。彼女によくしようってことなんだから」と、ピンコは笑った。
「どうかね」と、老婆が言った。「どうかね、そうしたことはみなきっと悪い結末に終わるんだから」
「あんたは老後の話をしているんだろうが」と、リッカルドが言った。「老後なんておれたちとは無関係だからね、どんな意味でも」
「女教師を笑おうってのか?」とマテーが言った。「女教師たちには用心しなよ、お若いの、なぜってファシズムの肉体化したカテゴリーだから。統領が彼女たちにいったいなにをしたのかおれは知らないが、連中の十人に九人までが女ファシストだ。その典型として、ある女教師の話を、おれはお前たちにすることもできるのだが」
「なら、話しなよ」
「爪の先までファシストだった」と、マテーが続けた。「ムッソリーニの息子を宿すことを夢みる手合いの女だった。おまけにあのグラツィアーニの豚めにいかれていた」
「ちょっと待った」と、ピンコが言った。「彼女は若かったのか、美しかったのか? すぐに知りたい大事なことだ」
「三十歳をこえていたけど」と、マテーが明かした。「女としては美人の部類だった。いくらかかたじしで、いくらか男っぽかったが、体つきはよくて、肉として上等だった。とりわけ肌の色艶が素晴らしかった。本物の絹だね」
「悪くないなあ」と、ピンコが言った。「もしも年寄りで醜女だったら、話さずにとっておいてくれて構わなかったんだ。それがこの世で一番面白い出来事だったとしてもね」
「女がわれわれに反対のプロパガンダをやっていることが知れたとき……待てよ。おれは言うのを忘れていたが、当時おれは〈赤い星〉に入っていたんだった。おれたちはモンバルカーロの丘の上にいた。山と呼んでもいいくらいに高い丘だがね。政治委員はマックスという名前だったけれど、アロンゾとかいう、スペイン内戦を闘って軍事委員だったとかいう男を助手にしていた。軍隊の階級に直すとなんなのか、おれは知らないが、スペイン内戦は真剣にやってきたようだ。三語に一語はスペイン語を挟むのだが、スペイン語を知らなくても、彼が強がっているのでないことはわかったよ。しかし彼がスペイン内戦を闘ったことが重きをなそうがなすまいが、重要なのは、彼が殺す男だったということだ。おれは彼が殺すのを見たけれども、かりに見たことがなかったとしても、彼が殺すのを欲して殺すことのできる男だということはわかったよ。それは彼の眼から、手から、口からだって、わかることだ」
あたりに同意のつぶやきが洩れて、やがてマテーがまた話しだした。「おれの言う女教師はおれたちの丘から十キロの、ベルヴェデェーレで暮らしてそこで教えていた。われわれに反対のプロパガンダをやっていることが知れたとき──そしてあの哀れな馬鹿女はまだ話し足らなかったんだな、とうに報せが届いているというのに──そこでマックス政治委員が最初の警告を彼女に送った。その警告を彼女に運んだのはおれたちの仲間の気のいい青年でな、その彼をあの女は面と向かって笑ったばかりか、悪口を浴びせかけてな、それも女教師が知るべきでさえないような悪口を見舞ったものだった。彼は反撃しなかった。所詮、相手は女だったからな。その後、報告があって、あの女は広場で、ファシスト軍は丘に登っておれたちを機関銃弾で皆殺しにせねばならない、と言ったそうな。おれたちは聞き流したよ。その次の折りには言ったそうな。ファシスト軍は火炎放射器をもって丘に登らねばならない、そしておれたちみなが焼肉になったのを見届けたあとならば喜んで彼女は死ぬ、と。そこでマックスは二度目の警告を彼女に送った。こんどの使者は前回よりもいくらかこわもての男でな、ところがその彼も前者と同様の歓待を受けてな、その場で女を撃ち殺してしまわないためには、罵りどおしで退却せねばならない始末だった。わかるだろう、この女教師は奇妙な変わり者だったよ。ひょっとしたら慰みになる女だったかもしれない。ただし、それもまだ心を苦しめる毒を持たぬ相手に対してだけだったろうけどね。こうしてあの女は以前と少しも変わらぬどころか、さらに酷くなっていった。そしてとある晩、おれたちは平地から引き揚げる途中だった──おれたちは寒くて飢えていたのに燃料一滴も見つからなかった。それがあの作戦行動の目的だったのにな──マックスがベルヴェデェーレでトラックを停めさせた。女教師の父親がおれたちに戸を開けて、即座に理解したよ。即座に理解して床に身を投げだしてそこで転げ回っていた。だからおれたちは彼を跨いで中に入ったんだが、彼は下からおれたちの足にしがみつこうとするんだ。その女房も出てきて、おれたちの前に跪いた。この世の正義はすべてあんたらのものだ、だけど娘だけは殺さないで、というんだな」
老婆が立ち上がって、幼い孫に言った。「おいで、寝る時間だよ」
「やだったらやだ、おいらはここにいて聞いていたい」
「寝るんだよ、すぐに!」そして糸巻棒の胴で孫を台所への潜戸に導いた。そしてパルチザンたちにおやすみを言い、つけ加えた。「明日の朝もあたしらが生きて目覚められますように」
マテーは彼らが出てゆくのを待って、続けた。「しかし、おれたちはあの女を殺さなかった。彼女は彼らの一人娘で、女教師の免状を娘に取らせるために、彼ら夫婦は多くの犠牲を払ったのだった。今後は、とあの女房が言うんだ。なにもかもほかのことは一切、台所仕事もやめて娘を自分が見張るし、幼い女の子にするように娘の口を塞ぐ、と。父親もまた声が出せるようになったのか、言ったものだ。彼は良い市民だったし、前大戦では良い兵士だった。イタリアには、受け取ったものよりも遙かに多くを捧げている、と。けれども彼は償いに、できもしない約束を口にしていた。娘のねじくれた考えを真っ直ぐにしてみせる、と。だが、マックスが答えた。それは不可能だし、もう遅すぎる。あなたの娘さんに関しては、とマックスが言った。まさしく大義への裏切りが臭うほどにまでわれわれは忍耐を重ねてきた。まさにそのとき彼女が、女教師が飛び出てきた。家のなかのどこかの穴に潜んでいたのだろうが、両親の嘆き声に辛抱できなくなったのだ。おまけに、彼女は並の男よりは勇敢だった。姿を見せるや、侮辱を吐き散らしだして、最初にそれを受けたのはマックスだった。唾さえ吐いたけれど、大多数の女と同じように、うまく唾を飛ばすことはできずに、唾液はおのれの薄手のセーターのうえに落ちた。スペイン人アロンゾがおれの脇、マックスのすぐ後ろにいて、耳うちしはじめた。《彼女を銃殺しろ、彼女を銃殺しろ、彼女を銃殺しろ》と、まるで時計みたいに規則的に言っていた。アロンゾがマックスの首筋に息を吹きかけるごとに、マックスは首を揺り動かしてすでに説き伏せられてしまったかのようだった。《やれるものなら、あたしを銃殺してごらん、醜い犯罪者め!》と女教師が叫んだ。
おれの脇にひとりの仲間が近寄って、まったく血腥くないタイプの男でな、言う。《マテーよ、ここで彼女を銃殺する、ほんとうにここで彼女を銃殺することになるぞ。だがな、おれには気に入らない。大袈裟だ。子宮でものを考えるたかが女には所詮、大袈裟すぎるぜ》。おれが言う。
《そうよな。だのに、この呪われたスペイン野郎が言い止まないものだから、しまいにはみな暗示にかかってしまうぞ》そのおれの仲間が言う。《実際、マックスをちらっと見ても、彼がしっかり暗示にかかってしまっていないかどうか、わかるだろうが》その間にただのパルチザン兵がマックスの前を通って、女教師のまえに出て、言う。《おまえはおれたちに火炎放射器での死を祈って、大変悪いことをした。火炎放射器でなんて、おまえは祈ってはならなかったんだ》、そして女教師が面と向かって笑ったものだから、彼はもう一歩前へ出てびんたを食わそうと、あのうすら笑いをガラスみたいに真っ二つに割ろうと、片手を上げる。しかしマックスがその手を宙で止めて言った。《止せ。彼女には大きな教訓を与えよう。中途半端な教訓はいまではなんの役にも立つまい》そして、《彼女を銃殺しろ、彼女を銃殺しろ》と、あいかわらずアロンゾがいまでは確信して囁いていた。するとあのおれの仲間がまたおれを振り向いて言う。《マテーよ、おれは彼女が銃殺されるのを見ていられない。なにかしようよ、後生だから!》そこでおれは彼におれの背中をアロンゾからカバーするように言って、前に出て、挙手して発言を求めた。《おまえがなんの用だ?》と汗ぐっしょりのマックスが言う。《おれは自分の考えを言いたい。民主的にだ。さて、政治委員よ、おれは彼女を銃殺にはしないな。所詮、子宮で考えるたかが女だ。罰としては、罰は罰だからな、ティトー一派がファシストと寝たスラブ女にやった罰をおれは彼女に加えたいね。彼女を丸坊主にしよう》マックスはぐるりとあたりを一瞥して、大多数がおれと同意見なのを見て、おれには安堵と感謝の眼差しまで送って寄越しながら、ところがこのときアロンゾが怒りで蒼白になって、おれの靴に唾を飛ばして、おれに怒鳴った、ラテロ!」
「ラテロってなんの名前だい?」とピンコが尋ねた。
「知るものか、いちどもそいつをおれに訳しちゃくれなかったからな。しかしおれはかっとなった。その名前のせいよりもむしろおれの靴にこびりついたあの汚い肺のひとかけらのせいでな。やつの胸に頭突きをかませたらアロンゾはまるで薄葉紙みたいにぐにゃぐにゃになった。おれはやつに飛びかかって、やつの面の皮でおれの靴をきれいに拭ってやったさ。おれが立ち上がると、マックスは黙りこんで、女教師はせせら笑っていた。わかるか、せせら笑っていたんだぞ。だが、マックスがこう言ったときには、《同意した、もう彼女を銃殺はすまい。よくよく考えてみれば、彼女は連射にも値しない。マテーの言うように、彼女は丸坊主にしよう》、そのときには、笑いを引っこめて、両手を頭にやって、すぐに手を退けた。まるで丸刈りの悪寒を早くも感じとったかのように。ポーロという名前の男がその作業を引き受けて、女教師の母親に鋏を求めた。老婆はすっかり魂を奪われていた。おれたちが娘を銃殺しないのを喜んでいたがそれと同時に娘におれたちが加えようとしている侮辱の新奇さに肝を潰していた。だから、ポーロの言うことに注意しなかった。《おばさん、急いで》と、老婆の脇腹に触れながらポーロが言っていた。《髪の毛はまた生えてくるけど、生命は無くせばそれっきりだ》。その間に彼女を掴まえて、椅子に跨がって坐らせた。スカートがめくれ上がって、腿が半ば露わになった。ピンコよ、おまえには気に入ったことだろうさ、おまえは実質と深みの味方だものな。自転車競技の選手みたいに力強い腿だったよ。ポーロはとっくに鋏を握っているのだけど、女教師が頭を左右に振るのでポーロは仕事にかかれなかったし、実際ポーロは二人ほど呼んで彼女をしっかり押さえてもらわねばならなかった。鋏は大きなうえに刃がなまっていたから、カットしづらくて厄介だった。とにかくポーロは刈っていって頭蓋が見えはじめた。お若いの、決して女の丸刈りなんぞに立ち会うんじゃないぞ。刈りあげられたその南瓜を決して見るなよ。頭に浮かべようともするな。それはあらゆる馬鈴薯のなかで最も醜い馬鈴薯だし、その印象がほかの身体全体に拡がってゆくんだ。しかし、どんなにぞっとさせようと、そこにはひとつ男を釘づけにするものがあってな。おれたちはみな催眠術をかけられたかのように、凝視していた。そして女教師はもう手向かわなかったけれども、いまでは嗄れていっそう凄味を帯びた声で、おれたちを侮辱し呪いつづけていた。おれたちの誰かがこっそりと外に出て、トラックのほうに戻っていった。女教師はなおも苦痛かそれとも官能のゆえか、いくらか動いて、スカートがさらに捲れあがって、いまはガーターが見えていた。マックスが汗を拭って、ポーロに速くしろと言っていた。ポーロは切れない鋏の愚痴をこぼして、こんな任務を引き受けてしまった自分を呪っていたし、その指先は金属に圧迫されつづけて紫色に変わっていた。女教師はいまでは疲れ果てて、女の子みたいにただ呻くばかりだった。父親はソファーのうえに身をこごめて、両手で頭を抱えこんでいたが、その手指の隙間から、床のうえに雪みたいに重なり落ちる娘の髪の一房一房を意味もなく見つめていた。母親は〈聖母マリア〉の小画像のまえに跪いて、飛びあがらずに、もう泣きもせずに祈っていた。彼女、女教師を、その頭をおまえはもう見るに耐えられなかった。おれたち仲間のほぼ全員がその場を立ち去った。おれも外に出て、彼らがなにをしているのをおれが見たか、おまえらにわかるか? 彼らは村に背を向けて、真正面に谷間を見て、一直線に並んでいたよ。すでに夕闇が立ちこめていたけれど、おれは彼らのしていることを実にはっきりと見たよ」
「彼らはなにをしていたのさ?」とピンコがたずねた。
リッカルドが指先で彼の喉を軽く叩き、マテーはピンコに面と向かって眼をぎょろりとさせた。
「言ってくれ、彼らはなにをしていたんだ」と、ピンコが重ねて言った。
「ピンコよ、おまえは散々、ぶっていたが、その実からっきしだな。おれの言うことを聞くんだ、ピンコよ。パンをお食べ」
長い沈黙があった。すでに熱気は減じて薄らいでゆき、大半の家畜は眠りこんで睡眠中の節約した呼吸に移っていた。やがてリッカルドが、ピンコに向かってささやいた。「おれはたったひとつことだけ信心している。そいつはな、戦闘中以外は決して殺すなってこと。もしおれが冷血に人を殺したら、おれも同じように冷血に殺されてしまうことだろう。そしてこれがおれのたったひとつの信心なんだ」
それから外の世界じゅうに長い振動が聞こえて、一瞬後には雨が屋根のうえをタンバリンを鳴らすみたいに叩いた。急速に土砂降りに降りだして、マテーは満足そうに老耄みたいに揉み手をした。寝しなに、麦わらのうえにうつ伏せたミルトンを一瞥した。きっともう眠っているのだろう。関節という関節が小刻みに震えて、手足は絶えず寝わらを鋤き返してはいるけれども。
しかし、ミルトンは眠っていなかった。フールヴィアの別荘の女管理人の言ったことを思い返しながら、脳が分解してゆくのをひしひしと感じていた。《だけど、ぼくはなにもかも勘違いをしたのではないだろうか? ぼくは誇張しなかっただろうか? ぼくはよく理解して、よく解釈したのだろうか? ぼくの脳は分解してゆくけれど、思いを凝らさねばならない。女管理人はなんと言ったのか? フールヴィアとジョルジョに関するあれらの言葉をあの女はまさしく言ったのだろうか? そうとも、そう言ったのだ。“……”と言い、さらに“……”と言った。そう言ったときの女の口許の皺までぼくはいまも目の当たりに思い浮かべられる。さて、ぼくが誤解したということは、ありえないのだろうか?まるで別の意味をそこに付与してしまったのではないだろうか? とんでもない。意味はあのことであり、あのことだけが唯一の可能な意味なのだ。ある……特定の……親密な……関係。待てよ。女管理人がそこまで言おうとしたのだろうか、それとも女にそこまで言わせたのはぼくだったのだろうか? 誇張しなかっただろうか、ぼくは? いや、いや、女ははっきりと話したし、ぼくは正しく理解したのだった。しかし、なぜ女はぼくが知ることを望んだのか? そうしたことはふつうまさに当事者には口を噤んでおくことなのに。女は知っていた、ぼくがフールヴィアに恋していたことを、そしていまも恋していることを。まさしくあの女が、知らないはずはなかった。そのことなら番犬が知っていた。別荘の壁が、セイヨウミザクラの葉叢が、ぼくがフールヴィアに恋していたことを知っていた。とりわけ、ぼくが彼女にした話の半ばまでを立ち聞きしていたあの女が、知らないはずはないではないか。で、それなら、なぜ女はぼくが迷夢を醒まして、心の安らぎを取り戻して、目を開けることを望んだのか? 好感ゆえにか? なるほど、女はぼくにいささか好感を寄せていた。だけど、好感を覚えたくらいであのような役を買って出るものだろうか? 女のああした言葉が銃剣みたいに一方の端から他方の端までぼくを貫いたことを、あの女は知るべきだった。あんなにも不意に、ぼくを端から端まで貫く、どんな必要があの女にあったのだ?たぶん、女はあの時がぼくにとってより危険の少ない、最も適した時だと考えたのだろう。ぼくがただの青二才でいたあいだは、女はぼくにそのことを話したがらなかった。だが、ぼくに再会して、女は考えたに違いない。ぼくはもう一人前の男だ、戦争がぼくを男にしたからには、いまではぼくは耐えられるはずだ、と……おお、そうとも、なんとぼくは立派に耐えたことか。ほんとうに、裸で無防備の幼子みたいに、ぼくはおのれを刺し貫かれるにまかせてしまった。あの女が真剣に、真実の心から、話したのであればいいのだが。いい加減に、でまかせに言ったいくつかの言葉のうえに、疑惑と苦しみの世界をぼくに築きあげさせたのでなければいいのだが。また同じように、たぶん、フールヴィアさえもが、やはりその場の思いつきで言ったいくつかの言葉のうえに愛の世界を、すっかりぼくに築きあげさせたのでなければいいのだが…… よせ、よせ、よせ。ぼくは病気だったんだ。明日、なにをすべきか、どこへ行くべきか、なにを解決すべきか、わからなかったばかりに。だが、いまはぼくにはわかっている。明日、なにをおのれがするのか。ぼくはフールヴィアの家に戻って、あの女管理人にまた会い、あの話を逐一正確にくり返させてやる。そのあいだじゅう女の眼を覗きこんで、瞬きひとつするものか。女はぼくになにもかもふたたび告げて、あのときには告げなかったことをもつけ加えて、ぼくに話さねばならないことだろう》
12
きっかり午前九時だった。空はあたり一面、白い仔羊たちの斑雲でびっしりだったが、いくつか鉄の灰色をした隙間があって、そうした雲の切れ目のひとつに月がかかっていた。あちらこちらを食い千切られて透けてみえる、長いあいだしゃぶられた飴玉にも似た月だった。雨気は見るからに空の最後の層を圧迫していたけれども、たぶん、と中尉は思った。最初の驟雨が降りかかるまえに、事は終えていることだろう。
中尉は殺されたアラリーコ・ロッツォーニ軍曹ゆえに灼熱の間と化しつつあった下士官室を通りすぎて中庭中央に赴き、そこからパトロール班軍曹に合図した。
「ベッリーニとリッチョを中庭へ」と、彼のまえに立った軍曹に言った。
「ベッリーニは屠殺場への作業班に同行して外であります」
で、こうしてリッチョが最初となった、と中尉は思った。あの二人のなかでは、ベッリーニの十五歳にもまだ達していない、ずっと子供のまさしくリッチョが。
「リッチョをここに連れてこい」
「炊事場か、地下室にいるはずです。見かけたか、いま聞いてみます」と、軍曹が答えた。
「事を広げるのはよそう。おまえ自身で彼を探せ。そして彼に言え、中庭に……取り除くものがある、と」
軍曹が眉間に皺を寄せて、将校を固有の仕方で睨めつけた。軍曹が最小限の親密さをあえて示すことを厭わなかったのは、二人ともマルケ人であったからでもある。中尉は目顔で彼に答えた。すると軍曹は司令部の窓辺の側を盗み見て、それから言った。「自分はロッツォーニの仇を討つことに同意であります。自分が彼の仇を討ちたくないわけがありません。しかし、丘のうえで自由に傲慢に屯しているあの私生児どもの大物の一人のうえに、彼の仇は晴らしたいのであります……」
「仕方があるまい」
「あの二人は餓鬼です。あの二人は伝令でしたが、遊び半分の年端もゆかぬ少年であります……」
「仕方があるまい」と、中尉が重ねて言った。「司令官がこのように命令したのだ」
軍曹が炊事場のほうへ離れ、中尉は手袋を強くひっぱって抜きとると、ゆっくりと嵌めなおした。彼は口を挟まなかったが、それはサルデーニャ人の大尉が少しも言わなかったせいでもあった。二人とも軍靴の踵を打ち合わせた。「やつは淫売のせいで殺されたのだ」と、司令官が言った。
「やつを不愍には思わないが、それでも報復はする。しかも即座にいま手許におる敵の人員で報復する。わしの兵士の誰ひとり、いかなる斃れかたにせよ、その死は報復されずにはおかぬ」
彼らは踵を打ち合わせた。だがそれからその任務は彼に下って、サルデーニャ人の大尉のほうは、住民に知らしめるようカネッリじゅうにその日の午後貼りだす告示の文言の作成に留まった。
マスコットの牝のシェパードが鼻先を地面すれすれにして、側対歩で中庭を横切った。中尉は犬が走るのを目で追うのをやめた。泥濘のなかをリッチョが木靴で歩いてくる足音を聞きつけたのだった。少年は迷彩色の半ズボンを穿き、兵隊の食事のはねや乾いて固まった汗に汚れて、すっかりぼろぼろになったメリヤスを着ていた。髪の毛を長くのび放題にしていたものだから、後ろでお下げみたいになっていて、ものの一分と経たないうちに、やたらに頭を掻きむしるのだった。
「気をつけ、をしろ」と、軍曹がリッチョに言った。
「ほっておけ」と、中尉がささやいた。そしてリッチョに向かって。「おれと一緒に中庭をちょっと散歩しな」
「でも、中尉、その取り除くものって、いったいどこにあるのさ?」と、小柄な少年が掌に唾を吐きかけながらたずねた。
「ものなものか」と、中尉が喉を鳴らした。
数歩歩いてから、リッチョの顎が腫れあがっているのに気がついた。「殴られたのか?」
痛いのに可笑しげな閃きが、リッチョの狡くて素直な眸を過った。「叩かれたりするものか」と、彼が答えた。「いくら腫れあがったって、こんなのはただの歯痛さ。いいや、おいらを叩かなかったどころか、ピラミドン鎮痛剤をくれたよ」
「痛むのか?」
「たいして。いまじゃ、ピラミドンが効きはじめたから」
中庭は彼ら二人のほかに人けがなく、マスコットの牝犬があいかわらず鼻面を地面に、いまは馬みたいに走り回りながら、囲い壁すれすれに谷川に向かった。中尉は承知していた。あの壁の裏手にいまごろは到着するところで、まだ着いてなければ、軍曹が……
「いったいどこに取り除くものがあるのさ?」とリッチョがまたたずねた。
「ものなものか」と、中尉がこんどははっきりと答えた。
柱廊から兵士が三人現われて、小銃をTの字に下げてリッチョの背後に進んできた。
「おいらとベッリーニを、わけもなく外へ出してくれたことは一度もなかった」と、リッチョが言いながら、額を掻いた。
「おまえは聞きわけねばならない」と、中尉が言った。
リッチョは聞き耳をたてたが、すぐ後で、彼の背後に来て止まった三人の兵隊のほうをぱっと振り返った。
「で、あの三人は……?」と、リッチョが年寄りじみたしかめ面を浮かべて言いかけた。
「そうだ、おまえは逝かねばならない」と、中尉が性急に言った。
「死ぬの?」
「そうだ」
幼い少年は片手を胸のうえに置いた。「おいらを銃殺する。でもなぜ?」
「覚えていようが、あのときおまえは死刑を宣告されたんだ。きっと覚えているはずだ。それで今日、判決を執行する命令が下ったのだ」
リッチョは呑みくだした。「だけど、おいらは思っていた。あの判決のことはあんたらはもう考えもしないんだ、と。四ヵ月もまえのことだ」
「あいにくと、これは取り消せるようなことじゃないんだ」と、中尉が言った。
「だけど、あのときに執行しなかったのなら、その判決をなぜいまになって執行したいんだ? あの死刑宣告はいまとなっては無効も同然だ。あんたらがあのとき執行しなかったからには、あれは無効にされたも同然だ」
「無効にはされなかったんだよ」と、中尉がいっそう優しく言った。「ただ見合わせていただけなんだ」そしてリッチョの頭ごしに三人の兵隊の顔つきを注視して、彼がこんなにも委曲をつくしててまどっていることを兵がよしとするのか、それともいまいましく思っているのか、読みとろうとした。そして三人のうちの一人が、半ば不快そうに半ば皮肉に、司令部の窓辺のほうを盗み見ているのを見た。
「でもおいらは立派に振舞ってると思っていた。この四ヵ月間おいらは立派に振舞ってきた」
「おまえは立派に振舞ってきた。実際に」
「じゃ、それなら? それならなぜおいらを殺すんだ?」二粒の涙が少年の目の隅に湧きだして、こぼれ落ちずに、どんどん果てしなく大きくなった。「おいらはたったの十四歳だ。あんたらも知ってのとおり、おいらはたったの十四歳だし、そのことは考慮されるべきだ。それとも偶然になにかおいらの以前のことで見つけでもしたのか? あんたらの見つけられたことなんて、まるで真実じゃない。おいらは決してなにひとつ悪いことはしなかった。それにおいらは悪いことをするのを見かけたことだってない。おいらは伝令使をやっていた、それだけだ」
「おまえに言っておかねばならない」と、中尉が釈明した。「わが軍の一人が殺された。おまえも知っているロッツォーニ軍曹だ。この正面の丘のうえのおまえらの一人が彼を殺したんだ」
「畜生!」とリッチョがかこった。
「たしかに」と、中尉が言った。「そいつをこの手で捕まえることさえできたなら」
リッチョは必死になって唾を絞りだそうとした。舌がからからに乾いてもう一言も発せられないというのに、すぐにまた話しださなくては中尉が進めと合図するかもしれないのがわかっていたからだ。ようやく立ち直って、言った。「お気の毒だ、あの軍曹はお気の毒だ。だけど、おいらがここのなかに入って以来、まえにもなんどか、あんたらに死人が出たのに、だからってそのときにはおいらに仕返ししようなんてしなかった」
「こんどはそうなんだよ」
「あんたらは覚えているだろう、兵士ポラッチが死んだときのことを」と、リッチョが追い討ちをかけた。「おいらは彼のために、あれを、霊柩台まで作ってやって、あのときにはあんたらはおいらに嫌な目つきひとつしなかったのに」
「こんどはそうなんだよ」
リッチョは両手でメリヤスを絞った。「でもおいらは関係ない。おいらはたったの十四歳で、伝令をやっていた。本当のことを言うと、まだやっと二度目の伝令に発ったときに、おいらは捕まってしまったんだ、誓うよ。おいらは関係ない。だけど命令は、おいらに関する命令は、誰からくだったの?」
「それをくだせる唯一の者からだ」
「司令官か?」とリッチョが言った。「おいらはなんどもあんたらの司令官を見かけている、まさしくここ中庭でね。そして司令官はおいらに嫌な目つきを決してしなかった。一度おいらに鞭を見せつけたけれど、笑っていた」
「こんどはそうなんだよ」と、中尉はため息をついて、三人の兵隊を注視する力もなかった。
「おいらは司令官と話したい」と、リッチョが言った。
「できない。それに無駄だ」
「彼はまさにこうしたいの?」
「そうとも。ここでは彼の望むままに何事もなされ、彼の望まぬことは何ひとつなされない」
リッチョは無言で泣きだしながら、ポケットを探ったが、赤いスカーフはなかった。
「だけどおいらは」と、目もとを指でぬぐいながら、言った。「おいらはいつも立派に振舞ってきたし、あんたらが命令したことはなんでもいつでもやってきた。箒で掃き、長靴を磨き、汚物を捨て、荷物を上げ下ろしして……で、いったい、いつなの?」
「すぐにだ」
「いま?」とふたたびもろ手を胸にあてながらリッチョが言った。「いやだ、いやだ、そいつは酷すぎる。待てよ。銃殺はおいらだけなのかい?ベッリーニはしないのか?」
「ベッリーニもだ」と、中尉が答えた。「命令にはベッリーニも含まれている。屠殺場に彼の身柄を確保しに向かっているところだ」
「かわいそうなベッリーニ」と、リッチョが言った。「で、彼を待たないのか? なぜ彼を待たないのか? そうすればせめて一緒に逝かれるのに」
「命令だ」と、中尉が言った。「われわれは待つわけにはゆかない。仕方がない……さあ、リッチョ、歩きだせ」
「いやだ」と、リッチョが静かに言った。
「進め、リッチョ、勇気をだせ」
「いやだ、おいらはたったの十四歳だ。それにおいらの母親に会いたい。おお、お母さん。いやだ、ひどすぎる」
将校が三名の兵を一瞥した。二名は、理解し、憐れみゆえに早く終わらせたがっていた。残り一名は半ば皮肉に半ば怒って、彼に言うかのようだった。「おれたちにはそんなにも御託を並べやしない。おれたちには万一あったとしてせいぜい皮肉な前口上があるくらいのものだのに、おまえはこの餓鬼に憐愍の前口上を並べている。立派な将校さんよ。だが、おまえはおれたちの側が間違っていて、おれたちはおしまいだと疾うに考えている輩だ。だが、それでおれたち兵はどうなる?おれたち〈統領〉の兵隊は石や木の股から生まれたのか?」
「進め、勇気をだせ」と、中尉がくり返しながら、三人目の兵隊を注視した。この男は母親とはまったく正反対なのにまさに母親と同じ姿勢をとって、リッチョを懐に受けとめるかのように体を開いていた。
「いやだ」と、リッチョがますます落着いて言った。「おいらはたった十四……」
そのとき中尉が眼を固くつぶって、少年の肩を強く突き飛ばしたから、リッチョはあの兵隊の懐にまっしぐらに落ちこんで、あと二人の兵隊がまるで棺の蓋よろしく彼の身体を閉じこめてしまった。こうして彼らは少年の叫び声さえ詰まらせてしまい、あの縺れた身体の束からは、いた
いけな少年の宙に弧を描く両脚しか出てこなかった。
こうして彼らは荷車の出入口へと歩みゆき、中尉が鉛の足を引きずりながらそのあとを追った。
「人殺し! 母さん! こいつらがおいらを殺すよ! 母さん!」リッチョの叫ぶ声がはっきりとあたりに聞こえた。
あの呪われた荷車の出入口へ彼らは決して着かなかったけれど、軍曹はすでにそこで待ち構えていたに違いなかった。なぜなら外側から押されて、戸が半ば開いたからだ。
にわかにあの縺れた身体の束が、その真ん中で破片爆弾が炸裂したかのようにほぐれて、できたての空き地に半裸のリッチョが現われて、指を突き立てながら、将校をじっと睨みつけた。
「おいらに触るな!」と彼にふたたび掴みかかった兵隊たちに叫んだ。「ひとりで歩く。だけど、もうおいらの身体に触るな。ひとりで歩く。ベッリーニも銃殺するのなら、このおまえらの呪われた兵営においらは誰と一緒にいられる? もうおいらを見ることはないだろう。もう一分間だって耐えられやしない。おまえらに銃殺してくれと頼むよ。兵隊どもがおいらから遠く離れるようにな! おいらはひとりで逝くよ」
中尉が兵隊に彼に近寄るなと合図した。そして実際にリッチョは荷車の出入口へ向けて、手の届くくらいまで、数歩後ずさりした。
「もうひとつ」と、リッチョが言った。「牢獄においらの母さんが差し入れてくれたパイがある。おいらはそれをまだ味見しただけで、上っ皮を食べただけだ。そのパイをベッリーニに残しておきたいところだけれど、ベッリーニはおいらのあとからやって来る。だから、おまえらの呪われた牢獄へこれから入ってくる、最初のパルチザンにそのパイをやってくれ。おまえらのひとりがそのパイを食べたなら、禍あれ!」
少年は谷川に出て、兵隊たちが通用門の扉をまた閉めた。中尉はほんの一瞬間だけじっと佇んだが、すぐに急ぎ足で中庭の中央に戻った。だが、そこでもじっとしてはおられなかった。まるで連射が壁をとおして彼をも撃ち殺すことができるかのように。彼は大股で遮蔽物のほうへ、士官食堂へ向かった。彼が食堂の角へ達したときに、連射音が弾けた。
兵営の誰もがすでに銃殺のことを知っていて、身構えていたに違いなかった。なぜなら、なにひとつ動きがなかったからだ。好奇の声も、呼び声もせず、窓辺に覗く人影もなかった。カネッリじゅうのざわめきがぴたっと途絶えた。
中尉はすっかり逆立ってしまった髪の毛を片手で押さえつけながらゆっくりと、無気力に衛兵詰所めざして歩いていって、ベッリーニを待った。
13
その時刻にミルトンはアルバてまえの最後の丘のうえのフールヴィアの別荘にむけてすすんでいた。すでに道のりの大半をこなして、あの家を最初に見た丘の頂は彼のはるかうしろにあった。雨のカーテンのヴェールごしに見たその家は幻影みたいだった。かつてないくらいに垂直に、野性的に雨がふっていた。道ははてしない泥水のたまりで、そのなかを彼は谷川を縦にゆくかのようにかち渡ってゆき、野辺や植生は雨によって犯されたかのように熟れすぎてひれふしていた。雨音が耳を聾していた。頂から彼は小さな谷に身を投げだして制動をかけるどころか、さらに勢いよくすべり落ちていった。両手で拳銃を舵みたいに握りしめながら、ふくれあがって波うつ斜面を、二度ほどはそれぞれ十ないし十二メートル背中ですべりおりた。それから小さな丘をふたたび登りだしたが、その頂に立てばまた彼女の家が見えるはずだった。全力で大股に歩くのだけれど、それでも子供の小さな歩幅みたいにはかどらなかった。しかもそのあいだに彼は咳をしてうめいていた。《だけど、いったいなにをしにあそこへぼくは行くのか? 今朝の夜なかはぼくは気狂いだった。きっと熱のせいで錯乱していたのだろう。明らかにすべきこと、掘りさげるべきこと、救うべきことなんてなにひとつありはしない。そのことに疑いはない。あの女のことばの一語一語、そしてその意味、その唯一の意味は……》頂について視線をのばすまえに、雨が交互に貼りつけてはゆさぶった髪の毛をひたいからはらいのけた。ほらあそこに、直線距離で二百メートルほどのところに、丘にそびえるあの別荘がある。なるほど厚い雨のカーテンがあの家を醜悪にするのに力を貸してはいたが、それにしてもあの家がこの四日間のうちに一世紀分ほども衰微したかのように由々しくいたんで腐って決定的に醜いのを彼は見てとった。壁という壁は鼠色がかって屋根は黴がはえて腐り、あたりの植生はうんで激しくゆさぶられていた。
《あそこにぼくは行く、それでもやはりぼくはあそこに行く。ほかになにをすべきかぼくにはわからないし、ぼくはなにもせずにはいられない。農夫の少年を町へやって、彼のことを探らせよう。少年に言おう……ポケットに残っているはずの十リラを少年にやろう》
斜面の下へ身をおどらせて、たちまち別荘を見うしないながら、橋の下流の谷川の岸まですべりおりた。かち渡り用に配置された岩々のうえ一掌尺を川の水が流れていた。凍るように冷たい泥の水にかかとまで漬かりながら岩から岩へと渡っていった。やがて四日まえに、イワンをひきはなしながら駆けぬけた小径にさしかかった。平地では雨の激しい怒りにこたえるかのように、激しい怒りを胸に彼は歩いていった。《ぼくはなんてありさまなんだろう。ぼくは内も外も、泥まみれだ。ぼくの母親だってぼくと見わけがつかないことだろう。フールヴィアよ、きみはこんなことをぼくにすべきではなかったのだよ。ことにぼくのまえに立ちはだかるものに思いをいたすならば。だがきみは知るはずもなかった。ぼくのまえに、そして彼やほかの若者みなのまえにいったいなにが立ちはだかっているのかを。きみはなにひとつ知ってはいけない、ただぼくがきみを愛していることのほかには。だが、ぼくは知らねばならない、きみの魂はぼくのものかどうかだけは。ぼくはきみのことを想っている。いまでさえこんな状況のもとでさえ、ぼくはきみのことを想っている。きみは知っているのか? もしぼくがきみのことを想うのをやめたなら、きみはたちどころに死んでしまうことを。でも心配にはおよばない、ぼくはきみのことを想うのを決してやめはしないのだから》
あとから二番目の崖を、目をつぶって身体をふたつに折って登っていた。頂上にでたとわかったら、ぱっと身をおこして、眼を瞠ってたちまち彼女の家を彼の視野いっぱいにおさめることだろう。雨粒が鉛弾みたいに彼の頭をたたいて、ときおり彼は癇癪をおこして叫びたくなるのだった。こうして彼はなかんずく彼の左手三十歩の畑のなかを、生け垣に隠れて彼にむかってすすみくる人影を見なかった。若い農夫で、あの泥のなかを爪先で歩きながら、猿みたいに身をこごめて敏捷でいつでも一散に駆けだすくせに決して身をおこそうとはしないかのようだった。まもなくその人影は雨のなかに溶けこんでしまった。
彼は頂上についてすぐさま別荘を見あげながら、立ちどまらずに、ほとんどつまずくように最初のくだりにかかった。身体の平衡をとりもどそうとしながら視線をたいらにもどして、目のまえに兵隊たちを見た。彼は小径のまんなかにぴたっと立ちどまり、両手は腹におしつけていた。
五十人くらいの兵隊で、野辺一帯、四方八方にちらばり、ひとりだけ路上にいて、全員が銃をかまえていたわけではなく、みなずぶ濡れの迷彩服をきて、彼らのぴかぴかの鉄兜のうえで雨が粉状にくだけていた。最もまぢかにいたのは路上のあの兵隊で、彼から三十メートルのところでまるで寝かしつけるかのように小銃を肩と腕のあいだにかかえていた。
だれもまだ彼に気づいておらず、彼もふくめてだれもが夢幻の境にいるかのようであった。
親指の爪ではじいて革ケースのボタンをはずしたが、彼は拳銃をぬかなかった。最も近くの兵隊が雨粒にさまたげられた目を彼に転じた、その瞬間、ミルトンはそっけなくまわれ右をした。急をつげる叫び声はとどかずに、ただ驚愕のあえぎだけが聞こえた。
頂上にむけて大股に無関心に歩みながら、彼は心臓が身体のあちこちでどれも不条理な鼓動をうち、背中がひろがってゆき、ついには道幅からあふれだすのを感じた。《ぼくは死んだ。うなじを撃ちぬかれるだろう。だが、弾はいつとどくのか?》
《降伏しろ!》
彼の下腹が凍りついていきなり左膝の力がぬけたが、気をとりなおして路肩にむけてダッシュした。とっくに撃ってきた、小銃と軽機関銃と。ミルトンは地面のうえではなくて、弾丸の風のうえをペダルを踏んでゆくような気がした。《頭に、頭に!》とおのれのなかで叫びながら、ダイビングして崖っぷちをとびこして斜面に着地した。そのあいだに無数の弾丸が頂上を掃射して、あたりの空気を切りさいた。彼は非常に長い距離をすべりおちながら、のばした頭で泥をたちわりつつ、目をつぶって盲たまま、現われでる岩かどや茨の茂みをかすめておちていった。しかし彼には負傷やふきでる血の感覚はなかった。あるいは泥が傷口をまたふさいで、すっかりおおってしまったのかもしれない。立ちあがって走ったけれど、のろくて重すぎたし、ふり返って、やつらがすでに崖っぷちのうえに射的場の台にならぶみたいに一列になっているのを、盗みみる勇気もなかった。堤防と谷川のあいだをぶざまに駆けながら、とある瞬間には彼は立ちどまろうかとも考えた。それほどに加速することがかなわなかったのだ。あいかわらず一斉射撃を予期していた。《脚にではなく、背骨にではなく!》谷川の最も木陰のこい場所めざして走りつづけた。そのとき小堤防のうえにやつらをかいま見た。おそらくは別のパトロール隊で、雨滴をしたたらせるアカシア並木の陰になかば見え隠れして、彼から五十歩のところにいた。やつらはまだ彼を見きわめていなかった。なにしろ彼は泥だらけの幽霊みたいだったからだが、いまようやく叫びだして銃口を彼にむけた。
《降伏しろ!》
彼はすでに制動をかけてあとずさりした。まっすぐに橋をめざして、三歩後には軸足で回転して、われから転がった。やつらは両側から撃ってきて、崖と小堤防から撃ちながら、彼とおのれ自身に叫び、昂奮して、指さしあい、叱りつけあい、はげましあって撃ってきた。ミルトンはふたたび立ちあがった。転がるうちに、地面の瘤にぶつかったのだった。彼の前後、周囲で地面がさけてわきたち、弾丸がときはなった泥のしぶきが彼のかかとにこびりついた。彼の正面で岸辺の灌木が乾いた音をたてながらはじけとんだ。
地雷の埋まった小橋をふたたび目ざした。銃弾を浴びて死ぬのも地雷にふきとばされて死ぬのもまったく同じ死だったのに、最後のあと数歩で彼の身体がなげいて、こまぎれになって宙にふきとぶことを拒絶した。脳の介入をまたずに身体がそっけなく制動をかけて、一斉射撃に切断された草むらをとびこえて谷川にとびおりた。
足から落ちて水が彼の膝を動かなくしたし、そのあいだにも銃火の刈りこんだ枝々が彼の肩のうえにくずれ落ちた。一秒間以上はぐずぐずしなかったが、それでも彼は知った。眼を転じさえすれば、最初の兵隊たちがすでに岸に立って、彼の頭蓋を七、八、十挺の銃で狙っているのがきっと見えることを。片手が革ケースへ飛びついたが、拳銃はなく、指先からとびちったのはわずかばかりの泥だけだった。無くしてしまった。崖っぷちからまっさかさまに頭から滑りおりたあのときにぬけ落ちてしまったにちがいなかった。絶望しきって頭をぐるりとめぐらして草むらのなかを見つめた。たった一人の兵隊だけがまぢかに、二十歩のところにいて、手のなかにおどる小銃をかかえて、橋下のアーチを凝視していた。耳を聾する水音をたてながら、腹からまえに飛びこんでたったのひとかきでむこう岸にしがみついた。うしろで喚声と激しい射撃音がふたたび炸裂した。腹ばいで岸をのりこえてはてしない裸の牧場に身をおどらせた。しかしただちに加速するたえがたい努力のなかで両膝が屈した。彼は地面にうち倒れた。やつらは喉がはりさけんばかりに叫んでいた。とある恐ろしい声が兵隊を呪っていた。二発の銃弾が彼の近くの地面にそっと柔らかく、友のように撃ちこまれた。彼は立ちあがって走りだしたが、むりはせずにあきらめきって、ジグザグにすすみもせずに走った。無数の銃弾があるはひとかたまりになって、あるはひとつらなりになって飛んできた。斜め方向からも撃ってきたし、彼を連射でとらえるように左手に着弾する弾もかなりあった。なかには鳥を撃つかのように、進路やや前方に撃ってくる弾まであった。斜め方向から飛びくる銃弾がほかのどれよりもはるかに彼をおびえさせた。その射線はじゅうぶんに彼を即死させる可能性があった。《頭に、頭にだあああ!》彼はおのれを撃つにももう拳銃はなかったし、その幹で頭をかちわるにも立木一本見あたらなかった。盲て走りながら彼は両手を首にあてがってみずから縊れようとした。
彼はますます速く、いっそう敏捷に走りつづけて、その心臓は身体の外側から内側にむけて、まるでもとの居場所にもどりたくてならないかのように、鼓動をたたきつけていた。かつて走ったことがないくらいに、かつてだれも走ったことがないくらいに彼は走りに走った。そして大雨に黒ずんでよだれまみれの、正面の丘の頂がぬきみの鋼みたいに、彼の見ひらいたなかば盲た眼には閃いていた。彼は走り、どの銃声もどの喚声も、彼と敵のあいだのこえることのできない水溜めのなかに落ちて溺れ死んでいった。
彼はなおも走ったが、むだになった労苦、呼吸、運動、肉体、大地、そのいずれとも接触がなかった。やがて新しい土地か、それとも彼のうすれた視力では見わけのつかない土地かをなおも走りつづけてゆくうちに、精神がふたたび機能しだした。だが思考は外からやってきて、石投げ器からはなたれたつぶてみたいに彼のひたいを直撃した。《ぼくは生きている。フールヴィアよ。ぼくはひとりぽっちだ。フールヴィア、まもなくきみがぼくを殺すのだ!》
彼は走りやまなかった。土地はかなりの登りにさしかかっていたのに、たいらな、乾いて弾力のある誘うような平地を走っているかのように彼には思われたのだった。やがて不意に彼の前面にとある部落がたちふさがった。低い声でなげきながらミルトンはその村をさけて、あいかわらず力のかぎり走りつづけながら、村を迂回した。しかし村をとおりこしたところで、にわかに左に折れてもどりながら村をまわりこんだ。彼は人びとを見、人びとに見られる必要があった。そうしてこそおのれが生きていると、天使たちの網にすくいとられるのをまって宙にはばたく霊ではないと納得できるのだったから。あいかわらずあの走る勢いのまま彼は村の入口にまた出て、村のまんなかを駆けぬけた。学校から出てくる子供たちがいて、砂利道をゆくあの駆け足のとどろきに、小階段のうえに立ちどまって、曲り角をじっと見た。ミルトンが馬みたいに闖入した。眼は完全に白目をむき、口は大きくあけて泡だらけで、音たかく駆けゆくその一歩ごとに両わきから泥をほとばしらせていた。大人の叫び声、たぶん窓辺の女先生の声が破裂したが、彼はすでに遠くに、家並みをはずれた最後の家のあたり、波うつ野辺のふちにいた。
彼は走った、大きく瞠った眼で、大地のごくわずかしか見ずに、空のなにひとつ見ないで走った。彼は孤独を、静けさを、平和を完璧に意識していた。けれども彼はなおも走った。屈託なく、あらがいがたく走った。やがて彼の前面に森が立ちふさがって、ミルトンはその森にまっしぐらに突きいった。彼が木蔭に入ったときに、木蔭は堅く閉ざされて、壁をなすかのようであった。そしてその壁から一メートルのところで彼はくずおれた。
了
【内容】 『私的な問題』は愛に満ちた錯乱と『狂乱のオルランド』みたいに騎士道風の、追跡の幾何学的な緊張で構成されている。 【一言】『蜘蛛の巣の小道』から『私的な問題』に至るあの季節があった。かつて書かれたことがない真実味の籠もった〈抵抗運動〉の物語。 バスケットボールの試合のあと、体育館で、彼女を彼に紹介したのはジョルジョ・クレリチだった。彼らが更衣室をでたところで、ひきあげる残りの観客のなかに、海草のあいだに見え隠れする真珠みたいに、彼女がいた。 ミルトンは両手を顔におしあててその闇のなかにフールヴィアの眸をまた見ようとした。その努力に疲れはて、思いだせないことを恐れて、ついに両手をおろすとため息をついた。それは黄金色の暈を冠った、鮮やかなハシバミ色の眸だった。 真っ白い小さな鷺よ伝えてよ亡きあのひとにこの悲しみを エリサ
2009年1月1日木曜日
フェノッリオ 私的な問題――愛のゆくえと追跡と4~8
4
マンゴの鐘楼の鐘が六時を打ったばかりだった。両拳のあいだに頭を抱えて、ミルトンは居酒屋のまえの石のベンチに腰をおろしていた。なかで女がせわしげに働くのが聞こえたし、男みたいに太い大欠伸を女が洩らすのまで聞こえた気がした。村人たちはとうにみな起きだしていたのに、扉や窓はまだ閉まっていたので、内に籠もった臭いを思うだけでミルトンは嫌悪にあえいだ。
彼は一時間で、トゥレイーゾから登ってきた。途中、出くわした夥しい霧のボードは、山道をゆく羊の群れみたいに、彼の膝の高さを過っていった。厩舎の壊れた屋根を打つ雨音が聞こえるとてっきり思って目覚めたのに、雨は降っていなかった。かわりにひどい霧が、谷という谷を塞いで、丘々の膿んだ中腹を揺れうごくシーツとなって拡がっていた。丘に対してこれほどの吐き気を覚えたことはかつてなかったし、いまみたいに不吉で泥だらけな丘を、霧の裂け目に見たこともなかった。丘を、おのれの恋の自然な舞台として彼はいつも考えてきた──あの小径づたいにフールヴィアと、あの頂の上に彼女と、彼女の後ろにあんなに神秘の溢れるあの特別の曲がり角で彼女にこう言うことだろう……──ところが、その丘の上で到底思いも及ばぬことを、戦争を、やらねばならなかった。昨日までは彼はそのことに耐えることができた。だが……
真上の砂利道で足音が聞こえても、彼は頭を上げなかった。一瞬後にモーロの声がとどろいた。
「おや、おまえはミルトン! 呪われた前哨地がやになったか? おれたちのところへ戻るのか?」
「いや。ジョルジョと話しにきただけだ」
「やつは出てるぞ」
「知っている。歩哨がそう言ってた。誰が彼と一緒なんだ?」
モーロが指折り数えながら言った。「シェリフ、コブラ、メーオにジャック。昨夜パスカルが連中をマネーラの二叉路の監視に出した。パスカルはアルバのファシスト軍があの方面から来ると考えたのだ。しかし、何事もなかった。だからあの五人はとっくに監視任務を終えて、いまご
ろは戻る途中だ。おい、具合でも悪いのか? ガスみたいな顔色しているぜ」
「じゃ、おまえの顔色はどうだと思っているんだ?」
「わかってら」と、モーロが笑った。「ここではみな肺病になりかかっている。居酒屋に入ろう。ジョルジョはなかで待てばよい」
「冷気がぼくには心地好い。頭が焼けるようなんだ」
「おれは、失敬して、避難するよ」と、モーロは入った。そして一瞬後には、カタルと底意の漲る声で、給仕女と話しだすのが聞こえた。
ミルトンは身震いしてまた頭を両手で抱えこんだ。
一九四二年十月三日のことだった。フールヴィアは一週間か、四、五日くらいか、トリーノへ帰る、とにかく発つところだった。
《フールヴィア、行くなよ》
《行かなきゃ》
《でも、なぜ?》
《なぜならあたしには父親も母親もあるからよ。それとも、あたしには親がないと思ったの?》
《そうだな》
《なんと言って?》
《ひとりでないきみなんて、ぼくは見ることも、思うこともできないって言うのさ》
《親がいるの、親がいるのよ》と、彼女が息をはずませた。《そしてしばらくあたしにトリーノにいてもらいたがっているの。でもしばらくのあいだだけよ。あたしには兄も二人いるわ、あんたに興味あるなら》
《興味ないね》
《兄がふたりよ》と、彼女が重ねて言った。《ふたりとも軍人よ、将校だわ。ひとりはローマに、もうひとりはロシアにいるの。毎晩あたしは彼らのために祈ってるわ。ローマにいるイータロ兄さんのためにはお祈りのふりをするだけ、なぜってイータロ兄さんは戦争をしているふりをしているだけだから。でも、ロシアにいるヴァレーリオ兄さんのためにはあたしは真剣に祈ってるわ、できるかぎり》
ミルトンをこっそりと見た。彼は、遠くの川に、白茶けた両岸のあいだの灰色の水面に、顔を向けて、頭を垂れたまま放心していた。
《あたしは大洋を渡ってゆくわけではないのよ》と、彼にささやいた。
しかし彼女は大洋を渡っていた。鴎たちの嘴が心臓にこぞって食い入るのを彼が感じているからには。
彼とジョルジョ・クレリチが彼女を駅まで送っていった。あの日、駅は開戦以来これまでになくきちんと整頓されて、ずっと清掃が行き届いているように見えた。空は最も美しい群青色よりも美しい、透きとおった灰色で、その無窮の広がりのなかに不変だった。フールヴィアがトリーノに降り立ったころには、夕暮れだったことだろう。昏い煤けた夕暮れだったことだろう。けれども、正確にはトリーノのどこに彼女は住んでいるのだろう? 彼はそれを本人にもジョルジョにも聞こうとはしなかった。後者はたしかに住所を知っていただろうに。フールヴィアに関して、彼はトリーノの何もかもを知ろうとはしなかった。彼らの物語はひたすらアルバの丘の上の別荘でだけ紡ぎだされるのだった。
ジョルジョは自主経済政策以前のスコットランド織の服を着ていた。ミルトンは父親の仕立てなおしの上衣を着て、ネクタイは目を結ばずに垂らしていた。とうに列車に乗りこんだフールヴィアが、車窓から顔を覗かせていた。ジョルジョに軽く微笑みかけて、たえずお下げ髪をゆり動かしていた。それから車内通路をとおり抜けながら彼女を押しつぶしたでっぷりした旅客に向かってしかめ面をした。いまはジョルジョに笑いかけていた。プラットフォームの上を助役が小旗を広げながら、歩を速めて機関車のほうへ行った。空の灰色はもういくらか損なわれていた。
フールヴィアが言った。《英軍があたしのこの列車を爆撃したりはしないでしょうね?》
ジョルジョが笑った。《英軍機が飛ぶのは夜間だけさ》
やがてフールヴィアは彼を車窓の下に呼んだ。彼女は笑わずに、その声の音よりもむしろ唇の動きでミルトンが意味を捉えた言葉を言った。
《別荘に戻ったときにあたしはそこにあなたの手紙を見つけたいの》
《わかった》と、答えたミルトンの声はその単音語のなかでさえ震えていた。《それを見つけねばならないのよ、いいこと?》
列車は発車して、ミルトンはカーブのところまで目で追った。川向こうの果てしないポプラ林のうえに立ちのぼる煙を追って、橋の向こうでそれをまた目に捉えたかった。だが、ジョルジョが彼を鉄格子の門まで押した。《ビリアードやりにいこうぜ》彼は駅の外まで引きずられるにまかせたが、ビリアードはしないと言った。彼は直ちに家に帰らねばならなかった。
彼女を愛しているとフールヴィアに手紙を書くのには、たった一週間しか、たぶんそれ以下しかなかった。
そこに立て掛けてあったカービン銃をまた見出そうと壁を手探りしながら、彼は疲れきってベンチから立ち上がった。最悪の状態だった。冷気の斉射をなんども浴びて全身が震えているのに、頭は耳鳴りがするばかりに漲り、蟠りながら、燃えあがる熱に焦げついていた。
ちびのジムが脇の路地裏から出てきた。近寄らずに彼に言った。パスカルがちょうどいま司令部に入ったから、話したいのがパスカルとならば。
「いや、ぼくはジョルジョとだけ話したいのだ」
「どっちの? 美男子ジョルジョか?」
「そうだ」
「やつはまだ外だ」
「知っている。途中で出会うように出かけようと思うんだが」
「あまり村から遠ざかるなよ」と、ジムが警告した。「濃霧で道に迷うぞ」
表通りを通って村を抜けながら、路地ごとに目を脇に走らせて野辺を埋めゆく霧の濃さに注意した。村外れに植えられた木立はすでに幻みたいだった。
最後の人家の角で彼はぴたっと立ち止まった。小石だらけの急坂に五、六人の足音を聞きつけたのだ。足取りは、長くて迅速で、町の少年パルチザンたち特有の足音だった。彼らは無言で登ってきた。みな喉や肺いっぱいに霧を詰まらせているのは明らかだった。ひどい昂奮に襲われて、
彼は狼狽し、家の角に寄りかからねばならなかった。しかしジョルジョの分隊ではなかった。問われもしないのに、彼らの一人が通りすがりに言った。墓地下から来た、夜は墓堀り人のところで過ごしたのだ、と。
なおも心が乱れたまま、彼は野辺に出た。野外で、受胎告知の聖母の小礼拝堂付近で、ジョルジョを待とうと心に決めた。しばらくのあいだ彼をほかの四人から引き離して、それから……
尾根道には霧が溢れていたが、なおまだ隙間やうねりがあった。しかし両側の谷間には縁まで不動の固まった真綿みたいな霧が溢れ返っていた。霧は丘の斜面をも這い昇ってきて、頂の何本かの海岸松だけが霧の海から突き出て、溺死寸前の人びとの腕みたいに見えた。
小礼拝堂の幻に向けて用心深く下った。霧によって巣のなかに押しこめられた鳥たちの唖然とした囀りと霧に沈んだ谷間のせせらぎを別にして、一切が沈黙していた。
マンゴの鐘楼の鐘が木霊もなしに、七時を告げた。
礼拝堂の壁にもたれてトッレッタの峠を不安そうに見つめた。下の高原から飽和点を求めて昇ってくる霧によって、峠道はすでにあらかた塞がれていた。まだ裂け目がひとつ残っていたが、ジョルジョの分隊は十秒以内にそこに現れねばならなかったろう。しかし現れなかった。だから見よ、いまはもう遅い。霧の援軍が峠をかき消してしまった。
タバコに火をつけた。もうどれくらいフールヴィアのシガレットに火をつけていないだろう? 戦争の恐ろしい大海原を泳ぎわたって岸辺にたどり着いて、フールヴィアのシガレットに火をつけるくらいだとしても、たしかにその甲斐はあった。
最初の一口で肺が破裂しそうな気がして、二口目では痙攣のために身体を二つに折らねばならなかった。三口目は少しはましに耐えて、いくらか戦いただけでしまいまで吸うことができた。
霧は、いまではあの目のまえの道まで閉ざしてしまったが、それでも地面から一メートルほどのところで宙に漂っていた。まさしくその中空層にカーキ色のズボンを穿いた脚がちんばを引いているのを、彼はようやく認めた。胴体や頭は霧に覆われて見えなかった。道なかに飛び下りて身を伸ばし、ジョルジョの脚を、その足取りをもっとはっきりと見わけようとした。いつものように、極度に感動すると、彼の心臓は身体のおくに潜りこむのだった。
胴体と頭が濃霧のなかから現われ出てきた。シェリフ、メーオ、コブラ、ジャック……
「おや、ジョルジョはどこだ? きみらと一緒じゃなかったのか?」
シェリフがいやいや立ち止まった。「そうだ。やつは後ろだ」
「後ろのどこだ?」と、霧のなかを穿つように目を凝らしながらミルトンが訊いた。
「五、六分遅れだ」
「きみらはなぜ彼と離れた?」
「離れてったのは彼のほうだぜ」と、メーオが咳をした。
「きみらは彼を待っていられなかったのか?」
「大人は大人だ」とコブラが言った。「やつだって道はおれらと同じくらいよく知っている」
そしてメーオが、「ミルトン、おれたちを行かせてくれ。おれは腹が減ってくたばりそうだ。霧がラードなら……」
「待てよ。きみらは五、六分遅れだと言ったが、ぼくにはまだ彼の姿が見えないぞ」
シェリフが答えた。「道沿いのどこかの家で飯でも食っているんだろう。ジョルジョがどんなやつか知ってるだろ。やつは仲間と食うのがむかつくんだ」
「行かせてくれよ」と、メーオがくり返した。「それとも、どうしても話したいのなら、歩きながら話そうじゃないか」
「シェリフ、ほんとのことを話せよ」と、脇へ退かずにミルトンが言った。「きみらはジョルジョと喧嘩したのか?」
「とんでもない」と、それまで口を出さなかったジャックが言った。
「とんでもない」と、シェリフが言った。「ジョルジョがいくらおれたちのタイプじゃないとしてもな。やつは金持の息子だ、豚の軍隊によく見かけたようにな」
「だけど、ここじゃみな平等なんだ」と、いきなり激昂してコブラが言った。「ここじゃ、親の七光は利かない。軍隊と同じようにここでもそれが利くのなら……」
「でもおれは腹が減ってくたばりそうだ」と、メーオが言って、頭を低くしてミルトンの脇を抜けた。
「おれたちと一緒に村へ来いや」と、彼も歩きだしながら、シェリフが言った。「あちらの上でやつを待てばいい」
「ぼくはここで彼を待つほうがいいんだ」
「お好きなように。せいぜい十分もすればきっとやって来るさ」
なおも彼を引き止めた。「あちらの霧はどうだった?」
「いや物凄い。村に着いたら誰か年寄りにこんな霧を一生のあいだに見たことがあるか尋ねようと思っているくらいだ。物凄いぞ。とある地点では、屈んでも道は見えないし、このおれを支えている自分の足さえ見えない始末だ。だけど、危険はないさ、道は断崖には沿っていないからな。だが、ミルトン、言っておくがおまえの友だちが呼べば、おれはやつを待っただろうし、こいつらも待たせたことだろうさ。しかしやつは呼ばなかった。だからおれにはわかったのさ、やつはいつものように自分のことをしたいんだ、と。ジョルジョがどんなふうか、おまえも知ってのとおりさ」
彼らは四人とも霧のなかへまた消えていった。
彼は礼拝堂に寄りかかりにまた登った。二本目のタバコに火をつけてくゆらしながら、路面と霧の層とのあいだで耐えている中空層を注視していた。三十分後にはまた路面に降り立って、トッレッタの峠へ向けてゆっくりと歩きだした。
ジョルジョはひとりでいるためにわざと霧を利用したと、シェリフが考えたのはもっともなことだった。まさしく仲間意識のなさと、その拒絶ゆえに、ジョルジョは不人気だった。おのれの物をなにひとつ、その体温さえも分かちあわないように、孤立する機会を彼は逃さなかったし、
それどころかそうした機会を次々に創りだしていた。ひとりで眠り、ひとりで食べ、タバコが払底している折に隠れて吸うし、タルカムパウダーを使う……ミルトンは下唇を突きだして、そこに歯を突きたてた。昨日以前ならば、彼の笑みを誘ったジョルジョのことが、いまは彼を突き刺した。ジョルジョは、ミルトンだけに耐えられるかのようだった。ミルトンだけと立ち居を共にした。厩舎で眠りながら、どれほど互いに寄り添って身体を伸ばし、互いに身体をくっつけあっていたことだろう。そういう親密さはみなジョルジョのほうからもちかけたことだった。ミルトンはたいてい三日月みたいに身体を曲げて眠ったので、ジョルジョは彼が寝る体勢をとりおえるのを待ってから、彼に身を寄せて、横方向のハンモックに寝るかのように順応していた。そして先に目覚めてみれば、ミルトンはどれほど好きなだけ眺めていたことだろう。ジョルジョの身体を、その肌を、その毛を……
いまは霧の最も濃い、最も盲た層のなかを行くというのに、苦しみが彼の歩みを速めさせた。霧は具体的な厚みを帯びて、正真正銘の蒸気の塀となった。そしてミルトンは一歩ごとに衝突と打撲傷を負う感覚を覚えた。彼はたしかに峠のごく間近まで来ているのだが、歩の運びと道の勾配からそうと推断するほかはなかった。まさしくシェリフが言ったように、身をかがめてみてやっと路面と、切り離されたみたいなピント外れのおのれの足の見わけがついた。前方の視界はというと、もしもジョルジョが二メートルさきに現れたとしても、その彼をしかと見ることはできなかったであろう。
なおも五、六歩登って、頂に着いたと彼は確信した。巨大な稠密な霧の層が下の高原を圧し潰していた。
唾を呑みこんでから、ちょうどそのとき最後の急斜面を登っている者に聞こえるように声を調節しながら、ジョルジョの名前を呼んだ。それから、ジョルジョが高原を歩きまわって坂に差しかかったばかりの場合に備えて、ずっと大声で名前を呼んだ。なんの返事もなかった。それから両手を漏斗みたいに口のまわりに添えて、ジョルジョの名前をできるだけ引き伸ばしながら叫んだ。少し下で、一匹の犬がきゃんきゃん鳴いた。そしてあとは何もなかった。
すでに目に見えない村の方角を間違えないように、あらゆる注意を払いながら、ミルトンはくるりと身体の向きを変えて、一歩一歩ふたたび下った。
5
食堂でシェリフをまた見つけた。彼は空腹を満たして、両肘をテーブルにぺたりとつけてうたた寝をしていた。ぜいぜいいう寝息の下で、こぼされたぶどう酒の染みが水溜めみたいに波立っていた。
ミルトンが彼を揺り動かした。「会えなかったぞ」
「わけがわからない」と、濁声でシェリフは答えたが、それでも上半身を起こしてしっかりと話をする姿勢は示した。「いま何時だ?」と、目を擦りながら聞いた。
「九時過ぎだ。近くにファシスト軍がいなかったのは確かなんだな?」
「あの濃霧で? ここの霧をもとに、ものを言うなよ。言っとくが、二叉路では乳色の海だったんだぞ」
「行軍中のやつらを濃霧が襲うってことだってありうるぞ」と、ミルトンが指摘した。「やつらがアルバを進発したときには、あの下のほうではこんな濃霧ではなかったはずだ」
シェリフが頭を揺さぶった。「あの濃霧で」と、また言った。
ミルトンが激した。「おまえはやつらがいたかもしれないことを除外するためにだけ濃霧を使っている。それなら、やつらを見かけなかった言い訳をするためだけにも濃霧を口実にしないか、おまえは?」
シェリフはあいかわらず頭を、あいかわらず穏やかに揺さぶっていた。「それでも、やつらを聞きつけたはずだ。アルバからは大隊以下では出てきやしない。大隊は鼠じゃないから、音を聞きつけたはずだ。兵隊ひとりが咳をすれば充分だったんだからな」
「しかし、パスカルはやつらが来ると読んでいたんだ。おまえたちを二叉路の監視に遣ったのは、まさにあの方面からやつらが来ると睨んだからなんだぞ」
「パスカル」と、シェリフが鼻を鳴らした。「パスカルをもとにものを言うのか。だが、やつを旅団司令官にしたのはいったい誰なんだ? まあ、批判するわけじゃないがな。ただ言っておくが、何ヵ月も経つがやつが言い当てたためしをおれは一度も見ていない。もしおまえが知りたければ、昨日も今朝もずっとおれたちはパスカルにひどく毒づいていたんだ。やつは敵襲を夢に見て、糞な暮らしを送るのはおれたちだ。おれたちはこういうふうに何時間もパスカルには毒づいてたよ。おまえのジョルジョもだ」
ミルトンはテーブルをぐるりと回って、シェリフの正面の椅子に跨がって腰をおろした。
「シェリフ、おまえはジョルジョと喧嘩したのか?」
相手は二度ほどしかめ面をしてから頷いた。「ジャックと大喧嘩だ」
「ああ」
「だけど、そのことと離ればなれになったこととは全然関係がないぞ。要するに、喧嘩のせいで、彼を霧のなかで見失ったわけじゃないんだ。彼が勝手に離れたんだ。やつの自発的意志でな。金持の息子の気儘さを尽くすためにな」
「むろん、おまえたち三人はジャックの肩を持ったわけだ」
「それは言えている。ジャックがまったく正しかったからな」
ほんとうのことを言うと、とシェリフが説明した。五人ともみな激怒して本性を現わしたのだった。ミルトンがそのアルバ斥候を終えてトゥレイーゾへ戻ってからしばらくしたころ、彼らはマンゴを発った。トッレッタの峠にまだ行き着かないうちにもう肉にくいこむ真っ黒な夜だった。一行は尾根づたいに歩いていたから、はや冬みたいに不吉な強風を、胸にまともに受けていた。紛れもなくこれは高い丘のああした墓地のひとつの開け放たれた墓穴から吹きだしてくる風だ、とメーオが言った。おれは銃殺されたってあんな墓地に入るのは御免だがな。まるっきり人っこ一人いなかったが、尾根道をとおる彼らの臭いを嗅ぎつけて、丘の中腹の犬という犬が吠えていた。犬には我慢できないコブラが吠え声ごとに罵っていた。彼はとうに頭巾を被っていて、歩きながら罵り声をあげるシスターみたいに見えた。そして犬さえ鳴かなければまったく目につかないわが家の所在を明かしてしまう熱心な犬に、百姓たちが投げつける罵りを考えに入れると、世界じゅうがひとつの罵り声だった。それは残りの四人も、歯ぎしりしながら進んでいたが、心のうちでは罵っていたからなおさらだった。彼らは確信していた。パスカルは夢をみたか、それともたんに気まぐれを起こしたか、いずれにしろ、糞な暮らしでそいつを支払う羽目になったのが自分たちだ、と。最も怒り狂っていたのはたしかにジョルジョだった。なぜなら、あの分隊は彼の性に合わなかったし、指揮はシェリフに任されていたからだ。《こいつら四人のルンペンのあいだで》と、無論やつは考えていたに違いない。《おれが指揮をとるに相応しからずと見なされるのなら、おれのパルチザンのなかでの成功と出世もわかろうというものだ》
それからみなはメーオに腹を立てねばならなかった。みなはマンゴから腹を空かせて発ったから、以前やつと哀れなラフェーがとてもいい扱いを受けたとある一軒家の農家に寄って夕飯にありつこうと、メーオが言いだしたのだった。釜から出した焼き立てのパン、甘いけれどもどっさり具の入ったミネストラ、それに真ん中に薔薇色の小さな輪の入った、あの雪みたいに真っ白な、極上のベーコンを好きなだけ。みなで、よし、そこに行こう、ということになった。しかし場所は、はなはだ具合が悪かった。その家は大斜面の裾にあったからだ。首根っこを折りそうな小径づたいに下へおりたが、夜は黒ぐろとピッチみたいだし、おまけに闇が生き物のようにたくさんの谷底を目に錯覚させるものだから、そのつど立ち止まらねばならなかった。それに、やっと下に着いてみれば、メーオはもうその家がどこかわからなくて、みなで四方に散って探さねばならなかった。農家の四つ壁は不順な気候にひどく黒ずんでいたので、人のすむ家のあの薄明かりさえ放ってはいなかった。あげくにやっとコブラが見つけたのはいいが、やつはまさにその家の麦打ち場を囲っている有刺鉄線にズボンを引っ掛けてしまった。コブラが大きな罵り声をあげたので、みなはそちらへ向かったわけだ。幸い、番犬はいなかった。いれば吠えたてて、コブラはたちどころにステン銃で撃ち殺してしまうだろうし、そうなるとこんどはシェリフが怒り狂って泥濘のなかでコブラと立回りを演じたことだろう。シェリフは犬が射殺されるのを見ると正気を失うのだった。
そうして呆れてしまったのは、なかへ入るのに山ほど儀式ばらねばならなかったことだった。戸を叩きにメーオが行くと、主が戸の裏に身を寄せた。
「誰だ?」
「パルチザンだ」と、メーオが答えた。
「方言で言え」と、老耄が要求した。そこでメーオは方言でくり返した。
「種類は? バドッリオ派の青か、それとも赤い星か?」
「バドッリオ派だ」
「で、バドッリオ派なら、どこの司令部だ?」
「マンゴの司令部だよ」と、辛抱強くメーオが答えた。「おれたちはパスカルの部下だ」だが、老耄はまだ閂を抜かなかった。だから、シェリフはコブラを制さねばならなかった。後者は足掻いて、戸ごしにあの百姓にずばっと言ってやりたがった。さっと戸を開けたくなるような二言三言を。
「で、なんの用だ?」老耄が続けた。
「一口食べて、すぐまたおれたちは任務に出かけるんだ」
それでもあいつはまだ満足しなかった。
「いま話しているおまえは誰だか、知れるかな? おれはおまえを知ってるか?」
「いいとも」と、メーオが言った。「おれはメーオで、あんたの家に一度食べに寄ったことがある。思い出してみてくれ」
黙って、老耄は思い出しては篩にかけていた。「おれのことを思い出すはずだ」と、メーオが言った。「二ヵ月まえに寄ったんだ。やっぱり晩のことだった。身体を持っていかれそうな風が吹いていた」
年寄りは少しずつわかりだしたしるしになにか呟いた。「で、おまえは」と、それから尋ねた、
「おまえは誰と来たのか、覚えているか?」
「もちろん」と、メーオが言った。「ラフェーとここへ来たんだ。まもなくロッケッタでの戦闘中に死んでしまったあのラフェーと」
すると年寄りは女房に声をかけて、閂を外し、みなはなかへ入った。けれどもメーオが請けあった美味いものなどなかったし、それどころかひどく貧しい食事だった。ポレンタと冷えたキャベツにひと握りのハシバミの実しかなかった。しかもそのわずかばかりのものを老人のじっと見る目の下で食べねばならなかった。彼らを監視しつつ、白い大きな口髭をたえず舐めながら、ときおりひと言、ひと言だけ呟いていた。《シベリア》。それが老人の口癖だった。《シベリア、シベリア》ジョルジョはポレンタに手をつけず、ましてやキャベツには見向きもしないで、ハシバミの実を十二個ほど急いで噛み砕いたから、それらは怒りとともに胃の腑に残った。それから彼が言った。食べたハシバミの実が食道ぞいに蒔いた小石みたいに感じられる、と。あの惨めな家を彼らがようやく後にしたときには、まだやっと九時だったのに、夜は夜明けまえの一瞬みたいに恐ろしげだった。よくもあんな夕食を見つけてくれたとみなはメーオを散々にこき下ろしながら登った。一番ましなのはまたもジャックだった。ひっきりなしにソフトな声で陽気なくらいにぼやいていた。《ファシストの豚め、ファシストの豚め、ファシストの豚め……》
それからみなは二叉路監視のベースにする家の選択で、シェリフに腹をたてた。早くも二叉路の見えるところまで彼らは来ていた。谷側の道が痛ましく白じらと浮かび出ていた。頭巾を被った頭を振ってコブラが言った。「明日の朝、あの道をファシスト軍が通ったなら、おれは誓って言うが、あの砂利を腹が裂けるまで喰ってやる。」四人は〈ランガの牛舎〉に泊まりたがった。あそこなら厩舎は広いし、どの隙間もしっかり栓がしてあるし、牡牛がたくさんいるからその鼻息でスチーム暖房みたいに温めてくれる。シェリフが反対した。あそこは眠るには心地好くても、見張るには位置が悪い。二叉路から離れすぎている。彼は立ち往生してしまったに違いない。それでもしまいにはみなを、二叉路のまさしく真向かいにある丘の縁に立つ見捨てられたあばら屋に連れていった。そこは、はや静まり返って灯も消え横棧をかけられた二叉路の集落からステン銃の射程内にあった。いまいましい風の下で根のなかまでざわざわと音を立てている木々の長い列をつたって彼らはそこに着いた。
あばら屋には崩れ落ちて屋根なしの三つの小部屋があった。いくらかましな部屋は厩舎だったけれど、あれは厩舎なんて呼べる代物ではなかった。ひどく狭くて羊六頭も入れられなかったことだろうし、秣槽には小人が入れるかどうかというところで、煉瓦敷きの床がまったく剥きだしで、片隅に二、三束の棘の多い薪束が積み重ねられているだけだった。それにたったひとつの小窓には、ガラスはなくて窓紙は穴だらけだったし、戸板には平手がとおる割れ目があった。
真夜中から歩哨を立てた。シェリフが最初の歩哨に立った。ほかの者は横になり、煉瓦敷きの床の上でとぐろを巻き、震えて縮んだが、誰ひとり眠らなかった。みなはこうも獣的になったので、あの古い薪束を外に放りだしてスペースを広げるという単純至極なことを誰ひとり思いつかなかった。わずかに隅へ寄せただけだったが、やがてジャックがほかの男たちの冷たいのたくりや横滑りや捩れに押し退けられて、その薪束の上にひっくり返ることになった。それでも眠っていた唯一の男はジャックだった。苦行僧みたいにあの棘の多い薪束のうえで、彼は眠りながら臨終の人みたいに呻いていた。最後から二番目の歩哨にはジョルジョが立ち、最後の立哨はジャックだった。後者は明け方の眼を欺く光のなかで非凡な視力を持っていた。
ジョルジョとの禍いが持ちあがったのはジャックの立哨時間中のことだった。戻ってきたジョルジョが、ジャックを揺り起こし、ジャックが外へ出ると、彼はコブラとメーオの身体を掻き分けて寝藁のうえに半ば横たわった。むろん眠気は訪れないから、膝の下で手を組み合わせて背を丸めた。タバコを一本吸ってから、眠るためというよりもなんとかしのげるように夜を明かすために、百もの姿勢を試みたが、うまくゆかなかった。そこで坐りなおして、もう一本タバコに火をつけた。マッチの明かりで、ジャックがその歩哨の義務に服して外にいるどころか、厩舎のなかにいるのを見た。ジャックは戸口の壁を背にして坐って、こっくりこっくりしていた。
「ジョルジョは」と、シェリフが言った。「かっとなったにちがいない。彼はきちんとおのれの当直を果たしたというのに……」
「誰もいない」と、ミルトンが遮った。「師団じゅうで、誰もいない。ジョルジョみたいに用心深く歩哨をつとめる男は」
「それはほんとうだ」と、シェリフが認めた。「それに吟味しようとも思わない。彼がそんなにきちんと歩哨に立つのは彼自身のためだけなのか、それとも仲間のためでもあるのか、と。事実はおのれの生命のためにきちんと歩哨に立つことで彼は自動的にほかの男たちの生命のためにもそうしていることになるということだ。この点についてはおれたちは一致している。言ったように、ジョルジョはかっとなった。膝立ちして、野獣みたいに両手で寝藁を引っ掻いていた。《なぜおまえは外で歩哨に立っていないんだ?》そしてなにかわけをいう暇も与えずに、ジャックにひどい言葉を浴びせかけた。なかでも、売女の子、というのが一番ひどかった。ジャックの過ちは、それが過ちならばな、すぐに相手にわからせなかったことだ。《むだだよ》と応えて、そしてたぶん、ジョルジョのほうの床に唾を吐いたかも知れんな。ジョルジョは蛙みたいに彼に飛びかかりながら言った。《むだだ!? おれたちは歩哨に立ったのに、おまえだけ立たないのか、卑怯な豚め?》そして彼に蹴りかかった。おれたちは目を覚ましていたが、まだわけが呑み込めずにいたし、それにひどく身体が痺れて節々が強張ってしまっていたから、おれたちが立ち上がるまでには丸一分はかかってしまった。おれにわかったことといったら、ジャックが外で歩哨に立っていなかったことだけだった。だからおれは彼に、なぜだ?と、そして直ちに外へ出て役目を果たせ、と叫んだのだ。だが、ジャックはおれに返事をしなかった。というのも、ジョルジョから身を庇うのでそれどころではなかったから。ジョルジョは彼の首根っこを捕まえてその頭を壁にめりこませようと躍起になっていた。そうして首を締めあげて頭を押しつけながらも、彼を侮辱するのを止めなかった。《父無し子め、おまえみたいな手合いとかかずらわるのはもうやめだ! おまえらはわれわれにもやつらにも役立たずだ! みんな殺されてしまえ! おまえらは犬だ、豚だ、滓だ……!》ジャックは答えなかった。というのもジョルジョが首を絞めにかかっていたし、彼自身、首筋を強張らせて壁に頭を打ちつけられないようにしていたから。こうして彼は話さなかったし、おれたちに助けを求めもしなかった。彼は足を巻いてそれでジョルジョを投げ飛ばそうとしていた。長い話になってしまったが、こうしたこと一切が三十秒以内に起こったのだった。おれたちが割ってはいるまえに、ジャックは両足をまんまとジョルジョの胸に当てて、やつを煉瓦敷きの床のうえに勢いよく尻餅つかせていたよ。そこでおれは、すぐに釈明しろ、とジャックを叱りつけたんだ。すると、ジャックは自分の場所に坐ったまま、おれに答えた。《むだだよ、とおれは言った。おまえが見てみろ》と、彼はひと突きして戸を開け放った。おれたちは外を眺めて、理由を悟った」
「霧だ」と、ミルトンがつぶやいた。
その霧を叙景してみせるために、シェリフは椅子から立ち上がった。
「まあ、乳の海を想像してみてくれ。あの家までだ。霧の舌やら乳房やら、おれたちはたまげて手探りで厩舎に舞い戻った。おれたちは一人ずつ外へ出たが、用心して、すぐ近くまでしか行かなかった。あの乳の海にいまにも溺れ死んでしまいそうだったからな。おれたちは互いにやっと誰だかわかったのだが、それも一直線になって、肘と肘を突きあわせてのことだぞ。おれたちのまえにはなにひとつ見えなかった。おれたちはじだんだを踏んで自分らが地面の上にいて、雲の上じゃないってことをたしかめねばならなかった」どっかりとまた腰を下ろすと話を続けた。
「コブラが笑い声をあげるなり、厩舎に戻って、あの薪束を抱えあげると、外に戻って満身の力をこめてその薪束を前方へ、あの霧の口めがけて投げつけたんだ。だけど、薪束が地面に落ちた音はしなかった」
彼らがどんなに耳をそばだてても、息を殺していても、こそとの物音ひとつしなかった。ジョルジョとジャックの諍はとっくに忘れられていた。ジョルジョの時計が五時近くを指していた。彼らはみな了解した。敵襲はなかったし、ありえなかっただろう、と。あそこに止まっていても彼らにはもう何事もなしえなかったし、ただちにマンゴへの道を取って返さねばならなかった。
「若者よ」と、シェリフが言った。「尾根道を採れば一番近いうえに道筋は頭のなかにしっかり入っていた。だがな、この霧のなかでは尾根道は危険だった。両側の斜面のあいだの剃刀の刃の上を渡らねばならないのだから。この霧のなかでははぐれやすかったし、はぐれた者は自殺するに等しいとまでは言わないが、甘く見ないほうがいい。どこまでも転がり落ちていって、あの下のほう二キロ余りのところを流れているベルボ川まで止まりはしない。それゆえおれは鉛みたいに重い足を引きずって斜面のなかほどまで下ってそこから丘の中腹の道を行くことを提案したのだ。遠回りじゃあるが、せめて片側だけは断崖によって守られているからな。つねに右側を歩いて断崖に触れながら行けばよいわけだ。ピローネ・デル・キアルレの高地にまで達したら、また尾根道を登ることができる。そのあたりの道はあまり危険ではない。両側にかなり広い牧場が瀑布のまえまで続くからだ。それにあそこまで行けば、霧はここいらほどには物凄くないかもしれない」みなは彼の言い分を認めて、用心に用心を重ねて、始めのうちはボッチェの点を測るときにやるみたいに、一足ずつ順送りにしながら、丘の中腹まで下った。跪いてみてやっと見わけたのだが、丘の中腹の道に出てからは、霧は同じように濃かったが、彼らはいくらか早く歩いた。それから彼らは偶然にピローネ・デル・キアルレへと登る小径に入ってまた尾根道を歩んだ。
「おお」と、シェリフが言った。「ふだんならば一時間で歩く道を、おれたちは三時間かけて歩いたことになる」
「で、ジョルジョは、どこで彼ははぐれたんだ?」
「わからない。だが重ねて言っておくが、はぐれていったのは彼のほうなのだ。思うに、丘の中腹の道の取っつきあたりでやつは離れたのだろう。落ち着けよ、ミルトン、おれにはジョルジョがどこにいるか察しがつく。どこか素敵な牛舎で暖かいところに坐って、お金をじゃらつかせて、飯でも出してもらっているさ。いつでも大金を持っていて、ときにはやつのほうが旅団の会計係よりも持っていた。やつの父親が薄荷ドロップみたいにやつに持たせるからだ。いまじゃ、どうするのか、おれは知ってるぜ。大きなスープ皿に沸かした牛乳を入れて持ってこさせて、もう砂糖なんて払底しているから、蜂蜜をスプーンで何杯も溶かしこむんだ。そうとも、だからこそやつが咳ひとつ、くすんともするのを聞いたことがないんだ。ほかのおれたちは咳きこんで、魂まで吐きだしちまうというのにな。落ち着けよ、ミルトン、斥候隊の責任を預かるこのおれがどれだけ落ち着いているか、見るがいい。心配しなさんな、正午には村でやつにまた会えるから」
「正午にはぼくはトゥレイーゾに帰りたいのだ」と、ミルトンが言った。「レーオにそのように約束したつもりでいるからだ、ぼくは」
放恣な徴にシェリフは片手をひらひらさせた。「もっと遅く帰ったってなにが不味い? レーオなんてなんの関係がある? ここでは点呼も再点呼もないんだ。この点でもパルチザン暮らしは偉大だよ。さもなければ王国軍みたいになってしまう。失礼して銃に触るよ」実際に彼は弾倉に触ってつけ加えた。「ここでは何事も掌尺で測るというのに、なぜおまえはミリ単位で測りたいんだ?」
「ぼくは掌尺は性に合わないからだ」
「いまはおまえまで豚の軍隊のシステムで行軍するのか?」
「軍隊のことは人が話すのも聞きたくはない。それでもぼくは掌尺は性に合わない」
「そういうことなら、ジョルジョのことでは、またいつか来いよ」
「ぼくは彼とすぐに話す必要があるんだ」
「それにしたって、なんでまたおまえはそんなにジョルジョに会いたがるのさ? おまえがやつに言いたいそんなに大事なことってなんなのさ?やつのおふくろでも死んだのか?」
ミルトンが背を向けて戸口へ向かうのを見て、彼は言った。「で、いまはどこへ行くんだ? 村んなかか?」
「ここの外だけだ、霧を見にな」
眼の下に見える谷間のなかでは、霧は、巨大なごく鈍いいくつものシャベルによって、谷底でまた掻き混ぜられたかのように、動きだしていた。五分のうちに幾つか穴や割れ目が広がって、その底に切れぎれの地面が覗いていた。彼の眼には地面は、窒息によって仮死したかのように、きわめて遠くに黒ぐろと映った。丘々の頂と空はなおも濃く幾重にも霧に覆われていたが、あと三十分も経てばあの上のほうにも、きっとどこかに裂け目ができたことだろう。数羽の小鳥が気弱にまた囀りだした。
彼は首だけをまた屋内に差し延べた。シェリフはまたも寝こんでしまったようだった。
「シェリフ? 道の途中ではなにも聞かなかったのか?」
「なにも」と、頭も上げず肘も広げずに、即座に相手は答えた。
「丘の中腹の道でのことなんだが」
「なんにも」
「絶対にか?」
「まったくなんにも!」シェリフは頭を猛烈に撥ねあげたけれど、その声は少しはましに抑えた。
「もしおまえがほんとに正確さを期するのなら、まっ、こんなにこだわるおまえさんは見たこともないが、言っておくと、おれたちが耳にしたのは後にも先にも一羽の鳥が飛んでゆく羽音だけだ。さあ、もういまはおれを眠らせてくれ」
外では小雨がぱらつきだした。
6
彼は十人ほどの戦友にジョルジョを見かけ次第彼のところへ寄越すようにといいおいて、食堂にいるとも告げておいた。しかし十一時半ごろにはその食堂からも出て、三十分ほど村外れをあてどなく彷徨いながら、虚ろな野辺から戻ってくるジョルジョの姿をいくらか遠くに見つけはす
まいかと空しい期待にかられていた。霧は到るところで溶け去りつつあったし、小糠雨がいくらか繁くなったとはいえ、まだはっきりとしたうるささではなかった。
洗濯場へと抜ける小径の出口に一瞬、フランクが浮かび出た。彼もやはりアルバの青年で、ミルトンやジョルジョのカテゴリーだった。ミルトンの影さえ目に入らなかったかのように通り過ぎたが、遅れて視覚が働いたのか、すぐにまた小径のところに姿を見せた。フランクは髪の毛の先から足まで戦いていて、その顔はかつてないほどにあどけなく青白く、石膏みたいだった。
《ジョルジョが捕まったんだ》と、ミルトンは呟いた。
「ミルトン!」と叫びながらフランクが駆け下ってきた。「ミルトン!」とまた叫びながら、ばらけた砂利道のうえで踵でブレーキをかけた。
「フランク、ほんとに、ジョルジョは捕まったのか?」
「もう誰から聞いたんだ?」
「誰からも。そういう気がしたんだ。どうしてわかった?」
「ある農夫が」と、フランクが吃りながら話した。「低い丘の農夫が、捕虜になった彼が荷車に乗せられて通り過ぎるのを見かけて、知らせにきたんだ。司令部に駆けつけよう」と、フランクが走りだした。
「いや、駆けないで行こう」と、ミルトンは言って、頼んだ。脚は彼を支えているのがやっとだった。
フランクは素直にまた彼の横に並んだ。「ぼくもひどいショックを受けたよ。ぼくは自分が溶けてなくなる気がした」
彼らはゆっくりと、いやいやながらみたいに、司令部めざして引き返した。
「罠に嵌まったんだ、なあ?」とフランクがささやいた。「軍服姿で武器を帯びて捕まるなんて。なにか言えよ、ミルトン!」
ミルトンが口を開かないので、フランクがまた話しだした。「欺されたんだ。彼の母親のことをぼくは考えたくないよ。濃霧の口に呑みこまれてしまったに違いない。なにひとつ起こらないにしては、今朝の濃霧はあんまり異常だった。でもこれはあとで思いつくことだ。可哀相なジョルジョ。あの農夫は、彼が縛りあげられて荷車で通るのを見たんだ。」
「ジョルジョだって、たしかなことなのか?」
「彼を見知っているといってた。それに、いないのは彼だけだ」
一人の農夫がひらけた野辺へ下ってゆくところだった。男はひどく滑りやすい近道をとって、丈の高い草を掴みながら徐々に下りてきた。
「あの男だ!」とフランクが言うなり、男に口笛を吹いて、ぱちんと指を鳴らした。
いやいや男は立ち止まり、砂利道にまた登ってきた。四十歳代の男で、白子に近く、胸まで泥の飛沫を撥ねあげていた。
「ジョルジョのことを話してくれ」と、ミルトンが彼に命じた。
「あんたらの隊長にもう全部話したよ」
「ぼくにもう一度話してくれ。どうして彼を見たんだ? 霧で見えなかったんじゃないのか?」
「あの下のおれらのとこじゃ、霧はこの上みたいにひどくはなかった。それにあの時分にはもうほとんど引いていた」
「おまえのいうのは何時だ?」
「十一時だ。おまえたちの仲間を荷車に縛りつけたアルバの縦隊が通り過ぎるのをおれが見たのは十一時少しまえだった」
「やつらは彼をトロフィーみたいに持ちかえったのだ」と、フランクが言った。
「やつらを見かけたのは偶然だった」と、男がまた話しだした。「おれは葦を剪りに出ていて、眼の下の道をやつらが通り過ぎるのを見たんだ。おれがやつらを見かけたのは偶然だった。音がしなかったからだ。やつらは水蛇みたいに下っていたから」
「ジョルジョだったのはたしかなことか?」と、ミルトンが尋ねた。
「彼のことはよく見かけて知っていた。うちの近所の家に食べて眠りに一度ならず来ていた」
「おまえはどこに住んでいる?」
「マブッコの橋のすぐ上手だ。おれの家は……」
ミルトンが男の家の叙述を遮った。「で、なぜおまえは丘の麓のチッチョの兵士たちに知らせに走らなかったんだ?」
「それはすでにパスカルが訊いた」と、フランクがため息をついた。
「じゃ、おまえさんはおれがおまえたちの司令官に答えたことを聞いたわけだ」と、農夫は言い返した。
「おれは女じゃない、おれも兵隊には征ったからな。おれはすぐさま自分に言ったんだ、おまえたちのなかであのときやつらを止められるのはチッチョだけだ、と。そこでおれは飛ぶように駆け下ったんだ。そしておれも生命がけだった。というのもおれがやつらの側面を追い越してゆくあいだに、やつらの後尾の兵はおれを見かければ兎みたいに撃ち殺せたのだから。だが、おれがチッチョの支隊に着いてみれば、チッチョはいなくて、いたのはコックと歩哨一人だけだった。それでもおれは彼らに知らせて、彼らは矢みたいに飛びだしていった。だから、おれは彼らが本隊を探しにいって、待ち伏せを用意するか、なにかするだろうとばかり思っていたのだ。ところがやつらは森のなかに隠れるためだけに走っていったのだった。縦隊が通り過ぎて、もうアルバの街道の遠くへ行ってしまってから、あの二人は舞い戻ってきて、おれに言ったものだ。《おれたち二人だけでなにができただろう?》と」
フランクが話をひきとった。「パスカルが言っていた。今日にも分隊を下へ遣ってブレン機関銃二挺のうち一挺を引き揚げさせる。ブレン機関銃一挺でもあの……の群れには十分すぎる」
「おれを行かせてくれ」と農夫が言った。「あまり遅れると女房が心配するし、身重なんだ」
「ほんとうにマンゴの旅団のジョルジョだったんだな?」とミルトンが念を押した。
「死みたいに確実なことさ。どれほど血塗れの顔をしていようとな」
「負傷していたのか?」
「打擲されていたな」
「で、……荷車の上でどんな様子だった?」
「こんなふうだ」と、男は言って、ジョルジョの姿勢を真似した。やつらは彼を荷車の縁に坐らせ、荷台の簀の子に差しこんだ棒杭に胴体を縛りつけて、ジョルジョが剣みたいにぴん立ちになるようにして垂れさせた両脚は荷車を曳く牛たちの尾と一緒にぶらぶらするようにしていた。」
「やつらは彼をトロフィーみたいに持ちかえった。」とフランクが重ねて言った。「彼がアルバへ入るときの光景を思ってもみろよ。今日と今夜のアルバの娘たちのことを思ってもみろよ」
「娘たちになんの関係がある?」と眼をぎょろつかせてミルトンがかっとなって言った。「なにもないか、それともごくわずかだ。きみも幻想を抱いている一人だ」
「ぼくが? 失礼、ぼくがなにに幻想を抱いているって?」
「きみにはわからないのか、あまりにも長く続きすぎているのが? 習慣みたいになっているのが、ぼくらが死んで、娘たちはぼくらが死ぬのを見ることが?」
「まだおれを行かせてくれないのか?」と農夫が尋ねた。
「待てよ。で、ジョルジョはどうしてた?」
「ええっ、どうしてればいいと言うのさ?じっとまえを見ていたよ」
「兵隊はまだ彼を殴りつけていたか?」
「いや、もう殴ってなかった」と、男が答えた。「彼を捕まえた直後に打擲したに違いない。だが、道すがらではもうなにもしなかった。やつらはきっと恐れていたに違いない。おまえたちがいまにもこの丘あの丘から現われやすまいか、と。さっきも言ったように、やつらは水蛇みたいに音も立てずに下っていた。だから、彼はそっとしておいたのだ。だが、危険地帯を抜けてしまえば、もう少し鬱憤晴らしに彼に飛びかかったかもしれない。それじゃ、おれはもう行っていいかな?」
ミルトンはとうに司令部めざして突進していた。フランクはその急な動きに意表をつかれて、彼のあとを追って走りながら、叫んだ。「いまになって、なぜ走るんだ?」
司令部入口はマンゴ守備隊の大部分によって塞がれていた。ミルトンはあの人垣を掻き分けて、自分といまは直ぐあとに続くフランクに道を開けた。すでに電話を握っていたパスカルのまわりにも別の人の輪ができていた。ミルトンはあの内側の人垣にも割りこんで最前列に出て、死人みたいに蒼い顔をしたシェリフと肘を突き合わせて並んだ。
パスカルが通話を待っているあいだに、フランクがささやいた。「師団じゅうになら捕虜の一人くらいはいることに首を賭けるぞ」
「おれのほうは、書きとめとけよ、白薔薇の花環だ」と、別の男が言った。
師団司令部が電話に出た。電話線の向こう端の相手は副官のパーンだった。用立てできる捕虜はいない、とすぐに答えた。パスカルにジョルジョの風采を尋ね、やがてパーンは彼のことを思い出したようだった。しかし捕虜はいなかった。パスカルが旅団のさまざまな司令官に当たってみれば。なるほど規則では、下級司令部で獲たあらゆる捕虜は即刻、師団司令部に移送すべしと定められていた。それでも良心の荷をおろすために、パスカルがレーオ、モーガン、ディアスに電話してみればいい。
「レーオには捕虜はいない」と、パスカルが受話器に言った。「ここに、トゥレイーゾ旅団の男が目のまえにいるが、レーオには捕虜はいないと合図している。モーガンとディアスに電話してみよう。とにかく、パーンよ、おまえのところにとりたての捕虜が届いたなら、削除しちまわずに、直ちに車でおれのところへ送ってくれ」
「早く、モーガンに電話しろよ」と、パスカルがまた受話器を取ったときにミルトンが言った。
「ディアスを呼んでみる」と、パスカルは素っ気なく答えた。
ミルトンはシェリフを横目で見た。いまは彼は灰色がかった顔色をしていた。だが、とミルトンは思った。ジョルジョの運命ゆえにではなくて、ただ濃霧のなかに何百となく散開していた敵兵ゆえの遡及的な恐怖のためにすぎない。彼シェリフは、盲の閲兵よろしく敵兵のなかを、落着き払って、なにも知らずに、迷い鳥の羽音だけに気を取られて通り抜けてきたのだ。
「かわいそうなジョルジョ」と、シェリフがぼそぼそと話した。「なんて豚な最後の夜を過ごしたのだろう。どんなにひどいありさまか知れたものじゃない。まだあのハシバミの実が胃につかえているに違いない」
「たぶん、彼にとってはなにもかもとっくに終わってしまったことだろう」と、ミルトンの背後で、ある男が言った。
「よさないか」と、パスカルが言った。そのとき電話が鳴り響いた。
ディアス本人だった。いや、彼には捕虜はいなかった。「わが蛇たちは」と彼が言った。「一ヵ月ほど銜えていない」金髪のジョルジョのことは実によく覚えていたし、残念なことであったけれど、捕虜はひとりもいないのだった。
小さな顎髭を生やしたパルチザンが、この男をミルトンは初めて見たが、やつらはアルバのどこで銃殺するのかとあたりに尋ねた。
フランクが答えた。「あちらこちらだ。いちばん多いのは墓地の塀際だ。だけど鉄道の土手ぞいでもやるし、環状道路の到る所でやっている」
「知っても胸が悪くなるだけだなあ」と、小さな顎髭の男が言った。
そして、また聞こえた。「おれには白薔薇を」
すでにモーガンが話していた。「捕虜か。いないなあ。そのジョルジョとは誰のことだった? 軍曹よ、なんてこった。三日まえなら一人いたんだが、師団に送ってやらねばならなかった。濡れたひよっこでな。それが第一級の道化師だとわかったんだ。大した才能だよ。われわれと過ごした一日中みなを大笑いさせてくれたものだ。パスカル、やつがトトーとマカーリオの真似をしたのを見せたかったよ。目に見えない打楽器全部を打ち鳴らしたところを見せたかったなあ。師団送りの際には、削除せずにおけと言ってやったんだが、その夜のうちに埋めてしまった。なんてこった、軍曹よ! そのジョルジョとは誰のことだった?」
「金髪の美男子だよ」と、パスカルが答えた。「取り立ての捕虜はな、モーガンよ、削除せずに、師団送りにもせずにおいとくれ。パーンには話を通してある。車でこちらに送ってくれ」
パスカルは受話器を置き、ミルトンが人垣を押し分けながら出口へと向かうのを見た。
「どこへ行くんだ?」
「ぼくはトゥレイーゾへ戻る」と、半ば振り返りながら答えた。
「おれたちと食事をしてけよ。いまごろトゥレイーゾに戻ってなにになる?」
「トゥレイーゾなら、もっと早くわかる」
「なにがだ?」
しかしミルトンはとうに外へ飛び出ていた。けれども外では別の人だかりに突きあたった。みなコブラのまわりにびっしりと輪になっていた。両袖を逞しい二の腕まで念入りにたくしあげたコブラが、いまは想像上の盥のうえに屈みこんでいた。「見てろよ」と、言っていた。「みんな
見てろよ、もしもやつらがジョルジョを殺したら、おれのすることを。おれの友だち、おれの戦友、おれの兄弟のジョルジョを殺したら。とっ捕まえた最初のやつを……おれはそいつの血のなかで両手を洗いたい。このように」そうして想像上の盥のうえに屈みこんで両手を浸してから念入りにぞっとする優しさで手を擦りあわせた。「このように。それに手だけじゃないぞ。腕もそいつの血で洗いたいんだ」そうしてさきほどの仕草を二の腕と二頭筋のうえでくり返した。
「このように。見てろよ、もしもやつらがおれの兄弟のジョルジョを殺したら」手や腕を洗うのと同じ優しさと明瞭さをこめて話していたが、最後の瞬間には甲高い叫び声となって破裂した。
「おれはやつらの血が欲しい! おれはやつらの血にこの脇の下まで漬かりたいいいいい!」
ミルトンはその場を発って村境の最初のアーチを過ぎてようやく立ち止まった。ベネヴェッロとロッディーノの方角を長いこと見つめていた。霧はどこもかしこも上がって、下のほうでは丘丘の黒ぐろとした正面に貼りついた数枚の切手となってしか霧は残っていなかった。雨はかぼそ
く規則的に降り続いていたが、少しも視界を妨げなかった。頭を別の方角に振り向けて、アルバの方角に深ぶかと視線を落とした。町の上の空はほかのどこよりもずっと昏く、はっきりと菫色を呈していて、はるかに激しく雨が降っていることを徴していた。捕虜となったジョルジョの上に、たぶんはや屍となったジョルジョの上に、土砂降りの雨が降っていた。フールヴィアの真実の上に土砂降りの雨が降っていた。その真実を永遠にぬぐい去りながら。《ぼくは真実を知ることは決してできないだろう。ぼくはそれを知らずに逝くことだろう》
背後に走る音が聞こえ、男はまっしぐらに彼めざして駆けてきた。それよりも早く発とうとしたが、結局そうはしなかった。フランクが彼に追いついた。
「どこへ行くんだ?」とフランクはあえいだ。「逃げだすつもりじゃあるまいな? ここにぼくをひとりで置いてゆくなよ。今日はきっとジョルジョの父親が登って来て、息子と交換できる捕虜がいるかどうか知りたがることだろう。もしきみが逃げだせば、ぼくひとりが会って、話さねばならなくなる。だけど、ぼくはとてもその気にはなれない。そうした役目はすでに一度、トムの兄弟たちとで、ぼくはやっているんだ。だから、またやりたくはない、少なくともひとりでは。きみ、お願いだから、ぼくとここにいてくれよ」
ミルトンは彼にベネヴェッロとロッディーノのずんぐりした丘の頂を指し示した。「ぼくはあの方面に行くよ。ジョルジョの父親が来て、ぼくのことも尋ねたなら……」
「きみのことを尋ねないわけがないじゃないか」
「きみが彼に言うんだ、ぼくはジョルジョのために交換捕虜を探しに出かけている、と」
「ほんとうにそう言っていいのか?」
「彼にそういって誓ってもかまわないぞ」
「で、どこに探しにゆくんだ?」
貨幣みたいに平たい雨粒の、重たい雨が疎らに降ってきた。
「ぼくはオンブレのところへ行く」と、ミルトンが答えた。
「赤のところへ行くのか?」
「ぼくら青に捕虜がいないからには」
「だが、彼らは、捕虜がいたとしても、きみには決してくれないぞ」
「くれるとも……貸してくれるさ」
「貸してだってくれないさ。遺恨もあれば、政治委員に吹きこまれてのぼせた頭もあるし、ぼくらは受け取って彼らは無しのパラシュート投下のせいで身体じゅうに溜まったやっかみの胆汁だってあるし……」
「オンブレとぼくは友だちなのだ」と、ミルトンが言った。「特別の友だちだ。きみは知っているじゃないか。ぼくは彼に個人的な好意として頼んでみるよ」
フランクは首を横に振った。「彼らに捕虜がいるとして、きみに与えるとしても……彼らに捕虜はいない。なぜなら彼らの手に落ちた捕虜は捕虜としている時間もなしに……しかし捕虜がいたとして、きみにくれたとして、きみはどうする? ここへ真っ直ぐ連れてくるのか?」
「いや、いや」と、手を捩りながら、ミルトンが言った。「時間がかかりすぎる。ぼくは最初に出会った司祭を遣って、形式抜きでアルバの丘の上で交換するつもりだ。場合によっては、ニックの兵二人に立ち会ってもらうさ」
雨粒が彼らの頭にあたって砕けて軍服を濡らしていたが、並木道の葉叢の最も乾いた葉音によって強められて初めて、二人はそのことに気がついた。
「おまけに本降りになってきた」と、フランクが言った。
「時間が惜しい」と、ミルトンが言って、下の細道の縁づたいに大股に下りはじめた。彼の踵が泥濘のなかに深くて長い艶のある傷痕を開いていった。
「ミルトン!」と、フランクが呼んだ。「きっと空手で戻ってくるとは思うけれども、もしうまく捕虜を手に入れて交換に行くときには、ぼくらのアルバの丘の上に着いたなら、百ほどの目を皿みたいにして、四方八方に気を配るんだぞ。ごまかしに用心しろ、佯撃に用心しろ。わかったか? 知ってるだろうが、こういう交換はときには地獄の罠なんだぞ」
7
雨はごくこまやかで、肌のうえにも感じとれないくらいだったが、その雨の下で道の泥濘は目のとどくかぎり醗酵しつづけていた。四時に近かった。道は急坂にさしかかっていた。ミルトンはすでにオンブレの旅団の観測、監視域の半径内に入ったに違いなかった。それゆえ目を見開き、耳を欹てながら、急斜面を登った。一歩ごとにいつ頬を掠めて弾が飛んでくるか知れなかった。赤たちは軍服を疑るし、英軍の軍服をドイツ軍と見間違える厄介な傾向があった。だから目を瞠りながら斜面や大灌木地帯を進みゆき、ことに丘の中腹のぶどう畑の農具小屋には注意を払った。
とあるカーブを抜けると、彼はぴたっと立ち止まった。目のまえに無傷の小橋が現われたのだ。
《無傷だ。無傷の橋は地雷橋》谷川の流れと、小橋の上流と下流の膿んだ、黒ぐろとした自然に目を凝らした。上流では谷の両岸が迫りすぎていた。そこで下流を見てみることにした。牧場に下ってそれから岸に出た。が、最後の瞬間に、思い止まった。《信用できない。罠の臭いがする。踏み分け径はずっと下流にある。村人たちがあの下のほうを通るのなら、それなりの理由があるはずだ》降りてあの下手のほうを渡った。間に渡る岩がいくつもあったとはいえ、ふくら脛までずぶ濡れになることは避けられなかった。栗色の濁流は凍るように冷たかった。
道はふたたび彼の真上を通っていたが、そこに到る斜面は高く、険しく、泥で膨れあがって、てかてかしていた。泥が草や突起を埋めつくして、小径を消してしまっていた。極度に集中して登ったけれども、四歩目のあとで滑って、平地までまた落ちてしまったうえに、横腹がすっかり泥にまみれてしまった。平手で泥をこそげ落としてから、再度試みた。勾配の中程でよろめいて、とっかかりを手探りで探したがむだだった。ふたたび、こんどは転げ落ちてしまった。すんでのところで叫んでしまうところだったけれど、がちんとあたりに聞こえる音をたてながら歯をあわせて口を閉じた。すでに泥を着て泥を穿いていたので、三度目には肘と膝を突きたてながら彼は登った。路肩にやっと登りおえるや、カービン銃から泥を落としにかかったけれども、そのとき上手で小さな地滑りみたいな音がした。眼差しを上に伸ばしてみて、道の左手の石灰質の断崖のクレバスから歩哨が踊りでてくるのが見えた。村は断崖のすぐ裏側にあるに違いなかった。なぜなら、空には数知れない煙突の白い煙が、素早く逃げてゆくのが見えたから。
歩哨は道の真ん中に仁王立ちになった。
「銃を下ろせよ、ガリバルディ!」と、ミルトンが大声で言った。「ぼくはバドッリオ派のパルチザンだ。おまえの司令官オンブレと話しにきた」
感知できないほどわずかに銃口を下げて、歩哨が彼に進めと合図した。農夫とスキーヤーの間の身なりに、目出し帽の真ん中に鮮やかな赤い星を縫いつけた歩哨は、まだ幼い少年とさして変わらなかった。
「おまえはイギリス煙草を持っているに違いない」と、開口一番にその少年兵が言った。
「ああ、だけどマナもそろそろ底をついた」と、ミルトンはクレイヴンAの箱を軽く振って彼に進呈した。
「半分ずつにしよう」と、少年は言いながら、口に銜えた。「どんな味だい?」
「かなりなるいかな。さて、連れてってくれるか?」
彼らは登ってゆき、ミルトンは一歩ごとに軍服から泥を落とした。
「そいつはアメリカ製カービン銃だね、え?何口径?」
「八」
「ならば、そいつの弾はステン銃には合わないね。ポケットのなかに何発かステン銃の弾が転がってないかしら」
「いや、それにおまえはどうするのさ? ステン銃を持ってないのに」
「手に入れるさ。何発かステン銃の弾がないなんてありえる? おまえたちは、パラシュート投下があるってのに」
「しかしな、見ろよ、ぼくはカービン銃を持っているんで、ステン銃ではないんだ」
「おいらなら」と、少年がまだ言った。「おまえみたいに選べたなら、ステン銃を取るな。そいつは連射できないだろ、だけどおいらの気に入っているのは連射なのさ」
下方の斜面に雑然と建てられた一軒家の破れ屋根が路面の高さに現われてきた。歩哨はそちらの方角に道を折れた。
「しかしあんなのは司令部じゃありえないぞ」とミルトンが指摘した。「あれはただの哨所じゃないか」
少年は答えずに急坂を下りにかかった。
「ぼくは司令部に行きたいのだ」と、ミルトンが重ねて言った。「ぼくはオンブレの友だちだとおまえに言ったはずだぞ」
しかし少年は泥濘の沸きたつ麦打ち場にとうに飛び下りていた。やっと振りむくと言った。
「ここから通るんだよ。誰でもここを通せと、おいらはネーメガの命令を受けているんだ」
麦打ち場には五、六人のパルチザンがいて、立っている者もしゃがんでいる者も、みな壁にもたれて、泥濘と雨だれの境界にいた。片側に鶏籠で塞がった、半ば崩れ落ちたポーチがあって、昏い大気は、湿気で高められた発散のせいで、雌鳥の糞の悪臭に満ちていた。
あの男たちのひとりが視線をあげて予測しがたい裏声で言った。「あら、バドッリオ派の兵士さん。旦那衆のお出ましだ。ごらんよ、ごらんよ、なんて凄い銃に、装備なんだろう」
「ごらんよ、ぼくがどんなに泥まみれなのかも」と、ミルトンは澄まして答えた。
「見ろ、あれが有名なアメリカ製カービン銃だ」と、二人目が言った。
そして三人目は、感心のあまり妬みも忘れて。「それにあれがコルト拳銃だ。コルト拳銃の写真を撮れよ。ピストルなんてもんじゃない、小型砲だよ。オンブレのラマよりもでかいな。トムソン銃と同じ弾を撃てるってのはほんとかい?」
歩哨が彼の先に立って、汚れたベンチ二つとパンの捏ね箱の残骸以外にはまるで裸の大部屋へ入った。暗くてよく見えなかったので、石油ランプをいじって少年が灯をともした。少ししか照らさないのに真っ黒な脂ぎった煙が出て、くしゃみが出た。
「ネーメガはすぐ来るよ」と、少年が言って、そのネーメガとは何者なのかとミルトンが尋ねる間もなくまた外へ出た。
少年は断崖のその持ち場へは戻らずに、あの男たちと麦打ち場に止まった。鎖で繋がれた犬に彼らの一人が狙いを定めるふりをしていたけれど、先程通りかかったときにミルトンはその犬に気がつかなかった。
「なんの用だ?」
ミルトンはくるりと振りむいた。ネーメガは三十歳は確実にこえた年寄りだった。両眼と口が銃眼の、トーチカ正面みたいな顔つきだった。防水ジャケツを着ていたが、うち続く長雨の下でそれはボール紙の箱みたいに四角張ってしまっていた。
「オンブレ司令官と話したい」
「なにについて?」
「それは彼に言う」
「で、オンブレと話したいという、そのおまえは何者だ?」
「ぼくはバドッリオ派第二師団のミルトンだ。マンゴの旅団だ」パスカルの旅団の所属だと彼は言っておいた。そちらのほうがレーオの旅団よりも規模が大きく名も通っていたからだ。
ネーメガの両眼は実際に目に見えないくらい小さかった。
「おまえは将校か?」と、ネーメガが彼に訊いた。
「ぼくは将校ではないが、将校としての任務を帯びている。で、おまえは誰だ? おまえは将校か、政治委員か、それとも副委員か?」
「知ってるか、われわれはおまえたちバドッリオ派に恨みを抱いていることを?」
ミルトンは憂鬱な関心を覚えて彼を凝視した。「ふん、なぜだ?」
「おまえたちはわれわれから脱走したある男を受け入れた。ウォルターとかいう男だ」
「そんなことか? そいつはぼくらの原則のひとつだ。ぼくらのところには自由に入り、自由に出てゆくんだ。むろん、黒の旅団の手に落ちないかぎりは、だが」
「われわれがおまえたちの哨所に赴いてその男を引き渡すように求めたのに、おまえたちは彼を引き渡さなかったばかりか、われわれを回れ右させて失せさせた。つまり、われわれをブレン機関銃で威嚇したのだ」
「どこでのことだ?」と、ミルトンはため息をついた。
「コッサーノでだ」
「ぼくらはマンゴの部隊だ。しかし、思うにぼくらでも同じように行動したことだろう。おまえたちとはもう関わりたくない男を引き戻そうとしたおまえたちが間違えていた」
「よく話を聞けよ」と、ネーメガが指を鳴らしながら言った。「われわれはあの男には関心がない。われわれに関心があるのは武器だ。やつは小銃を携えて脱走したが、その銃は旅団のもので、彼のものではない。その小銃さえおまえたちは返そうとしなかった。しかもおまえたちにはパラシュート投下があって、ごっそり武器、弾薬があって増えて困って、埋めておかねばならぬというのにな。おまえたちの背中の影に隠れて、ウォルターの言っていたことは嘘だ。つまり小銃が彼のもので、彼が旅団に持ちこんだというのは。武器は旅団のものだった。ウォルターみたいな分子は一ダースでも脱走して構わないが、一挺の銃でもわれわれは失うわけにゆかない。ウォルターに会ったなら、決して道を間違えるな、われわれの管区は大きく迂回しろと言っておけ」
「言っておこう。どの男か聞いて、言っておくとしよう。いまはオンブレに会えるか?」
「おまえはオンブレを知っているのか? じかに、つまり、その名声ゆえにではなくて?」
「ぼくらはヴェルドゥーノの戦闘で一緒だった」
男は感銘を受けたように見えた。まるで過ちの現場を押さえられたかのように。そこでミルトンはわかった気がした。ヴェルドゥーノの時代には、ネーメガはまだ丘に登ってはいなかったのだ。
「ああ」と、男が息を洩らした。「だが、オンブレはいない」
「いないだと! きさまはあのウォルターとその哀れな小銃の話でごたくをさんざ並べておいて、いまになってオンブレはいないとぼくに言うのか? で、どこにいるんだ?」
「外だ」
「外のどこか? 遠くか?」
「川向こうだ」
「気が変になる。しかし、いったい川向こうになにをしに出かけたんだ?」
「いま言うところだ。ガソリンのためだ。ガソリンとして代用する溶剤のためだ」
「今夜は戻らないのか?」
「もうだいぶ経つから、今夜にはこちら岸に渡るだろう」
「ぼくは重大かつ緊急きわまる用件で来たのだ。おまえたちにファシスト軍の捕虜はいるか?」
「われわれに? われわれは捕虜を持ったためしがない。捕虜にしたとたんに、われわれは捕虜を失うからだ」
「ぼくらももうおまえたちよりやわではない」と、ミルトンが言った。「だからこそぼくらには捕虜がいないから、おまえたちに求めにきたのだ」
「これはずいぶんと耳新しい話だ」と、ネーメガが言った。「で、われわれが捕虜をおまえたちに贈らねばならないのか?」
「貸与だ。通常の貸与だ。せめて政治委員はいないのか?」
「われわれにはまだいないんだ。いまのところはモンフォールテの師団からときおりやって来るが」
ネーメガは石油ランプの焔を強くしに行って戻りしなに言った。「捕虜をどうするのだ? おまえたちの誰かと交換するのか? いつ捕まったんだ?」
「今朝だ」
「どこでだ?」
「アルバ側の、別の斜面でだ」
「どうして?」
「霧だ。ぼくらの方面は乳の海だった」
「おまえの兄弟か?」
「いや」
「それなら友だちか? わかるさ、おまえが泥濘を抜け出てここまでやって来てそんな交渉をもちかけるくらいだからな。しかしだ、捕虜を自前で調達できないのかな?」
「たしかに」と、ミルトンが答えた。「とうにぼくらの仲間がそのために動き回っている。だからこそぼくらはおまえたちに捕虜を借りても返せると踏んでいるのだ。だがな、九月の収穫月にぶどうを摘みに出かけるのとはわけがちがうんだ。何日間か、かかってしまうかもしれない。そしてその間に、たぶんまさしくわれわれがここで議論している間にも、ぼくの仲間はすでに壁際に立たされてしまったかもしれない」
ネーメガは静かにだが考えこむように、罵った。
「それではおまえたちに捕虜はいないんだな?」
「いない」
「ぼくは遅かれ早かれオンブレと再会するし、そのときには今日来たこの件を話すからな」
「おまえはなんとでも彼に話すがいいさ」と、ネーメガが素っ気なく答えた。「わたしは平気だ。おまえにわれわれには捕虜がいないと言ったが、それはほんとうのことだからな。だが、待つがいい。なぜわれわれに捕虜がいないのか、おまえに告げられる男に話をさせよう」
「むだなことだ……」と、ミルトンがまだ言いおえぬうちに、あの男は汚い家のなかに消えて、呼んでいた。パーコ、パーコ。
その名前を聞いて彼ははっとした。パーコ。彼の知っているあのパーコだったら。だがそんなことはありえない。きっと別人のパーコだ。それにしても、パーコという戦闘名をもつパルチザンは多くはないはずだった。
嫌気のさした尻下りの声で、谷間に向かって、ネーメガがパーコと呼ぶのがまた聞こえた。
初夏に、ネイーヴェの守備隊で、以前はバドッリオ派の兵士だったパーコのことを、ミルトンは考えていた。やがて徴発に関してその司令官のピエッレと口論して姿を消してしまった。そして彼は〈赤い星〉に移ったのだと考えた者もたしかにいた。《しかしあのパーコであろうはずがない》と、ミルトンは結論した。
ところがまさしく彼だった。少しも変わらず、大きな図体で茫洋として、パン屋の小型シャベルみたいな手をして、黄色い額には赤みをおびた前髪がかかっていた。中へ入るなりすぐにミルトンとわかった。彼はいつも人づきあいのよいやつだったし、ミルトンも彼には胸襟を開いたものだった。
「ミルトン、老いた蛇よ、おまえはネイーヴェでのことを覚えているか?」
「むろんさ。だがそれからおまえは立ち去った。ピエッレが原因だったのか?」
「とんでもない」と、パーコが答えた。「ピエッレのせいでおれが抜けたと誰もが思っているが、そいつはほんとうじゃあない。おれはネイーヴェが好かなかったんだよ」
「ぼくは嫌いじゃなかったが」
「おれは嫌いだったね。しまいには見るのも嫌になったし、眠ることもできなくなった。ただの迷信だったかもしれないけれど、あの村の位置がいけなかった。二つの集落に分かれていることも気に入らなければ、真ん中を鉄道が通っていることも気に入らなかった。しまいにはおれは時を告げるその鐘の音にも我慢ならなくなったんだ」
「で、いまは、ガリバルディの部隊のなかでおまえはどんな具合だ?」
「悪くはないよ。だが、重要なのは赤か、それとも青か、ということじゃなくて、重要なのはいまいるかぎりの黒を削除することさ」
「そのとおりだ」と、ミルトンが言った。「オンブレがファシストの捕虜を持っているかどうか、言ってくれるか?」
パーコは即座に首を横に振った。
「イギリス煙草を吸いなよ」と、箱を差しだしながら、ミルトンが言った。
「ああ、一本ためしてみたいね。おれがバドッリオ派にいたころにはまだ出回ってなかったからな」
「オンブレが外に出ているというのはほんとうか?」
「彼は川向こうにいる。甘いタバコだ。女が吸うやつだ」
「そうだ。じゃ、捕虜は一人もいないのか?」
「おまえの来るのが一日遅かったよ」と、パーコが小声で答えた。
ミルトンは絶望の笑みを漏らした。「そいつは言わないでくれたほうがよかったな、パーコよ。で、何者だったんだ?」
「ファシスト軍の伍長だ」
「そいつならぴったしだったのになあ」
「痩せた大男でな。ロンバルディーア人だったよ。捕虜を探しているのは交換のためか? おまえたちの誰が捕まったんだ?」
「ジョルジョだ」とミルトンが言った。「マンゴのぼくらの仲間だ。たぶん覚えているだろう。金髪のあの美青年だよ。エレガントな……」
「ううん、いたような、いたような。」
ミルトンは頭を俯けて、カービン銃を肩に負いなおした。
「まさに昨日」と、パーコが耳うちした、「まさに昨日、片づけてしまったんだ」
彼らは麦打ち場に降りた。あの五、六人の男たちはどこへとも知れずいなくなって、鎖に繋がれた犬だけが勢いづいて、絞め殺されたみたいに歯を剥きだして唸りながら、彼らに飛びかかろうとした。信じがたいくらいに暗くなって、気違い風がおのれの尾を噛むかのようにぐるぐる回って渦をなして吹きすさんでいた。
パーコは彼を道まで送りに出て、なおしばらくのあいだ一緒に歩いた。「青のなかではおまえとおれはうまのあう仲間だった」と、彼が言った。
道に出るとパーコが言った。「どんなふうにやつが死んだか、知りたいか?」
「いや、死んでしまったということを知っただけで充分だ」
「そいつは保証つきだ」
「おまえがやったのか?」
「いや。おれはやつをそこまで連れていっただけだ。ここからは見えない森のなかだ。そして銃殺が終わったら、おれはすぐその場を離れてしまった。やった者が埋める、正しいか?」
「正しい」
「ふた声、叫びやがった。なんて叫んだか、わかるかい? 統領万歳!だと」
「ごたいそうにな」と、ミルトンが言った。
雨は降っていなかったが、斜めに吹きつける風の下で、アカシアの木々が悪意をこめたみたいに、辛辣に、斜に雨だれを飛ばしてきた。ミルトンとパーコは音をたてて震えていた。石灰質の大絶壁が暗闇のなかにぼやけていた。
パーコはミルトンがもう反対しないと悟って話しだした。
「昨日の午前中ずうっとやつがおれに話したのは豚の統領のことばかりだった。やつの引渡しがおれの任務だった。十時ごろオンブレが一台のオートバイを遣ってベネヴェッロの主任司祭を連れてこさせた。この伍長が司祭を望んだからだ。ベネヴェッロの主任司祭についちゃ、昨日の朝は笑わされたよ。だからいまはおまえさんも笑わせてやるよ。サイドカーから降りるなりオンブレのところへ駆けていって言ったものだ。《いつもわたしにあんたの死刑囚の告解を受け持たせるのは、もうこれっきりにしていただきたい! どうか、この次の折りにはロッディーノの主任司祭を使ってください。彼のほうがわたしよりも若く、より近くに住んでいる事実を別にしても、少しは交替して、輪番にして欲しい。われらの主イエス・キリストにかけて!》
ミルトンは笑わなかったのにパーコが続けた。「それから、司祭とあの兵隊は地下室の階段半ばに引き籠もる。おれともう一人のジューリオという名の男は階段のてっぺんに待機して、おかしな真似をしたらやつを消してしまおうと構えている。だけど、やつらが話していたことについちゃ一言もわからなかった。十分経ってまた上がって来るが、最後の段のうえで司祭がやつに言う。《わたしはおまえを神にとりなしてやったが、生憎と、人間たちに対してはおまえになにもしてやれないのだ》。そしてそっと逃げだす。伍長はおれとジューリオと残る。震えてはいたが、さほどでもない。《まだなにを待つのだ?おれは覚悟できている》と、やつが言う。そこでおれが。《まだおまえの時ではない》《今日はしないということか?》《今日は今日だが、すぐにじゃない》するとやつは麦打ち場の真ん中にくずおれて、二掌尺の泥濘に坐りこみ、両手で頭を抱えこむ。おれはやつに言う。《もしおまえが手紙を書いて、司祭が発つまえに手渡したいのなら……》するとやつ。《でも誰に手紙を書く? おまえは知るまいが、おれは売女とこそ泥の子だ。それとも捨子の大統領に手紙を出せというのか?》するとジューリオ。《おお、だがこの共和国じゃおまえたち私生児がなんて多いんだ》すぐあとでジューリオが五分間の委員会に出なくてはと言って、おれに銃を預けて立ち去る。《あいつは糞をしに行ったんだ》と、伍長は彼を目で追いもせずに言う。《おまえもしたいか?》とおれが聞く。《かもな、だがしたってなんになる?》《それならタバコを吸いな》と、おれはやつに言って、箱をやつに差しだすのに、やつは断る。《おれにその習慣はない。おまえは信じないかもしれないけれど、おれには喫煙の習慣がないんだ》《でも、吸いな。やたら強くはないし、実に美味いぜ》《いや、おれはタバコを吸うのには慣れてないんだ。もしも吸ったりしたら、咳が止まらなくなってしまうだろう。ところがおれは叫びたいんだ。せめてこれだけは》《叫ぶ?いまか?》《いまではなくて、おれの時が来たときに》《好きなだけ叫ぶがいいさ》と、おれが言う。《おれは叫ぶんだ、統領万歳!》と、やつがおれにのたまわったよ。《まあ、おまえの好きなように叫ぶがいいさ》と、おれは言う。《ここでは誰も顰蹙しないからな。だが、心に留めておくといい。おまえは男を下げるぞ。おまえの統領は大の卑怯者だ》《ぷふぁっ!》とやつが言う。《統領は偉大だ。最も偉大な英雄だ。おまえら、おまえらこそ大の卑怯者だ。そしておれら、彼の兵隊のおれらも、大の卑怯者だ。もしもおれらが大の卑怯者でなかったら、もしもおれらが適当にやってばかしいなかったら、いまごろはおまえらをみな根絶やしにして、おまえらの最後の丘の上におれらの旗を突き立てていただろうに。だけど統領は、彼は最も偉大な英雄だから、おれは叫びながら死ぬんだ、統領万歳!》そこでおれ。《おまえにはもう言ったはずだ。おまえは好きなことを叫べるんだよ。だがな、重ねて言うが、おれの考えでは、おまえは男を下げるぞ。おれは確信しているんだ。おまえはな、ずっと男らしくおまえは死ぬだろうよ。やつにその時が来てやつが死ぬ、そのざまよりもな。しかもその日は近いだろう、この世に一つの正義があるならばな》そして彼。《で、おれはおまえに重ねて言うが、統領は最も偉大な英雄だ。不世出の英雄だ。だのにおれらイタリア人はみな、おまえらもおれらも、彼には相応しくないこぞってむかつく連中だったんだよ》で、おれ。《おまえのいまの身を思えば、おれはおまえと議論はしたくない。しかし、おまえの統領は大の卑怯者だぞ、不世出の卑怯者だ。おれはやつの顔のなかにそのことを読み取ったのだ。よおっく聞け。ついこの間、おれの手のなかにたまたま当時の、つまりおまえらにとって良き時代の、新聞が滑りこんだんだ。そこには半ページほども占めてやつの写真が載っていて、おれはじっくりと一時間そいつを仔細に眺めたのだ。そしてだ。おれはやつの顔のなかにそのことを読み取ったのだ。おれがこんなに言って聞かせるのはな、おまえが死の間際にあんな野郎の万歳を唱えておまえの男を下げさせたくないからだよ。おれには太陽みたいに明らかに、そのことがわかったよ。いまおまえが死ぬときであるように、やつに死ぬときが来たら、やつは男らしく死ぬことができないだろうよ。しかも女らしくだって死ねないだろうさ。豚らしく死ぬことだろう。おれにはそれがありありと見えるね。なぜなら、やつはとびっきりの卑怯者だからだ》《統領万歳!》と、やつは言うが、静かに、あいかわらず拳で頭を抱えこんだままだ。そこでおれは業を煮やしたりせずにやつに言う。《やつは途轍もない卑怯者だぞ。おまえらのなかで最も汚らしく死ぬ者でさえ、やつと比べたら、それでも神みたいに死ぬことだろう。なぜって、やつは途方もない卑怯者だからだ。イタリアが存在して以来、存在したイタリア人のなかで最悪の卑怯者だぞ。その卑怯さときたら、たとえイタリアが百万年続いたとしたって、匹敵する者がもう出ないくらいの無比の卑怯さなんだぞ》そしてやつ。《統領万歳!》と、あいかわらず小声で言った。やがてジューリオがやって来て、おれに言った。《おれたちに手早く片づけろだと》そこでおれは伍長に。《立て》《よしきた》と、やつが言う。《太陽ともおさらばだ》しかも言っておくが、指ほどもある雨つぶが降りそそいでいるときにだ」
「ここで別れよう」と、ミルトンが言った。「しかしうんざりだな。またも豚みたいに泥まみれにならねばならないのが」
「なぜ?」
「橋だ。地雷が埋まっているんだろう、違うか?」
「地雷なんか埋まっているものか。いったいどこから爆薬を調達するんだい? で、これからどうする?」
「ぼくの部隊へ戻るさ」
「あのおまえの友だちのためにはどうするつもりだ?」
ミルトンは躊躇い、やがてそれを告げた。
パーコは騒々しく息を吸いこんでから、言った。「言えよ、どの方面でやるんだ。アルバか、アスティか、それともカネッリか?」
「アスティは遠すぎる。アルバはぼくの故郷だし、しくじったら……故郷で失敗するという考えはいただけない。それにぼくに会いにぞろぞろついてくるだろう。もしそこで厄介なことになって、敵との接触を断つために撃たねばならなくなったら、やつらの手のなかには即座に仕返しのできるジョルジョがいる」
「カネッリしかないか」と、パーコが言った、「だが、おまえはおれよりもよく知っているだろうが、カネッリは黒のサン・マルコ旅団で溢れ返ってるぞ。おまえは最悪の水溜めに釣りにゆくことになる」
「背後を取られた人間はみな同じだよ」
8
夜の十時ごろ、ミルトンは、レーオとともにトゥレイーゾに再びいるどころか、そこから歩いて二時間の、サント・ステーファノとカネッリに面する大きな丘の、山裾に紛れた一軒家にいた。
闇のなかで彼はその家を手探りで見出したが、その様子なら諳んじていた。恐ろしい平手打ちを屋根に食らって、以来いちども修理されなかったかのように、低くひしゃげた家だった。谷間の凝灰岩と同じ灰色で、不順な気候のせいで腐った板囲いにほぼ覆われた縁の欠けた小窓に、こ
れも腐って石油缶の一部で繕われたバルコニー。片方の袖が崩れ落ちてその壊れ屑が山桜の幹のまわりに積み重ねられていた。あの家で唯一微笑ましいのは新たに修理された屋根の一部だが、それも鬼婆の髪に挿した一輪の赤いカーネーションみたいに、ぞっとさせた。
冷たい水の瓶に夕食の皿などを沈めている老婆に背を向けて、ミルトンはタバコを燻らしながら、玉蜀黍の穂軸の痩せた炎を見つめていた。すでに私服に着替えていて、不充分にしか覆われていないと身に感じていた。ことに上衣は夏服みたいに軽い気がして、そのひどく痩せてしまった身体が目立った。カービン銃をおのれの脇の、炉の隅に立てかけて、拳銃は腰掛のうえに置いていた。
眼を転じないで婆が彼に言った。「熱があるね。肩をすくめないの。熱は肩を竦められるのを嫌うからね。ほんのわずかな熱だけど、熱があるね」
一服ごとにミルトンは咳をするか、それとも咳を抑えようと痙攣的に身を捩るかした。
女がまた話しだした。「今回は不味いものを食べさせちゃったわね」
「とんでもない!」とミルトンが心から言った。「玉子を食べさせてくれた!」
「この穂軸の炎では暖まらないわ、ねえ? でも、薪は節約しているのよ。この冬はとても長いでしょうからね」
ミルトンが肩で頷いた。「この世界が世界になって以来、一番長い冬となるだろう。六ヵ月間の冬となるだろう」
「なぜ六ヵ月間も?」
「ぼくらが二度目の冬を越さねばならないとは、ぼくは思ってもみなかった。そのことを予測したと告げにくる者はいなかったし、そんなことをすれば、ぼくはそいつに面と向かって嘘つきとか、法螺吹きとか、浴びせたことだろう」彼は婆のほうに半ばふり向いて、つけ加えた。「去年の冬には、ぼくはとても素敵な仔羊の毛皮のコートを持っていたんだ。四月の半ばごろ、ぼくはそれを投げ捨ててしまった。とても素敵だったし、自分のものを捨てるときにはぼくはいつもいくらか胸が締めつけられるのにね。考えてもみてよ、戦争に加わるまえの、少年のころから、ぼくはタバコの吸殻を投げ捨てるたびに胸が締めつけられたんだ。ことに夜中に、暗闇に投げ捨てた吸殻にはね。考えてもみてよ、吸殻たちの宿命にぼくは胸が締めつけられたんだ。あの毛皮のコートは、ムラッツァーノ方面で、ぼくは生け垣の後ろに投げ捨てたんだ。あのころぼくは確信していた。また寒さが始まるまえに、ぼくらはファシズムを二度は楽にひっくり返せるだけの暇があるとね」
「で、ところが? ところがいつそいつは死ぬの? いつになったらあたしらはそいつが死-ん-だ、と言えるの?」
「五月だ」
「五月!?」
「だからこそぼくは言ったんだ。この冬は六ヵ月間続くだろうって」
「五月」と、女はおのれ自身に言った。「たしかに、それは恐ろしく遠い。でもせめて、真面目で教育あるあんたみたいな青年が言ったからには、それが終わりなんだ。可哀相に人びとはただ終わりだけを必要としている。今夜からはあたしは信じたい。五月からはあたしらの男たちは昔のように市や市場に出かけてゆくことができて、道端で死ぬことはない、と。青年男女は野外ダンスができて、若い女たちは喜んで妊娠し、あたしら年寄りは自分らの麦打ち場へ出ても武装したよそ者に出くわす恐れはない、と。そして五月には、美しい夕べに、あたしらは外出できて、村々のイルミネーションを眺めて心ゆくまで楽しみあえるのだ、と」
女が話し、平和の夏を描写しているあいだに、ミルトンの顔のうえに痛ましいしかめ面が描かれてそのまま止まった。フールヴィアなしでは彼にとっては夏ではない。その真夏に寒気を覚えるこの世にたった一人の男となってしまうことだろう。だがもしフールヴィアが、あの泳ぎ渡った荒れ狂う大海原の向こう岸で彼を待っていたなら……彼は絶対に知らねばならなかった。明日には、彼は絶対にあの素焼きの貯金箱を叩き割って、真実の本を買うための貨幣を引き出さねばならなかった。
彼はこうした考えに浸ることができた。なぜなら女は一分間ほど口を噤んで、屋根に打ち当たる激しい雨音に耳を澄ませていたから。
「あんたは思わない」と、やがて言った。「あたしの家の上には〈永遠の主〉はほかのどこよりも雨を激しく打ち当てるとは?」
ミルトンのまえに進み出て、大籠のなかの穂軸を残らず炎のなかにぶちまけると、干からびて、油に汚れ、歯は抜け、臭う女が、小さな骨の束みたいな両手を脇に当てて、彼のまえに立ったが、一方、ミルトンはかつての、若い、少女を女のなかに見出そうと絶望的に試みていた。
「で、あんたの仲間なのかい?」と彼女が尋ねた。「今朝、不幸に見舞われたあのかわいそうな青年は?」
「わからない」と、彼は答えながら、部屋の床に視線を捩った。
「見てとれるよ、あんたがそのことで苦しんでいることくらい。彼のためにあんたらはなんにもできなかったのかい?」
「なんにも。師団じゅうに交換のための捕虜が一人もいなかった」
婆は両腕を上げて揺り動かした。「ほら見な、捕虜は節約して、取っておかねばならないのさ、今朝みたいな場合のために、んん? けれども、捕虜をあんたらは持っていたんだよ。あたしは捕虜をひとり見たよ。数週間まえに、あたしの家のまえの小径を通りすぎたんだ。目隠しされて両手を縛りあげられて、それもフィルポが膝で小突きながらまえへ押しやっていた。あたしは麦打ち場から彼に叫んだんだ。少しは憐れみを持ちな、憐れみこそはあたしらみながいま必要としていることなのだからって。フィルポは激怒の固まりになって振りむいてあたしを鬼婆と罵って、すぐにあたしが身を隠さなかったら撃たれてしまうところだった。フィルポ、あの子になら、あたしは百回も食べさせて眠らせてやったことだろうに。わかった? 捕虜たちは節約せねばならないんだよ」
ミルトンは首を横に振った。「この戦争はこういうふうにしかやりようがないんだ。それにぼくらが戦争に命じているのではなくて、戦争こそがぼくらに命じているのだ」
「そうかもしれない」と、彼女が言った、「でもそういう間にもあの下のほうのアルバでは、アルバがいまは貶められて呪われたあの土地では、彼をもう殺してしまったかもしれない。あたしらが兎を殺すみたいに、彼は殺されてしまったかもしれない」
「わからない、まだではないかと思う。ベネヴェッロからの帰りがてらに、モンテマリーノの道すがらに、ぼくはコーモの守備隊のオットに出会ったんだ。オットは知っている?」
「オットも知っているよ。彼には食べ物と寝床を一度ならず与えているからね」
「オットはそのことについてまだなにも知らなかった。彼はアルバに一番近い守備隊の男だ。すでに銃殺されてしまったのなら、オットはとうにそのことを知っているはずだった」
「それなら明日までは心配はないのね?」
「そうとは言い切れない。あの下のほうで銃殺されたぼくらの最後の男は、夜中の二時に銃殺されているんだ」
婆は両手を頭上に挙げたのに頭には置かなかった。
「あたしの思い違いでなければ、彼もあんたと同じアルバの出だったね?」
「ええ」
「友だちだったの?」
「ぼくらは一緒に生まれたんだ」
「で、あんたは?」
「ぼくが、なに?」とミルトンはかっとなって言った。「ぼくに……なにができる?」
「あたしが言いたかったのは、それが彼ではなくてあんただったということも充分にありえたということよ」
「おお、たしかに」
「そのことを考える?」
「ええ」
「それなのに……?」
「いえ。かえって。それだからこそ、さっきよりも始末が悪い」
「でも、あんたの母親はまだ元気なんでしょう?」
「ええ」
「なのに母親のことは考えないの?」
「いえ。考えるけど、いつもあとで」
「なにのあとで?」
「危険が去ったあとで。危険のまえや最中には決して考えない」
婆はため息をついて、微笑みに似た、幸福なくらいの小さな安堵の笑みを漏らした。
「ずいぶんとあたしは絶望しきったものだった」と、彼女が言った。「ずいぶんとあたしは怒り狂ったものだった。だから、すんでのことで精神病院へ送りこまれるところだった……」
「いったい、なんの話を?」
「あたしの二人の息子の話だよ」と、答えながら、彼女は笑みの輪を顔に広げた。「一九三二年にチフスで死んでしまったあたしの息子たちの話さ。一人は二十一歳で、もう一人は二十歳だった。ずいぶんとあたしは絶望しきって、ずいぶんとあたしは乱心したものだから、あたしをほんとに愛してくれていた人たちまであたしを入院させようとしたものさね。でもあたしはいまは満足している。いまは、時の流れに苦しみは去って、あたしは満足しているし、もう落着き払っている。おお、あたしの可哀相な二人の息子たちはなんて幸せなのだろう。いまは地下でなんて幸せなのだろう、人間たちに脅かされることなく……」
ミルトンが片手を上げて、静かにと彼女に命じた。コルト拳銃を握って戸口を狙った。「あんたの犬が」と、婆にささやいた。「怪訝な動きをしている」
外で犬が吠えずに歯を剥きだして唸っていた。紛らわしい雨音をとおしてもその唸り声はよく聞こえた。ミルトンは腰掛から半ば腰を浮かせて、あいかわらず拳銃を戸口に構えていた。
「構わないで」と、婆がふだんよりも高い声で言った。「あたしはこの獣のことはよおっく知っている。こんなふうに唸るのは危険が迫っているからではなくて自分自身に腹を立てているからなの。耐え忍ぶということのできない犬なのよ。一度も堪え忍べたことはないわね。ある朝、麦打ち場に出てみれば、この犬がじぶんの足を使って縊れていたとしても、あたしは肝を潰したりはしないでしょうよ」
犬はなおも怒っていた。ミルトンはもうしばらく耳をそばだててから、拳銃を置いてまた腰を降ろした。婆は台所の遠い隅に戻っていた。
とある瞬間に妙な顔をしてミルトンのほうを振り返り、なんと言ったのかと彼に尋ねた。
「ぼくはなにも言っていない」
「あんたはたしかになにか言ったわ」
「そうは思えないけれど」
「あたしは年寄りで、耳のよさで二十歳の若者と張り合えるはずもないけれど、それでもあんたは、なんとかの四人と言ったわ。たぶん、あの四人のうち一人と言ったのではないかしら」
「そうかもしれない、でもぼくはそのことに気がつかなかった」
「まだ一分も経ってないまえのことよ。あんたは四人と関わるなにかを考えていたの?」
「ぼくは覚えていない。ここではもう誰も正常ではない。ただ雨だけがいまだに正常なのだ」
実際には彼は激しく《あの四人のうち一人》と考えていたから、きっとつい口に出してしまったのだろう。そして彼はそのことを考えつづけて、その間にも脳からはあの日の朝、ヴェルドゥーノの居酒屋を満たしていた茹でた牝牛の肺臓のひどい臭いが鼻へ下ってくるのだった。
あれは青と赤が組んで一緒に戦った始めての折だった。ヴェルドゥーノの守備隊はバドッリオ派で、すぐ隣の斜面はフランス人ヴィクトール指揮下の赤の旅団が占領していた。アルバの連隊の一個大隊がすでに谷底に現れていた。歩兵と騎馬隊だったのだが、騎馬隊は最後の瞬間になって突如現れた。歩兵は浅はかにも漫然と前進してきた。前進拠点もなく、側面掩護もなく、なにもなかった。とっくに広場に到着していたヴィクトールは、そうした様子を長いこと双眼鏡で観察してから言った。「近接行動中のやつらを撃つのは止めよう。村は無防備で平和そのものだと見せかけよう。そしてやつらを通りや広場で、銃口を突きつけて、肉薄して直撃で歓待してやろう。やつらは罠に嵌まるまで気がつかないことだろう。あいつらは精神薄弱か、それとも酔っ払いか、きみらは見ないのか?」議論をしに居酒屋に引きこもったが、茹でた牝牛の肺臓のむかつく臭いがあたりに漂っていた。バドッリオ派の指揮官エドはヴィクトールの作戦に反対だった。なぜなら、あとで村が恐ろしい報復を受けるだろうから。整然と村の外で野戦を行うほうが、と彼は言った、断然よろしい。そして結果がどうであれ、村は勝敗の影響を、理に叶って、免れねばならない。「こいつは典型的に、ぞっとするばかりに青だなあ」と、当時はただの支隊長だったオンブレがミルトンにささやいた。ミルトンと他に数人の青がヴィクトールの作戦を支持したが、エドはその正規路線をいっかな変えなかった。彼は正規将校の頭で固まっていたし、とりわけ最終的な勝利が確実であるならば、あいだにある大小の戦闘をパルチザンは一貫して敗北してもかまわないという考えの持主だった。すると、半ばフランス語、半ばイタリア語で、ヴィクトールが言った。「ヴェルドゥーノはきみらの守備隊駐屯地だが、ぼくはいまその中にいるし、ぼくは撤退しない。きみらはどうぞ外から駐屯地を守りたまえ、ぼくはそれを中から守る。だから、ヴェルドゥーノはどのみち被害を被ることだろう。なぜなら、ぼくの部隊だけでは、ぼくはやつらを遠くに止めておくことはできないだろうから」この言葉にはさすがのエドも思い知って、折れた。
やつらを村なかで迎え撃つこと、それまではいささかも気配を気取られてはならない、と彼らは合意した。ミルトンは広場の胸壁の後ろに待ち伏せした。すると、彼の傍らにしゃがみにまさしくオンブレがやって来た。彼らは一緒にファシスト軍が攀じ登ってくるのを眺めていた。一部は道路を登ってきたが、他は畑や牧場を突っ切ってきた。後者のほうが苦労して、しばしば滑り落ちていた。土は一週間足らずまえに積雪が消えたばかりだった。だから将校さえいなかったなら、みな羊の群れよろしく道路を登ってきたことだろう。いまではとても近くまで来ていたし、大気は澄みきっていたので、ミルトンはその良い眼でやつらの顔つきや、髯と口髭を生やした者と生やしてない者、自動銃を持つ者と小銃を持つ者を、よく見て取った。それから振り返って村なかの全体の配置を眺めて、村の計量所脇にヴィクトールとその本隊がサンテティエンヌ機関銃を据えて待ち伏せているのを見た。反対側を眺めて、彼の青たちがアメリカ製重機関銃を据えているのを見た。なおも数瞬、胸壁の後ろに止まってから、彼らは這って後退し、ミルトンは村役場のアーケード下の仲間たちと合流した。彼オンブレは仲間のところへは戻らずに、できるだけ孤立して、塩タバコ専売店の角の後ろに身を隠した。最初に現れた敵兵は──短く刈りこんだ顎鬚の、大きな図体の軍曹で──まさに専売店の正面に姿を現した。オンブレはわずかに身体を出して、その角からやつを連射した。胴体ではなくて頭を狙ったから、あの軍曹の鉄兜と頭蓋半分が飛び散るのが見えた。
オンブレの連射が総員撃ての合図となった。ファシスト軍は数発しか撃たなかった。茫然自失のあまり、もう態勢を立て直せなかった。最大の殺戮はヴィクトールのサンテティエンヌ機関銃が果たしていた。あとで、計量所まえの通りには十八体の死体が伸びていたが、いずれも二列に鉛弾を浴びせられていた。専売店の手前で通りは砂利道となって下りにかかるけれども、そこを血がぶどう酒みたいに小川となって流れ、脳味噌の切れ端がそのうえに浮かんでいた。ミルトンはいま思い出したが、ジョルジョ・クレリチは吐いたあげくに気絶してしまって、まるで重傷を負った兵みたいに世話の焼けたことだった。
もう射撃音は聞こえず、ただ叫び声だった。まだ生きているファシスト兵士が叫び、人びとが家並のなかで叫んでいた。生命からがらの兵隊が通りから戸締りを蹴破って家のなかに雪崩れこみ、寝台の下、パンの捏ね箱のなか、果ては老婆のスカートのなかや、厩舎の飼葉の下や家畜のあいだに隠れた。ヴィクトールが脇道の路地を馬みたいに駆け抜けながら《前へ! 大隊、前へ!》と叫んでいるのが聞こえた。
とある瞬間にミルトンはおのれ一人なのを見出した。どうしたわけか、兵隊の死骸は別にして、不意にまったく一人っきりになってしまったのだ。あの半ばの沈黙とあの全き人けの無さのなかで、彼は震えた。やがて計算された足取りが、彼のほうに聞こえて、彼は水盤の後ろに待ち伏せして、銃口を向けた。しかしそれはオンブレだった。友として、兄弟として、彼らは互いに出会った。そのうちにまた叫び声と銃声が聞こえたけれども、それは彼らの勝利を祝う騒ぎだった。彼らは教会の近くにいて、爪先立って逃げ隠れる者たちの足音を彼は聞きつけたように思った。おまえも聞いたかと目顔で尋ねるオンブレにミルトンは顎でああと合図した。「教会のなかだ」と、オンブレが囁いて、彼らはあらゆる用心を重ねて中へ入った。なかは陰があって涼しかった。洗礼堂のなかを掻き回して探すことから始めて、ついで最初の懺悔堂。吐息ひとつ聞こえなかった。オンブレは内陣を横目で見たが、やがてその考えを追い払って、腰掛を一列ずつ捜索しはじめた。こうして、矢筈模様に縫いながら、大祭壇へと近づいていった。さらに近づくと、祭壇の裏手から、両手を上げた兵士がいきなり現れて、「おれたちはここの後ろにいる」と、少女みたいな声で言った。男は恐怖に竦みあがっていて、降伏したことでむしろ安堵していた。オンブレがわずかに笑みを浮かべながら、「出てこい、何人いるんだ」と、悪戯の現場を押さえた年長者のゆるす口ぶりで、静かに、優しく言った。するとあの四人が祭壇の後ろから手を高く上げて出てきて、オンブレとミルトンがあのように落着いて、優越していて、蹴りもしなければ殴りもせず罵りさえしないのを見て、ほっとしたのだった。
彼らは教会から出た。太陽は倍ほどに熱さと輝きを増したかに見えた。四人の捕虜たちは絶えず瞬きをくり返し、オンブレの赤い星からミルトンの青いスカーフへと眼を転ずるのだった。武器はよほどまえに投げ捨ててしまったに違いなかった。
ミルトンは彼らの本隊がすでに村外に出て尾根筋に向かっているのを見て、急いで同じようにするよう、オンブレに言った。彼らは家並を外れて、頂から四分の三のところで、丘を斜めに突っ切ろうとした。丘はさほど高くはなかったけれども、上部がかなり膨らんでいて木立も生け垣もなかった。
突然、ミルトンは、彼らの前方三百メートルをゆく本隊末尾の動きに気がついた。にわかの非常合図と絶望的なダッシュと、なにもかも彼を動顛させる動きだった。その直後には、たくさんの軍馬のギャロップが彼の耳を痛撃した。本隊は混乱したが、ヴィクトールが咄嗟のうちに彼らを掌握して最善の行動に出た。全員に尾根に取りつき、谷間に飛びこめと命じた。男たちにとっては一種の滑り台だったけれど、馬にとっては断崖と変わらなかった。崖っ縁に出て、身を躍らせ、下へ転げ落ちる、こうして本隊は無事だったといえる。しかし、ミルトンとオンブレは突撃に曝された。彼らはひどく後方にいて、尾根まではまだ二百歩もあった。ただ飛ぶように走れば助かるかもしれなかったが、彼らが飛ぶように走ったところで、状況を悟ったあの四人が飛ぶように走るわけはなかった。「走れ!」とオンブレが命令した。「畜生みたいに走れ!」だが、あいつらは女みたいに走った。ミルトンが下方に視線を放って、先頭の騎馬が坂に差しかかって、どの馬の横腹からもストーブみたいに蒸気が昇っているのを見た。捕虜たちはいくらかばらばらになって、最も谷側の者はたぶん先頭の騎馬から百メートル足らずのところにいて騎兵たちに合図を送ろうとしていた。騎兵たちはまだ撃ってはこなかった。距離のためもあるが、ギャロップの上下動のなかで彼らの仲間を撃ってしまう虞れがあったからだ。彼らの仲間は灰緑色の軍服でそれと知れたし、オンブレとミルトンは雑多な色の服装をしていた。
「どうしようか?」とオンブレがミルトンに叫んだ。「おまえがやれ!」けれども二人とも髪の毛を針みたいに逆立てていた。騎馬隊はあと八十歩までに迫り、斜めにギャロップしていた。そこでオンブレがあの四人に列を詰め、集まれと権威をこめて叫んだのでたちまち彼らは従って花
束みたいになったところで、オンブレは彼らのなかに弾倉が空になるまで全弾を撃ちこんだ。彼らは一束になって転げ落ち、やがて各人各様のはずみがついた死体となって転がり落ちてゆき、下方の騎馬隊に会いに行った。そして馬上の兵たちの恐ろしい叫び声が聞こえてきた。あの身の毛もよだつ叫び声に、やっとミルトンはわれに返り、ロケット弾みたいにダッシュした。それまでオンブレの所業が彼をその場に凍りつかせていたのだった。騎馬隊は撃ってはきたが、五十歩と離れていなかったにしろ、彼ら二人に当たったらまぐれだったろう。彼らは同時に尾根にたどり着き、同時に宙に身を躍らせた。谷底について羊歯の茂みから彼らが断崖の縁を見上げたとき、馬たちはまだそこに顔を覗かせてはいなかった。
ミルトンはそこいらじゅうに痛みの走る胸をマッサージしながら、立ち上がった。
「なぜここで眠ってゆかないの?」と婆が言った。「あたしはあんたを自分の屋根の下に置いたからって、ちっとも怖かないよ。いま出ていかれたら、虚ろな夜になる気がするし、夜明けだって空しく感じてしまうことだろう」
彼は拳銃をサックに収めて、上衣の下にガンベルトを巻きつけて止金を締めようとしていた。
「ありがとう。だけど、今夜のうちに丘を越えたいんだ。目が覚めたら丘越えってのはいただけない」
壁と闇をとおして非常な高みから降る雨を見ることができた。雨は、そのマストドン的な乳房の丘とともに家の上に不動のままうねっていた。
婆が重ねて言った。「明日の朝、丘を越えるために、あんたの好きな時刻に起こしてあげられるよ。あたしには迷惑なものかね。あたしはもうほとんど寝ないのさ。横たわって、目を瞠って、無についてか、それとも死についてか、考えるきりでね」
彼はすべて整ったか触れてみた。装弾子二つに、ガンベルトの革袋中のばら弾十発。「いえ」とやがて言った。「ぼくは丘の頂で眠りたい。目が覚めたらあとは下るだけというふうにね」
「もうどこで泊まるか、わかっているの?」
「ちょうど崖下に乾し草置場があるのを知っている」
「この闇のなかで、それもこんなに篠つく雨のなかで、乾し草置場を必ず見つけられるの?」
「見つけるさ」
「そこの人たちはあんたを知ってるの?」
「いいえ。だけど起こそうとも思ってないし。犬が吠えないかぎりは。」
「あの上まで登るにはどれほど時間のかかることやら」
「一時間半だね」と、ミルトンは戸口に一歩踏みだした。
「せめて雨が小降りになるまで待てば……」
「もし雨が小降りになるまで待てば、明日の正午にもぼくはまだここにいることになる」と、彼は戸口にもう一歩踏みだした。
「そんな私服で、なにをしにゆくの?」
「約束があるんだ」
「誰と?」
「〈解放委員会〉のある男と」
婆は輝きの失せた無情な眼で彼をじっと見た。「いいこと、いいこと、死人二人は一人よりも始末が悪いんだよ」
ミルトンは頭を垂れた。「あんたにぼくの銃と軍服を預けておく」と、やがて言った。
「いまはあたしのベッドの下に隠しておくけれど」と、婆が答えた。「明日の朝、起きたらすぐに、よく乾いた袋に入れて、井戸のなかに降ろしておくわ。あたしの井戸の中程には四角い穴があって、そこに袋を押しこんでおくわ。鎖と長い竿を使えばわけないもの。あたしに任せておいて」
ミルトンは頷いた。「あとのこともこうしておこう。二晩以内にぼくがまた立ち寄らなかったら、あんたに一つだけ頼みたい。あんたの隣人にその袋を渡して、彼をマンゴに遣ってくれ。マンゴでそれをパルチザンのフランクに渡して、トゥレイーゾの旅団の司令官レーオに送るように言ってくれ。そして、なぜかと理由を聞かれたら、ただこう言ってほしい。《ミルトンが立ち寄って、私服に着替えたけれど、戻ってこなかった》、と」
婆が彼に人指し指を突きつけた。「でもあんたは二晩のうちにまた立ち寄る」
「明日の晩にはまた会うさ」と、ミルトンが答えて戸を開けた。
重たく、斜めの、土砂降りの雨だったし、丘の巨大な固まりは暗闇のなかにすっかりかき消されていて、犬さえ反応を見せなかった。彼は頭を低くして発っていった。
戸口から婆が叫んだ。「明日の晩には今夜よりもましなものを食べてもらうよ。そしてもっとあんたの母親のことを考えるんだよ!」
ミルトンはすでに遠くを、風と雨に押し潰されながら闇雲に、けれども的確に歩んでいた。
「オウヴァ・ザ・レインボウ」を低くハミングしながら。
マンゴの鐘楼の鐘が六時を打ったばかりだった。両拳のあいだに頭を抱えて、ミルトンは居酒屋のまえの石のベンチに腰をおろしていた。なかで女がせわしげに働くのが聞こえたし、男みたいに太い大欠伸を女が洩らすのまで聞こえた気がした。村人たちはとうにみな起きだしていたのに、扉や窓はまだ閉まっていたので、内に籠もった臭いを思うだけでミルトンは嫌悪にあえいだ。
彼は一時間で、トゥレイーゾから登ってきた。途中、出くわした夥しい霧のボードは、山道をゆく羊の群れみたいに、彼の膝の高さを過っていった。厩舎の壊れた屋根を打つ雨音が聞こえるとてっきり思って目覚めたのに、雨は降っていなかった。かわりにひどい霧が、谷という谷を塞いで、丘々の膿んだ中腹を揺れうごくシーツとなって拡がっていた。丘に対してこれほどの吐き気を覚えたことはかつてなかったし、いまみたいに不吉で泥だらけな丘を、霧の裂け目に見たこともなかった。丘を、おのれの恋の自然な舞台として彼はいつも考えてきた──あの小径づたいにフールヴィアと、あの頂の上に彼女と、彼女の後ろにあんなに神秘の溢れるあの特別の曲がり角で彼女にこう言うことだろう……──ところが、その丘の上で到底思いも及ばぬことを、戦争を、やらねばならなかった。昨日までは彼はそのことに耐えることができた。だが……
真上の砂利道で足音が聞こえても、彼は頭を上げなかった。一瞬後にモーロの声がとどろいた。
「おや、おまえはミルトン! 呪われた前哨地がやになったか? おれたちのところへ戻るのか?」
「いや。ジョルジョと話しにきただけだ」
「やつは出てるぞ」
「知っている。歩哨がそう言ってた。誰が彼と一緒なんだ?」
モーロが指折り数えながら言った。「シェリフ、コブラ、メーオにジャック。昨夜パスカルが連中をマネーラの二叉路の監視に出した。パスカルはアルバのファシスト軍があの方面から来ると考えたのだ。しかし、何事もなかった。だからあの五人はとっくに監視任務を終えて、いまご
ろは戻る途中だ。おい、具合でも悪いのか? ガスみたいな顔色しているぜ」
「じゃ、おまえの顔色はどうだと思っているんだ?」
「わかってら」と、モーロが笑った。「ここではみな肺病になりかかっている。居酒屋に入ろう。ジョルジョはなかで待てばよい」
「冷気がぼくには心地好い。頭が焼けるようなんだ」
「おれは、失敬して、避難するよ」と、モーロは入った。そして一瞬後には、カタルと底意の漲る声で、給仕女と話しだすのが聞こえた。
ミルトンは身震いしてまた頭を両手で抱えこんだ。
一九四二年十月三日のことだった。フールヴィアは一週間か、四、五日くらいか、トリーノへ帰る、とにかく発つところだった。
《フールヴィア、行くなよ》
《行かなきゃ》
《でも、なぜ?》
《なぜならあたしには父親も母親もあるからよ。それとも、あたしには親がないと思ったの?》
《そうだな》
《なんと言って?》
《ひとりでないきみなんて、ぼくは見ることも、思うこともできないって言うのさ》
《親がいるの、親がいるのよ》と、彼女が息をはずませた。《そしてしばらくあたしにトリーノにいてもらいたがっているの。でもしばらくのあいだだけよ。あたしには兄も二人いるわ、あんたに興味あるなら》
《興味ないね》
《兄がふたりよ》と、彼女が重ねて言った。《ふたりとも軍人よ、将校だわ。ひとりはローマに、もうひとりはロシアにいるの。毎晩あたしは彼らのために祈ってるわ。ローマにいるイータロ兄さんのためにはお祈りのふりをするだけ、なぜってイータロ兄さんは戦争をしているふりをしているだけだから。でも、ロシアにいるヴァレーリオ兄さんのためにはあたしは真剣に祈ってるわ、できるかぎり》
ミルトンをこっそりと見た。彼は、遠くの川に、白茶けた両岸のあいだの灰色の水面に、顔を向けて、頭を垂れたまま放心していた。
《あたしは大洋を渡ってゆくわけではないのよ》と、彼にささやいた。
しかし彼女は大洋を渡っていた。鴎たちの嘴が心臓にこぞって食い入るのを彼が感じているからには。
彼とジョルジョ・クレリチが彼女を駅まで送っていった。あの日、駅は開戦以来これまでになくきちんと整頓されて、ずっと清掃が行き届いているように見えた。空は最も美しい群青色よりも美しい、透きとおった灰色で、その無窮の広がりのなかに不変だった。フールヴィアがトリーノに降り立ったころには、夕暮れだったことだろう。昏い煤けた夕暮れだったことだろう。けれども、正確にはトリーノのどこに彼女は住んでいるのだろう? 彼はそれを本人にもジョルジョにも聞こうとはしなかった。後者はたしかに住所を知っていただろうに。フールヴィアに関して、彼はトリーノの何もかもを知ろうとはしなかった。彼らの物語はひたすらアルバの丘の上の別荘でだけ紡ぎだされるのだった。
ジョルジョは自主経済政策以前のスコットランド織の服を着ていた。ミルトンは父親の仕立てなおしの上衣を着て、ネクタイは目を結ばずに垂らしていた。とうに列車に乗りこんだフールヴィアが、車窓から顔を覗かせていた。ジョルジョに軽く微笑みかけて、たえずお下げ髪をゆり動かしていた。それから車内通路をとおり抜けながら彼女を押しつぶしたでっぷりした旅客に向かってしかめ面をした。いまはジョルジョに笑いかけていた。プラットフォームの上を助役が小旗を広げながら、歩を速めて機関車のほうへ行った。空の灰色はもういくらか損なわれていた。
フールヴィアが言った。《英軍があたしのこの列車を爆撃したりはしないでしょうね?》
ジョルジョが笑った。《英軍機が飛ぶのは夜間だけさ》
やがてフールヴィアは彼を車窓の下に呼んだ。彼女は笑わずに、その声の音よりもむしろ唇の動きでミルトンが意味を捉えた言葉を言った。
《別荘に戻ったときにあたしはそこにあなたの手紙を見つけたいの》
《わかった》と、答えたミルトンの声はその単音語のなかでさえ震えていた。《それを見つけねばならないのよ、いいこと?》
列車は発車して、ミルトンはカーブのところまで目で追った。川向こうの果てしないポプラ林のうえに立ちのぼる煙を追って、橋の向こうでそれをまた目に捉えたかった。だが、ジョルジョが彼を鉄格子の門まで押した。《ビリアードやりにいこうぜ》彼は駅の外まで引きずられるにまかせたが、ビリアードはしないと言った。彼は直ちに家に帰らねばならなかった。
彼女を愛しているとフールヴィアに手紙を書くのには、たった一週間しか、たぶんそれ以下しかなかった。
そこに立て掛けてあったカービン銃をまた見出そうと壁を手探りしながら、彼は疲れきってベンチから立ち上がった。最悪の状態だった。冷気の斉射をなんども浴びて全身が震えているのに、頭は耳鳴りがするばかりに漲り、蟠りながら、燃えあがる熱に焦げついていた。
ちびのジムが脇の路地裏から出てきた。近寄らずに彼に言った。パスカルがちょうどいま司令部に入ったから、話したいのがパスカルとならば。
「いや、ぼくはジョルジョとだけ話したいのだ」
「どっちの? 美男子ジョルジョか?」
「そうだ」
「やつはまだ外だ」
「知っている。途中で出会うように出かけようと思うんだが」
「あまり村から遠ざかるなよ」と、ジムが警告した。「濃霧で道に迷うぞ」
表通りを通って村を抜けながら、路地ごとに目を脇に走らせて野辺を埋めゆく霧の濃さに注意した。村外れに植えられた木立はすでに幻みたいだった。
最後の人家の角で彼はぴたっと立ち止まった。小石だらけの急坂に五、六人の足音を聞きつけたのだ。足取りは、長くて迅速で、町の少年パルチザンたち特有の足音だった。彼らは無言で登ってきた。みな喉や肺いっぱいに霧を詰まらせているのは明らかだった。ひどい昂奮に襲われて、
彼は狼狽し、家の角に寄りかからねばならなかった。しかしジョルジョの分隊ではなかった。問われもしないのに、彼らの一人が通りすがりに言った。墓地下から来た、夜は墓堀り人のところで過ごしたのだ、と。
なおも心が乱れたまま、彼は野辺に出た。野外で、受胎告知の聖母の小礼拝堂付近で、ジョルジョを待とうと心に決めた。しばらくのあいだ彼をほかの四人から引き離して、それから……
尾根道には霧が溢れていたが、なおまだ隙間やうねりがあった。しかし両側の谷間には縁まで不動の固まった真綿みたいな霧が溢れ返っていた。霧は丘の斜面をも這い昇ってきて、頂の何本かの海岸松だけが霧の海から突き出て、溺死寸前の人びとの腕みたいに見えた。
小礼拝堂の幻に向けて用心深く下った。霧によって巣のなかに押しこめられた鳥たちの唖然とした囀りと霧に沈んだ谷間のせせらぎを別にして、一切が沈黙していた。
マンゴの鐘楼の鐘が木霊もなしに、七時を告げた。
礼拝堂の壁にもたれてトッレッタの峠を不安そうに見つめた。下の高原から飽和点を求めて昇ってくる霧によって、峠道はすでにあらかた塞がれていた。まだ裂け目がひとつ残っていたが、ジョルジョの分隊は十秒以内にそこに現れねばならなかったろう。しかし現れなかった。だから見よ、いまはもう遅い。霧の援軍が峠をかき消してしまった。
タバコに火をつけた。もうどれくらいフールヴィアのシガレットに火をつけていないだろう? 戦争の恐ろしい大海原を泳ぎわたって岸辺にたどり着いて、フールヴィアのシガレットに火をつけるくらいだとしても、たしかにその甲斐はあった。
最初の一口で肺が破裂しそうな気がして、二口目では痙攣のために身体を二つに折らねばならなかった。三口目は少しはましに耐えて、いくらか戦いただけでしまいまで吸うことができた。
霧は、いまではあの目のまえの道まで閉ざしてしまったが、それでも地面から一メートルほどのところで宙に漂っていた。まさしくその中空層にカーキ色のズボンを穿いた脚がちんばを引いているのを、彼はようやく認めた。胴体や頭は霧に覆われて見えなかった。道なかに飛び下りて身を伸ばし、ジョルジョの脚を、その足取りをもっとはっきりと見わけようとした。いつものように、極度に感動すると、彼の心臓は身体のおくに潜りこむのだった。
胴体と頭が濃霧のなかから現われ出てきた。シェリフ、メーオ、コブラ、ジャック……
「おや、ジョルジョはどこだ? きみらと一緒じゃなかったのか?」
シェリフがいやいや立ち止まった。「そうだ。やつは後ろだ」
「後ろのどこだ?」と、霧のなかを穿つように目を凝らしながらミルトンが訊いた。
「五、六分遅れだ」
「きみらはなぜ彼と離れた?」
「離れてったのは彼のほうだぜ」と、メーオが咳をした。
「きみらは彼を待っていられなかったのか?」
「大人は大人だ」とコブラが言った。「やつだって道はおれらと同じくらいよく知っている」
そしてメーオが、「ミルトン、おれたちを行かせてくれ。おれは腹が減ってくたばりそうだ。霧がラードなら……」
「待てよ。きみらは五、六分遅れだと言ったが、ぼくにはまだ彼の姿が見えないぞ」
シェリフが答えた。「道沿いのどこかの家で飯でも食っているんだろう。ジョルジョがどんなやつか知ってるだろ。やつは仲間と食うのがむかつくんだ」
「行かせてくれよ」と、メーオがくり返した。「それとも、どうしても話したいのなら、歩きながら話そうじゃないか」
「シェリフ、ほんとのことを話せよ」と、脇へ退かずにミルトンが言った。「きみらはジョルジョと喧嘩したのか?」
「とんでもない」と、それまで口を出さなかったジャックが言った。
「とんでもない」と、シェリフが言った。「ジョルジョがいくらおれたちのタイプじゃないとしてもな。やつは金持の息子だ、豚の軍隊によく見かけたようにな」
「だけど、ここじゃみな平等なんだ」と、いきなり激昂してコブラが言った。「ここじゃ、親の七光は利かない。軍隊と同じようにここでもそれが利くのなら……」
「でもおれは腹が減ってくたばりそうだ」と、メーオが言って、頭を低くしてミルトンの脇を抜けた。
「おれたちと一緒に村へ来いや」と、彼も歩きだしながら、シェリフが言った。「あちらの上でやつを待てばいい」
「ぼくはここで彼を待つほうがいいんだ」
「お好きなように。せいぜい十分もすればきっとやって来るさ」
なおも彼を引き止めた。「あちらの霧はどうだった?」
「いや物凄い。村に着いたら誰か年寄りにこんな霧を一生のあいだに見たことがあるか尋ねようと思っているくらいだ。物凄いぞ。とある地点では、屈んでも道は見えないし、このおれを支えている自分の足さえ見えない始末だ。だけど、危険はないさ、道は断崖には沿っていないからな。だが、ミルトン、言っておくがおまえの友だちが呼べば、おれはやつを待っただろうし、こいつらも待たせたことだろうさ。しかしやつは呼ばなかった。だからおれにはわかったのさ、やつはいつものように自分のことをしたいんだ、と。ジョルジョがどんなふうか、おまえも知ってのとおりさ」
彼らは四人とも霧のなかへまた消えていった。
彼は礼拝堂に寄りかかりにまた登った。二本目のタバコに火をつけてくゆらしながら、路面と霧の層とのあいだで耐えている中空層を注視していた。三十分後にはまた路面に降り立って、トッレッタの峠へ向けてゆっくりと歩きだした。
ジョルジョはひとりでいるためにわざと霧を利用したと、シェリフが考えたのはもっともなことだった。まさしく仲間意識のなさと、その拒絶ゆえに、ジョルジョは不人気だった。おのれの物をなにひとつ、その体温さえも分かちあわないように、孤立する機会を彼は逃さなかったし、
それどころかそうした機会を次々に創りだしていた。ひとりで眠り、ひとりで食べ、タバコが払底している折に隠れて吸うし、タルカムパウダーを使う……ミルトンは下唇を突きだして、そこに歯を突きたてた。昨日以前ならば、彼の笑みを誘ったジョルジョのことが、いまは彼を突き刺した。ジョルジョは、ミルトンだけに耐えられるかのようだった。ミルトンだけと立ち居を共にした。厩舎で眠りながら、どれほど互いに寄り添って身体を伸ばし、互いに身体をくっつけあっていたことだろう。そういう親密さはみなジョルジョのほうからもちかけたことだった。ミルトンはたいてい三日月みたいに身体を曲げて眠ったので、ジョルジョは彼が寝る体勢をとりおえるのを待ってから、彼に身を寄せて、横方向のハンモックに寝るかのように順応していた。そして先に目覚めてみれば、ミルトンはどれほど好きなだけ眺めていたことだろう。ジョルジョの身体を、その肌を、その毛を……
いまは霧の最も濃い、最も盲た層のなかを行くというのに、苦しみが彼の歩みを速めさせた。霧は具体的な厚みを帯びて、正真正銘の蒸気の塀となった。そしてミルトンは一歩ごとに衝突と打撲傷を負う感覚を覚えた。彼はたしかに峠のごく間近まで来ているのだが、歩の運びと道の勾配からそうと推断するほかはなかった。まさしくシェリフが言ったように、身をかがめてみてやっと路面と、切り離されたみたいなピント外れのおのれの足の見わけがついた。前方の視界はというと、もしもジョルジョが二メートルさきに現れたとしても、その彼をしかと見ることはできなかったであろう。
なおも五、六歩登って、頂に着いたと彼は確信した。巨大な稠密な霧の層が下の高原を圧し潰していた。
唾を呑みこんでから、ちょうどそのとき最後の急斜面を登っている者に聞こえるように声を調節しながら、ジョルジョの名前を呼んだ。それから、ジョルジョが高原を歩きまわって坂に差しかかったばかりの場合に備えて、ずっと大声で名前を呼んだ。なんの返事もなかった。それから両手を漏斗みたいに口のまわりに添えて、ジョルジョの名前をできるだけ引き伸ばしながら叫んだ。少し下で、一匹の犬がきゃんきゃん鳴いた。そしてあとは何もなかった。
すでに目に見えない村の方角を間違えないように、あらゆる注意を払いながら、ミルトンはくるりと身体の向きを変えて、一歩一歩ふたたび下った。
5
食堂でシェリフをまた見つけた。彼は空腹を満たして、両肘をテーブルにぺたりとつけてうたた寝をしていた。ぜいぜいいう寝息の下で、こぼされたぶどう酒の染みが水溜めみたいに波立っていた。
ミルトンが彼を揺り動かした。「会えなかったぞ」
「わけがわからない」と、濁声でシェリフは答えたが、それでも上半身を起こしてしっかりと話をする姿勢は示した。「いま何時だ?」と、目を擦りながら聞いた。
「九時過ぎだ。近くにファシスト軍がいなかったのは確かなんだな?」
「あの濃霧で? ここの霧をもとに、ものを言うなよ。言っとくが、二叉路では乳色の海だったんだぞ」
「行軍中のやつらを濃霧が襲うってことだってありうるぞ」と、ミルトンが指摘した。「やつらがアルバを進発したときには、あの下のほうではこんな濃霧ではなかったはずだ」
シェリフが頭を揺さぶった。「あの濃霧で」と、また言った。
ミルトンが激した。「おまえはやつらがいたかもしれないことを除外するためにだけ濃霧を使っている。それなら、やつらを見かけなかった言い訳をするためだけにも濃霧を口実にしないか、おまえは?」
シェリフはあいかわらず頭を、あいかわらず穏やかに揺さぶっていた。「それでも、やつらを聞きつけたはずだ。アルバからは大隊以下では出てきやしない。大隊は鼠じゃないから、音を聞きつけたはずだ。兵隊ひとりが咳をすれば充分だったんだからな」
「しかし、パスカルはやつらが来ると読んでいたんだ。おまえたちを二叉路の監視に遣ったのは、まさにあの方面からやつらが来ると睨んだからなんだぞ」
「パスカル」と、シェリフが鼻を鳴らした。「パスカルをもとにものを言うのか。だが、やつを旅団司令官にしたのはいったい誰なんだ? まあ、批判するわけじゃないがな。ただ言っておくが、何ヵ月も経つがやつが言い当てたためしをおれは一度も見ていない。もしおまえが知りたければ、昨日も今朝もずっとおれたちはパスカルにひどく毒づいていたんだ。やつは敵襲を夢に見て、糞な暮らしを送るのはおれたちだ。おれたちはこういうふうに何時間もパスカルには毒づいてたよ。おまえのジョルジョもだ」
ミルトンはテーブルをぐるりと回って、シェリフの正面の椅子に跨がって腰をおろした。
「シェリフ、おまえはジョルジョと喧嘩したのか?」
相手は二度ほどしかめ面をしてから頷いた。「ジャックと大喧嘩だ」
「ああ」
「だけど、そのことと離ればなれになったこととは全然関係がないぞ。要するに、喧嘩のせいで、彼を霧のなかで見失ったわけじゃないんだ。彼が勝手に離れたんだ。やつの自発的意志でな。金持の息子の気儘さを尽くすためにな」
「むろん、おまえたち三人はジャックの肩を持ったわけだ」
「それは言えている。ジャックがまったく正しかったからな」
ほんとうのことを言うと、とシェリフが説明した。五人ともみな激怒して本性を現わしたのだった。ミルトンがそのアルバ斥候を終えてトゥレイーゾへ戻ってからしばらくしたころ、彼らはマンゴを発った。トッレッタの峠にまだ行き着かないうちにもう肉にくいこむ真っ黒な夜だった。一行は尾根づたいに歩いていたから、はや冬みたいに不吉な強風を、胸にまともに受けていた。紛れもなくこれは高い丘のああした墓地のひとつの開け放たれた墓穴から吹きだしてくる風だ、とメーオが言った。おれは銃殺されたってあんな墓地に入るのは御免だがな。まるっきり人っこ一人いなかったが、尾根道をとおる彼らの臭いを嗅ぎつけて、丘の中腹の犬という犬が吠えていた。犬には我慢できないコブラが吠え声ごとに罵っていた。彼はとうに頭巾を被っていて、歩きながら罵り声をあげるシスターみたいに見えた。そして犬さえ鳴かなければまったく目につかないわが家の所在を明かしてしまう熱心な犬に、百姓たちが投げつける罵りを考えに入れると、世界じゅうがひとつの罵り声だった。それは残りの四人も、歯ぎしりしながら進んでいたが、心のうちでは罵っていたからなおさらだった。彼らは確信していた。パスカルは夢をみたか、それともたんに気まぐれを起こしたか、いずれにしろ、糞な暮らしでそいつを支払う羽目になったのが自分たちだ、と。最も怒り狂っていたのはたしかにジョルジョだった。なぜなら、あの分隊は彼の性に合わなかったし、指揮はシェリフに任されていたからだ。《こいつら四人のルンペンのあいだで》と、無論やつは考えていたに違いない。《おれが指揮をとるに相応しからずと見なされるのなら、おれのパルチザンのなかでの成功と出世もわかろうというものだ》
それからみなはメーオに腹を立てねばならなかった。みなはマンゴから腹を空かせて発ったから、以前やつと哀れなラフェーがとてもいい扱いを受けたとある一軒家の農家に寄って夕飯にありつこうと、メーオが言いだしたのだった。釜から出した焼き立てのパン、甘いけれどもどっさり具の入ったミネストラ、それに真ん中に薔薇色の小さな輪の入った、あの雪みたいに真っ白な、極上のベーコンを好きなだけ。みなで、よし、そこに行こう、ということになった。しかし場所は、はなはだ具合が悪かった。その家は大斜面の裾にあったからだ。首根っこを折りそうな小径づたいに下へおりたが、夜は黒ぐろとピッチみたいだし、おまけに闇が生き物のようにたくさんの谷底を目に錯覚させるものだから、そのつど立ち止まらねばならなかった。それに、やっと下に着いてみれば、メーオはもうその家がどこかわからなくて、みなで四方に散って探さねばならなかった。農家の四つ壁は不順な気候にひどく黒ずんでいたので、人のすむ家のあの薄明かりさえ放ってはいなかった。あげくにやっとコブラが見つけたのはいいが、やつはまさにその家の麦打ち場を囲っている有刺鉄線にズボンを引っ掛けてしまった。コブラが大きな罵り声をあげたので、みなはそちらへ向かったわけだ。幸い、番犬はいなかった。いれば吠えたてて、コブラはたちどころにステン銃で撃ち殺してしまうだろうし、そうなるとこんどはシェリフが怒り狂って泥濘のなかでコブラと立回りを演じたことだろう。シェリフは犬が射殺されるのを見ると正気を失うのだった。
そうして呆れてしまったのは、なかへ入るのに山ほど儀式ばらねばならなかったことだった。戸を叩きにメーオが行くと、主が戸の裏に身を寄せた。
「誰だ?」
「パルチザンだ」と、メーオが答えた。
「方言で言え」と、老耄が要求した。そこでメーオは方言でくり返した。
「種類は? バドッリオ派の青か、それとも赤い星か?」
「バドッリオ派だ」
「で、バドッリオ派なら、どこの司令部だ?」
「マンゴの司令部だよ」と、辛抱強くメーオが答えた。「おれたちはパスカルの部下だ」だが、老耄はまだ閂を抜かなかった。だから、シェリフはコブラを制さねばならなかった。後者は足掻いて、戸ごしにあの百姓にずばっと言ってやりたがった。さっと戸を開けたくなるような二言三言を。
「で、なんの用だ?」老耄が続けた。
「一口食べて、すぐまたおれたちは任務に出かけるんだ」
それでもあいつはまだ満足しなかった。
「いま話しているおまえは誰だか、知れるかな? おれはおまえを知ってるか?」
「いいとも」と、メーオが言った。「おれはメーオで、あんたの家に一度食べに寄ったことがある。思い出してみてくれ」
黙って、老耄は思い出しては篩にかけていた。「おれのことを思い出すはずだ」と、メーオが言った。「二ヵ月まえに寄ったんだ。やっぱり晩のことだった。身体を持っていかれそうな風が吹いていた」
年寄りは少しずつわかりだしたしるしになにか呟いた。「で、おまえは」と、それから尋ねた、
「おまえは誰と来たのか、覚えているか?」
「もちろん」と、メーオが言った。「ラフェーとここへ来たんだ。まもなくロッケッタでの戦闘中に死んでしまったあのラフェーと」
すると年寄りは女房に声をかけて、閂を外し、みなはなかへ入った。けれどもメーオが請けあった美味いものなどなかったし、それどころかひどく貧しい食事だった。ポレンタと冷えたキャベツにひと握りのハシバミの実しかなかった。しかもそのわずかばかりのものを老人のじっと見る目の下で食べねばならなかった。彼らを監視しつつ、白い大きな口髭をたえず舐めながら、ときおりひと言、ひと言だけ呟いていた。《シベリア》。それが老人の口癖だった。《シベリア、シベリア》ジョルジョはポレンタに手をつけず、ましてやキャベツには見向きもしないで、ハシバミの実を十二個ほど急いで噛み砕いたから、それらは怒りとともに胃の腑に残った。それから彼が言った。食べたハシバミの実が食道ぞいに蒔いた小石みたいに感じられる、と。あの惨めな家を彼らがようやく後にしたときには、まだやっと九時だったのに、夜は夜明けまえの一瞬みたいに恐ろしげだった。よくもあんな夕食を見つけてくれたとみなはメーオを散々にこき下ろしながら登った。一番ましなのはまたもジャックだった。ひっきりなしにソフトな声で陽気なくらいにぼやいていた。《ファシストの豚め、ファシストの豚め、ファシストの豚め……》
それからみなは二叉路監視のベースにする家の選択で、シェリフに腹をたてた。早くも二叉路の見えるところまで彼らは来ていた。谷側の道が痛ましく白じらと浮かび出ていた。頭巾を被った頭を振ってコブラが言った。「明日の朝、あの道をファシスト軍が通ったなら、おれは誓って言うが、あの砂利を腹が裂けるまで喰ってやる。」四人は〈ランガの牛舎〉に泊まりたがった。あそこなら厩舎は広いし、どの隙間もしっかり栓がしてあるし、牡牛がたくさんいるからその鼻息でスチーム暖房みたいに温めてくれる。シェリフが反対した。あそこは眠るには心地好くても、見張るには位置が悪い。二叉路から離れすぎている。彼は立ち往生してしまったに違いない。それでもしまいにはみなを、二叉路のまさしく真向かいにある丘の縁に立つ見捨てられたあばら屋に連れていった。そこは、はや静まり返って灯も消え横棧をかけられた二叉路の集落からステン銃の射程内にあった。いまいましい風の下で根のなかまでざわざわと音を立てている木々の長い列をつたって彼らはそこに着いた。
あばら屋には崩れ落ちて屋根なしの三つの小部屋があった。いくらかましな部屋は厩舎だったけれど、あれは厩舎なんて呼べる代物ではなかった。ひどく狭くて羊六頭も入れられなかったことだろうし、秣槽には小人が入れるかどうかというところで、煉瓦敷きの床がまったく剥きだしで、片隅に二、三束の棘の多い薪束が積み重ねられているだけだった。それにたったひとつの小窓には、ガラスはなくて窓紙は穴だらけだったし、戸板には平手がとおる割れ目があった。
真夜中から歩哨を立てた。シェリフが最初の歩哨に立った。ほかの者は横になり、煉瓦敷きの床の上でとぐろを巻き、震えて縮んだが、誰ひとり眠らなかった。みなはこうも獣的になったので、あの古い薪束を外に放りだしてスペースを広げるという単純至極なことを誰ひとり思いつかなかった。わずかに隅へ寄せただけだったが、やがてジャックがほかの男たちの冷たいのたくりや横滑りや捩れに押し退けられて、その薪束の上にひっくり返ることになった。それでも眠っていた唯一の男はジャックだった。苦行僧みたいにあの棘の多い薪束のうえで、彼は眠りながら臨終の人みたいに呻いていた。最後から二番目の歩哨にはジョルジョが立ち、最後の立哨はジャックだった。後者は明け方の眼を欺く光のなかで非凡な視力を持っていた。
ジョルジョとの禍いが持ちあがったのはジャックの立哨時間中のことだった。戻ってきたジョルジョが、ジャックを揺り起こし、ジャックが外へ出ると、彼はコブラとメーオの身体を掻き分けて寝藁のうえに半ば横たわった。むろん眠気は訪れないから、膝の下で手を組み合わせて背を丸めた。タバコを一本吸ってから、眠るためというよりもなんとかしのげるように夜を明かすために、百もの姿勢を試みたが、うまくゆかなかった。そこで坐りなおして、もう一本タバコに火をつけた。マッチの明かりで、ジャックがその歩哨の義務に服して外にいるどころか、厩舎のなかにいるのを見た。ジャックは戸口の壁を背にして坐って、こっくりこっくりしていた。
「ジョルジョは」と、シェリフが言った。「かっとなったにちがいない。彼はきちんとおのれの当直を果たしたというのに……」
「誰もいない」と、ミルトンが遮った。「師団じゅうで、誰もいない。ジョルジョみたいに用心深く歩哨をつとめる男は」
「それはほんとうだ」と、シェリフが認めた。「それに吟味しようとも思わない。彼がそんなにきちんと歩哨に立つのは彼自身のためだけなのか、それとも仲間のためでもあるのか、と。事実はおのれの生命のためにきちんと歩哨に立つことで彼は自動的にほかの男たちの生命のためにもそうしていることになるということだ。この点についてはおれたちは一致している。言ったように、ジョルジョはかっとなった。膝立ちして、野獣みたいに両手で寝藁を引っ掻いていた。《なぜおまえは外で歩哨に立っていないんだ?》そしてなにかわけをいう暇も与えずに、ジャックにひどい言葉を浴びせかけた。なかでも、売女の子、というのが一番ひどかった。ジャックの過ちは、それが過ちならばな、すぐに相手にわからせなかったことだ。《むだだよ》と応えて、そしてたぶん、ジョルジョのほうの床に唾を吐いたかも知れんな。ジョルジョは蛙みたいに彼に飛びかかりながら言った。《むだだ!? おれたちは歩哨に立ったのに、おまえだけ立たないのか、卑怯な豚め?》そして彼に蹴りかかった。おれたちは目を覚ましていたが、まだわけが呑み込めずにいたし、それにひどく身体が痺れて節々が強張ってしまっていたから、おれたちが立ち上がるまでには丸一分はかかってしまった。おれにわかったことといったら、ジャックが外で歩哨に立っていなかったことだけだった。だからおれは彼に、なぜだ?と、そして直ちに外へ出て役目を果たせ、と叫んだのだ。だが、ジャックはおれに返事をしなかった。というのも、ジョルジョから身を庇うのでそれどころではなかったから。ジョルジョは彼の首根っこを捕まえてその頭を壁にめりこませようと躍起になっていた。そうして首を締めあげて頭を押しつけながらも、彼を侮辱するのを止めなかった。《父無し子め、おまえみたいな手合いとかかずらわるのはもうやめだ! おまえらはわれわれにもやつらにも役立たずだ! みんな殺されてしまえ! おまえらは犬だ、豚だ、滓だ……!》ジャックは答えなかった。というのもジョルジョが首を絞めにかかっていたし、彼自身、首筋を強張らせて壁に頭を打ちつけられないようにしていたから。こうして彼は話さなかったし、おれたちに助けを求めもしなかった。彼は足を巻いてそれでジョルジョを投げ飛ばそうとしていた。長い話になってしまったが、こうしたこと一切が三十秒以内に起こったのだった。おれたちが割ってはいるまえに、ジャックは両足をまんまとジョルジョの胸に当てて、やつを煉瓦敷きの床のうえに勢いよく尻餅つかせていたよ。そこでおれは、すぐに釈明しろ、とジャックを叱りつけたんだ。すると、ジャックは自分の場所に坐ったまま、おれに答えた。《むだだよ、とおれは言った。おまえが見てみろ》と、彼はひと突きして戸を開け放った。おれたちは外を眺めて、理由を悟った」
「霧だ」と、ミルトンがつぶやいた。
その霧を叙景してみせるために、シェリフは椅子から立ち上がった。
「まあ、乳の海を想像してみてくれ。あの家までだ。霧の舌やら乳房やら、おれたちはたまげて手探りで厩舎に舞い戻った。おれたちは一人ずつ外へ出たが、用心して、すぐ近くまでしか行かなかった。あの乳の海にいまにも溺れ死んでしまいそうだったからな。おれたちは互いにやっと誰だかわかったのだが、それも一直線になって、肘と肘を突きあわせてのことだぞ。おれたちのまえにはなにひとつ見えなかった。おれたちはじだんだを踏んで自分らが地面の上にいて、雲の上じゃないってことをたしかめねばならなかった」どっかりとまた腰を下ろすと話を続けた。
「コブラが笑い声をあげるなり、厩舎に戻って、あの薪束を抱えあげると、外に戻って満身の力をこめてその薪束を前方へ、あの霧の口めがけて投げつけたんだ。だけど、薪束が地面に落ちた音はしなかった」
彼らがどんなに耳をそばだてても、息を殺していても、こそとの物音ひとつしなかった。ジョルジョとジャックの諍はとっくに忘れられていた。ジョルジョの時計が五時近くを指していた。彼らはみな了解した。敵襲はなかったし、ありえなかっただろう、と。あそこに止まっていても彼らにはもう何事もなしえなかったし、ただちにマンゴへの道を取って返さねばならなかった。
「若者よ」と、シェリフが言った。「尾根道を採れば一番近いうえに道筋は頭のなかにしっかり入っていた。だがな、この霧のなかでは尾根道は危険だった。両側の斜面のあいだの剃刀の刃の上を渡らねばならないのだから。この霧のなかでははぐれやすかったし、はぐれた者は自殺するに等しいとまでは言わないが、甘く見ないほうがいい。どこまでも転がり落ちていって、あの下のほう二キロ余りのところを流れているベルボ川まで止まりはしない。それゆえおれは鉛みたいに重い足を引きずって斜面のなかほどまで下ってそこから丘の中腹の道を行くことを提案したのだ。遠回りじゃあるが、せめて片側だけは断崖によって守られているからな。つねに右側を歩いて断崖に触れながら行けばよいわけだ。ピローネ・デル・キアルレの高地にまで達したら、また尾根道を登ることができる。そのあたりの道はあまり危険ではない。両側にかなり広い牧場が瀑布のまえまで続くからだ。それにあそこまで行けば、霧はここいらほどには物凄くないかもしれない」みなは彼の言い分を認めて、用心に用心を重ねて、始めのうちはボッチェの点を測るときにやるみたいに、一足ずつ順送りにしながら、丘の中腹まで下った。跪いてみてやっと見わけたのだが、丘の中腹の道に出てからは、霧は同じように濃かったが、彼らはいくらか早く歩いた。それから彼らは偶然にピローネ・デル・キアルレへと登る小径に入ってまた尾根道を歩んだ。
「おお」と、シェリフが言った。「ふだんならば一時間で歩く道を、おれたちは三時間かけて歩いたことになる」
「で、ジョルジョは、どこで彼ははぐれたんだ?」
「わからない。だが重ねて言っておくが、はぐれていったのは彼のほうなのだ。思うに、丘の中腹の道の取っつきあたりでやつは離れたのだろう。落ち着けよ、ミルトン、おれにはジョルジョがどこにいるか察しがつく。どこか素敵な牛舎で暖かいところに坐って、お金をじゃらつかせて、飯でも出してもらっているさ。いつでも大金を持っていて、ときにはやつのほうが旅団の会計係よりも持っていた。やつの父親が薄荷ドロップみたいにやつに持たせるからだ。いまじゃ、どうするのか、おれは知ってるぜ。大きなスープ皿に沸かした牛乳を入れて持ってこさせて、もう砂糖なんて払底しているから、蜂蜜をスプーンで何杯も溶かしこむんだ。そうとも、だからこそやつが咳ひとつ、くすんともするのを聞いたことがないんだ。ほかのおれたちは咳きこんで、魂まで吐きだしちまうというのにな。落ち着けよ、ミルトン、斥候隊の責任を預かるこのおれがどれだけ落ち着いているか、見るがいい。心配しなさんな、正午には村でやつにまた会えるから」
「正午にはぼくはトゥレイーゾに帰りたいのだ」と、ミルトンが言った。「レーオにそのように約束したつもりでいるからだ、ぼくは」
放恣な徴にシェリフは片手をひらひらさせた。「もっと遅く帰ったってなにが不味い? レーオなんてなんの関係がある? ここでは点呼も再点呼もないんだ。この点でもパルチザン暮らしは偉大だよ。さもなければ王国軍みたいになってしまう。失礼して銃に触るよ」実際に彼は弾倉に触ってつけ加えた。「ここでは何事も掌尺で測るというのに、なぜおまえはミリ単位で測りたいんだ?」
「ぼくは掌尺は性に合わないからだ」
「いまはおまえまで豚の軍隊のシステムで行軍するのか?」
「軍隊のことは人が話すのも聞きたくはない。それでもぼくは掌尺は性に合わない」
「そういうことなら、ジョルジョのことでは、またいつか来いよ」
「ぼくは彼とすぐに話す必要があるんだ」
「それにしたって、なんでまたおまえはそんなにジョルジョに会いたがるのさ? おまえがやつに言いたいそんなに大事なことってなんなのさ?やつのおふくろでも死んだのか?」
ミルトンが背を向けて戸口へ向かうのを見て、彼は言った。「で、いまはどこへ行くんだ? 村んなかか?」
「ここの外だけだ、霧を見にな」
眼の下に見える谷間のなかでは、霧は、巨大なごく鈍いいくつものシャベルによって、谷底でまた掻き混ぜられたかのように、動きだしていた。五分のうちに幾つか穴や割れ目が広がって、その底に切れぎれの地面が覗いていた。彼の眼には地面は、窒息によって仮死したかのように、きわめて遠くに黒ぐろと映った。丘々の頂と空はなおも濃く幾重にも霧に覆われていたが、あと三十分も経てばあの上のほうにも、きっとどこかに裂け目ができたことだろう。数羽の小鳥が気弱にまた囀りだした。
彼は首だけをまた屋内に差し延べた。シェリフはまたも寝こんでしまったようだった。
「シェリフ? 道の途中ではなにも聞かなかったのか?」
「なにも」と、頭も上げず肘も広げずに、即座に相手は答えた。
「丘の中腹の道でのことなんだが」
「なんにも」
「絶対にか?」
「まったくなんにも!」シェリフは頭を猛烈に撥ねあげたけれど、その声は少しはましに抑えた。
「もしおまえがほんとに正確さを期するのなら、まっ、こんなにこだわるおまえさんは見たこともないが、言っておくと、おれたちが耳にしたのは後にも先にも一羽の鳥が飛んでゆく羽音だけだ。さあ、もういまはおれを眠らせてくれ」
外では小雨がぱらつきだした。
6
彼は十人ほどの戦友にジョルジョを見かけ次第彼のところへ寄越すようにといいおいて、食堂にいるとも告げておいた。しかし十一時半ごろにはその食堂からも出て、三十分ほど村外れをあてどなく彷徨いながら、虚ろな野辺から戻ってくるジョルジョの姿をいくらか遠くに見つけはす
まいかと空しい期待にかられていた。霧は到るところで溶け去りつつあったし、小糠雨がいくらか繁くなったとはいえ、まだはっきりとしたうるささではなかった。
洗濯場へと抜ける小径の出口に一瞬、フランクが浮かび出た。彼もやはりアルバの青年で、ミルトンやジョルジョのカテゴリーだった。ミルトンの影さえ目に入らなかったかのように通り過ぎたが、遅れて視覚が働いたのか、すぐにまた小径のところに姿を見せた。フランクは髪の毛の先から足まで戦いていて、その顔はかつてないほどにあどけなく青白く、石膏みたいだった。
《ジョルジョが捕まったんだ》と、ミルトンは呟いた。
「ミルトン!」と叫びながらフランクが駆け下ってきた。「ミルトン!」とまた叫びながら、ばらけた砂利道のうえで踵でブレーキをかけた。
「フランク、ほんとに、ジョルジョは捕まったのか?」
「もう誰から聞いたんだ?」
「誰からも。そういう気がしたんだ。どうしてわかった?」
「ある農夫が」と、フランクが吃りながら話した。「低い丘の農夫が、捕虜になった彼が荷車に乗せられて通り過ぎるのを見かけて、知らせにきたんだ。司令部に駆けつけよう」と、フランクが走りだした。
「いや、駆けないで行こう」と、ミルトンは言って、頼んだ。脚は彼を支えているのがやっとだった。
フランクは素直にまた彼の横に並んだ。「ぼくもひどいショックを受けたよ。ぼくは自分が溶けてなくなる気がした」
彼らはゆっくりと、いやいやながらみたいに、司令部めざして引き返した。
「罠に嵌まったんだ、なあ?」とフランクがささやいた。「軍服姿で武器を帯びて捕まるなんて。なにか言えよ、ミルトン!」
ミルトンが口を開かないので、フランクがまた話しだした。「欺されたんだ。彼の母親のことをぼくは考えたくないよ。濃霧の口に呑みこまれてしまったに違いない。なにひとつ起こらないにしては、今朝の濃霧はあんまり異常だった。でもこれはあとで思いつくことだ。可哀相なジョルジョ。あの農夫は、彼が縛りあげられて荷車で通るのを見たんだ。」
「ジョルジョだって、たしかなことなのか?」
「彼を見知っているといってた。それに、いないのは彼だけだ」
一人の農夫がひらけた野辺へ下ってゆくところだった。男はひどく滑りやすい近道をとって、丈の高い草を掴みながら徐々に下りてきた。
「あの男だ!」とフランクが言うなり、男に口笛を吹いて、ぱちんと指を鳴らした。
いやいや男は立ち止まり、砂利道にまた登ってきた。四十歳代の男で、白子に近く、胸まで泥の飛沫を撥ねあげていた。
「ジョルジョのことを話してくれ」と、ミルトンが彼に命じた。
「あんたらの隊長にもう全部話したよ」
「ぼくにもう一度話してくれ。どうして彼を見たんだ? 霧で見えなかったんじゃないのか?」
「あの下のおれらのとこじゃ、霧はこの上みたいにひどくはなかった。それにあの時分にはもうほとんど引いていた」
「おまえのいうのは何時だ?」
「十一時だ。おまえたちの仲間を荷車に縛りつけたアルバの縦隊が通り過ぎるのをおれが見たのは十一時少しまえだった」
「やつらは彼をトロフィーみたいに持ちかえったのだ」と、フランクが言った。
「やつらを見かけたのは偶然だった」と、男がまた話しだした。「おれは葦を剪りに出ていて、眼の下の道をやつらが通り過ぎるのを見たんだ。おれがやつらを見かけたのは偶然だった。音がしなかったからだ。やつらは水蛇みたいに下っていたから」
「ジョルジョだったのはたしかなことか?」と、ミルトンが尋ねた。
「彼のことはよく見かけて知っていた。うちの近所の家に食べて眠りに一度ならず来ていた」
「おまえはどこに住んでいる?」
「マブッコの橋のすぐ上手だ。おれの家は……」
ミルトンが男の家の叙述を遮った。「で、なぜおまえは丘の麓のチッチョの兵士たちに知らせに走らなかったんだ?」
「それはすでにパスカルが訊いた」と、フランクがため息をついた。
「じゃ、おまえさんはおれがおまえたちの司令官に答えたことを聞いたわけだ」と、農夫は言い返した。
「おれは女じゃない、おれも兵隊には征ったからな。おれはすぐさま自分に言ったんだ、おまえたちのなかであのときやつらを止められるのはチッチョだけだ、と。そこでおれは飛ぶように駆け下ったんだ。そしておれも生命がけだった。というのもおれがやつらの側面を追い越してゆくあいだに、やつらの後尾の兵はおれを見かければ兎みたいに撃ち殺せたのだから。だが、おれがチッチョの支隊に着いてみれば、チッチョはいなくて、いたのはコックと歩哨一人だけだった。それでもおれは彼らに知らせて、彼らは矢みたいに飛びだしていった。だから、おれは彼らが本隊を探しにいって、待ち伏せを用意するか、なにかするだろうとばかり思っていたのだ。ところがやつらは森のなかに隠れるためだけに走っていったのだった。縦隊が通り過ぎて、もうアルバの街道の遠くへ行ってしまってから、あの二人は舞い戻ってきて、おれに言ったものだ。《おれたち二人だけでなにができただろう?》と」
フランクが話をひきとった。「パスカルが言っていた。今日にも分隊を下へ遣ってブレン機関銃二挺のうち一挺を引き揚げさせる。ブレン機関銃一挺でもあの……の群れには十分すぎる」
「おれを行かせてくれ」と農夫が言った。「あまり遅れると女房が心配するし、身重なんだ」
「ほんとうにマンゴの旅団のジョルジョだったんだな?」とミルトンが念を押した。
「死みたいに確実なことさ。どれほど血塗れの顔をしていようとな」
「負傷していたのか?」
「打擲されていたな」
「で、……荷車の上でどんな様子だった?」
「こんなふうだ」と、男は言って、ジョルジョの姿勢を真似した。やつらは彼を荷車の縁に坐らせ、荷台の簀の子に差しこんだ棒杭に胴体を縛りつけて、ジョルジョが剣みたいにぴん立ちになるようにして垂れさせた両脚は荷車を曳く牛たちの尾と一緒にぶらぶらするようにしていた。」
「やつらは彼をトロフィーみたいに持ちかえった。」とフランクが重ねて言った。「彼がアルバへ入るときの光景を思ってもみろよ。今日と今夜のアルバの娘たちのことを思ってもみろよ」
「娘たちになんの関係がある?」と眼をぎょろつかせてミルトンがかっとなって言った。「なにもないか、それともごくわずかだ。きみも幻想を抱いている一人だ」
「ぼくが? 失礼、ぼくがなにに幻想を抱いているって?」
「きみにはわからないのか、あまりにも長く続きすぎているのが? 習慣みたいになっているのが、ぼくらが死んで、娘たちはぼくらが死ぬのを見ることが?」
「まだおれを行かせてくれないのか?」と農夫が尋ねた。
「待てよ。で、ジョルジョはどうしてた?」
「ええっ、どうしてればいいと言うのさ?じっとまえを見ていたよ」
「兵隊はまだ彼を殴りつけていたか?」
「いや、もう殴ってなかった」と、男が答えた。「彼を捕まえた直後に打擲したに違いない。だが、道すがらではもうなにもしなかった。やつらはきっと恐れていたに違いない。おまえたちがいまにもこの丘あの丘から現われやすまいか、と。さっきも言ったように、やつらは水蛇みたいに音も立てずに下っていた。だから、彼はそっとしておいたのだ。だが、危険地帯を抜けてしまえば、もう少し鬱憤晴らしに彼に飛びかかったかもしれない。それじゃ、おれはもう行っていいかな?」
ミルトンはとうに司令部めざして突進していた。フランクはその急な動きに意表をつかれて、彼のあとを追って走りながら、叫んだ。「いまになって、なぜ走るんだ?」
司令部入口はマンゴ守備隊の大部分によって塞がれていた。ミルトンはあの人垣を掻き分けて、自分といまは直ぐあとに続くフランクに道を開けた。すでに電話を握っていたパスカルのまわりにも別の人の輪ができていた。ミルトンはあの内側の人垣にも割りこんで最前列に出て、死人みたいに蒼い顔をしたシェリフと肘を突き合わせて並んだ。
パスカルが通話を待っているあいだに、フランクがささやいた。「師団じゅうになら捕虜の一人くらいはいることに首を賭けるぞ」
「おれのほうは、書きとめとけよ、白薔薇の花環だ」と、別の男が言った。
師団司令部が電話に出た。電話線の向こう端の相手は副官のパーンだった。用立てできる捕虜はいない、とすぐに答えた。パスカルにジョルジョの風采を尋ね、やがてパーンは彼のことを思い出したようだった。しかし捕虜はいなかった。パスカルが旅団のさまざまな司令官に当たってみれば。なるほど規則では、下級司令部で獲たあらゆる捕虜は即刻、師団司令部に移送すべしと定められていた。それでも良心の荷をおろすために、パスカルがレーオ、モーガン、ディアスに電話してみればいい。
「レーオには捕虜はいない」と、パスカルが受話器に言った。「ここに、トゥレイーゾ旅団の男が目のまえにいるが、レーオには捕虜はいないと合図している。モーガンとディアスに電話してみよう。とにかく、パーンよ、おまえのところにとりたての捕虜が届いたなら、削除しちまわずに、直ちに車でおれのところへ送ってくれ」
「早く、モーガンに電話しろよ」と、パスカルがまた受話器を取ったときにミルトンが言った。
「ディアスを呼んでみる」と、パスカルは素っ気なく答えた。
ミルトンはシェリフを横目で見た。いまは彼は灰色がかった顔色をしていた。だが、とミルトンは思った。ジョルジョの運命ゆえにではなくて、ただ濃霧のなかに何百となく散開していた敵兵ゆえの遡及的な恐怖のためにすぎない。彼シェリフは、盲の閲兵よろしく敵兵のなかを、落着き払って、なにも知らずに、迷い鳥の羽音だけに気を取られて通り抜けてきたのだ。
「かわいそうなジョルジョ」と、シェリフがぼそぼそと話した。「なんて豚な最後の夜を過ごしたのだろう。どんなにひどいありさまか知れたものじゃない。まだあのハシバミの実が胃につかえているに違いない」
「たぶん、彼にとってはなにもかもとっくに終わってしまったことだろう」と、ミルトンの背後で、ある男が言った。
「よさないか」と、パスカルが言った。そのとき電話が鳴り響いた。
ディアス本人だった。いや、彼には捕虜はいなかった。「わが蛇たちは」と彼が言った。「一ヵ月ほど銜えていない」金髪のジョルジョのことは実によく覚えていたし、残念なことであったけれど、捕虜はひとりもいないのだった。
小さな顎髭を生やしたパルチザンが、この男をミルトンは初めて見たが、やつらはアルバのどこで銃殺するのかとあたりに尋ねた。
フランクが答えた。「あちらこちらだ。いちばん多いのは墓地の塀際だ。だけど鉄道の土手ぞいでもやるし、環状道路の到る所でやっている」
「知っても胸が悪くなるだけだなあ」と、小さな顎髭の男が言った。
そして、また聞こえた。「おれには白薔薇を」
すでにモーガンが話していた。「捕虜か。いないなあ。そのジョルジョとは誰のことだった? 軍曹よ、なんてこった。三日まえなら一人いたんだが、師団に送ってやらねばならなかった。濡れたひよっこでな。それが第一級の道化師だとわかったんだ。大した才能だよ。われわれと過ごした一日中みなを大笑いさせてくれたものだ。パスカル、やつがトトーとマカーリオの真似をしたのを見せたかったよ。目に見えない打楽器全部を打ち鳴らしたところを見せたかったなあ。師団送りの際には、削除せずにおけと言ってやったんだが、その夜のうちに埋めてしまった。なんてこった、軍曹よ! そのジョルジョとは誰のことだった?」
「金髪の美男子だよ」と、パスカルが答えた。「取り立ての捕虜はな、モーガンよ、削除せずに、師団送りにもせずにおいとくれ。パーンには話を通してある。車でこちらに送ってくれ」
パスカルは受話器を置き、ミルトンが人垣を押し分けながら出口へと向かうのを見た。
「どこへ行くんだ?」
「ぼくはトゥレイーゾへ戻る」と、半ば振り返りながら答えた。
「おれたちと食事をしてけよ。いまごろトゥレイーゾに戻ってなにになる?」
「トゥレイーゾなら、もっと早くわかる」
「なにがだ?」
しかしミルトンはとうに外へ飛び出ていた。けれども外では別の人だかりに突きあたった。みなコブラのまわりにびっしりと輪になっていた。両袖を逞しい二の腕まで念入りにたくしあげたコブラが、いまは想像上の盥のうえに屈みこんでいた。「見てろよ」と、言っていた。「みんな
見てろよ、もしもやつらがジョルジョを殺したら、おれのすることを。おれの友だち、おれの戦友、おれの兄弟のジョルジョを殺したら。とっ捕まえた最初のやつを……おれはそいつの血のなかで両手を洗いたい。このように」そうして想像上の盥のうえに屈みこんで両手を浸してから念入りにぞっとする優しさで手を擦りあわせた。「このように。それに手だけじゃないぞ。腕もそいつの血で洗いたいんだ」そうしてさきほどの仕草を二の腕と二頭筋のうえでくり返した。
「このように。見てろよ、もしもやつらがおれの兄弟のジョルジョを殺したら」手や腕を洗うのと同じ優しさと明瞭さをこめて話していたが、最後の瞬間には甲高い叫び声となって破裂した。
「おれはやつらの血が欲しい! おれはやつらの血にこの脇の下まで漬かりたいいいいい!」
ミルトンはその場を発って村境の最初のアーチを過ぎてようやく立ち止まった。ベネヴェッロとロッディーノの方角を長いこと見つめていた。霧はどこもかしこも上がって、下のほうでは丘丘の黒ぐろとした正面に貼りついた数枚の切手となってしか霧は残っていなかった。雨はかぼそ
く規則的に降り続いていたが、少しも視界を妨げなかった。頭を別の方角に振り向けて、アルバの方角に深ぶかと視線を落とした。町の上の空はほかのどこよりもずっと昏く、はっきりと菫色を呈していて、はるかに激しく雨が降っていることを徴していた。捕虜となったジョルジョの上に、たぶんはや屍となったジョルジョの上に、土砂降りの雨が降っていた。フールヴィアの真実の上に土砂降りの雨が降っていた。その真実を永遠にぬぐい去りながら。《ぼくは真実を知ることは決してできないだろう。ぼくはそれを知らずに逝くことだろう》
背後に走る音が聞こえ、男はまっしぐらに彼めざして駆けてきた。それよりも早く発とうとしたが、結局そうはしなかった。フランクが彼に追いついた。
「どこへ行くんだ?」とフランクはあえいだ。「逃げだすつもりじゃあるまいな? ここにぼくをひとりで置いてゆくなよ。今日はきっとジョルジョの父親が登って来て、息子と交換できる捕虜がいるかどうか知りたがることだろう。もしきみが逃げだせば、ぼくひとりが会って、話さねばならなくなる。だけど、ぼくはとてもその気にはなれない。そうした役目はすでに一度、トムの兄弟たちとで、ぼくはやっているんだ。だから、またやりたくはない、少なくともひとりでは。きみ、お願いだから、ぼくとここにいてくれよ」
ミルトンは彼にベネヴェッロとロッディーノのずんぐりした丘の頂を指し示した。「ぼくはあの方面に行くよ。ジョルジョの父親が来て、ぼくのことも尋ねたなら……」
「きみのことを尋ねないわけがないじゃないか」
「きみが彼に言うんだ、ぼくはジョルジョのために交換捕虜を探しに出かけている、と」
「ほんとうにそう言っていいのか?」
「彼にそういって誓ってもかまわないぞ」
「で、どこに探しにゆくんだ?」
貨幣みたいに平たい雨粒の、重たい雨が疎らに降ってきた。
「ぼくはオンブレのところへ行く」と、ミルトンが答えた。
「赤のところへ行くのか?」
「ぼくら青に捕虜がいないからには」
「だが、彼らは、捕虜がいたとしても、きみには決してくれないぞ」
「くれるとも……貸してくれるさ」
「貸してだってくれないさ。遺恨もあれば、政治委員に吹きこまれてのぼせた頭もあるし、ぼくらは受け取って彼らは無しのパラシュート投下のせいで身体じゅうに溜まったやっかみの胆汁だってあるし……」
「オンブレとぼくは友だちなのだ」と、ミルトンが言った。「特別の友だちだ。きみは知っているじゃないか。ぼくは彼に個人的な好意として頼んでみるよ」
フランクは首を横に振った。「彼らに捕虜がいるとして、きみに与えるとしても……彼らに捕虜はいない。なぜなら彼らの手に落ちた捕虜は捕虜としている時間もなしに……しかし捕虜がいたとして、きみにくれたとして、きみはどうする? ここへ真っ直ぐ連れてくるのか?」
「いや、いや」と、手を捩りながら、ミルトンが言った。「時間がかかりすぎる。ぼくは最初に出会った司祭を遣って、形式抜きでアルバの丘の上で交換するつもりだ。場合によっては、ニックの兵二人に立ち会ってもらうさ」
雨粒が彼らの頭にあたって砕けて軍服を濡らしていたが、並木道の葉叢の最も乾いた葉音によって強められて初めて、二人はそのことに気がついた。
「おまけに本降りになってきた」と、フランクが言った。
「時間が惜しい」と、ミルトンが言って、下の細道の縁づたいに大股に下りはじめた。彼の踵が泥濘のなかに深くて長い艶のある傷痕を開いていった。
「ミルトン!」と、フランクが呼んだ。「きっと空手で戻ってくるとは思うけれども、もしうまく捕虜を手に入れて交換に行くときには、ぼくらのアルバの丘の上に着いたなら、百ほどの目を皿みたいにして、四方八方に気を配るんだぞ。ごまかしに用心しろ、佯撃に用心しろ。わかったか? 知ってるだろうが、こういう交換はときには地獄の罠なんだぞ」
7
雨はごくこまやかで、肌のうえにも感じとれないくらいだったが、その雨の下で道の泥濘は目のとどくかぎり醗酵しつづけていた。四時に近かった。道は急坂にさしかかっていた。ミルトンはすでにオンブレの旅団の観測、監視域の半径内に入ったに違いなかった。それゆえ目を見開き、耳を欹てながら、急斜面を登った。一歩ごとにいつ頬を掠めて弾が飛んでくるか知れなかった。赤たちは軍服を疑るし、英軍の軍服をドイツ軍と見間違える厄介な傾向があった。だから目を瞠りながら斜面や大灌木地帯を進みゆき、ことに丘の中腹のぶどう畑の農具小屋には注意を払った。
とあるカーブを抜けると、彼はぴたっと立ち止まった。目のまえに無傷の小橋が現われたのだ。
《無傷だ。無傷の橋は地雷橋》谷川の流れと、小橋の上流と下流の膿んだ、黒ぐろとした自然に目を凝らした。上流では谷の両岸が迫りすぎていた。そこで下流を見てみることにした。牧場に下ってそれから岸に出た。が、最後の瞬間に、思い止まった。《信用できない。罠の臭いがする。踏み分け径はずっと下流にある。村人たちがあの下のほうを通るのなら、それなりの理由があるはずだ》降りてあの下手のほうを渡った。間に渡る岩がいくつもあったとはいえ、ふくら脛までずぶ濡れになることは避けられなかった。栗色の濁流は凍るように冷たかった。
道はふたたび彼の真上を通っていたが、そこに到る斜面は高く、険しく、泥で膨れあがって、てかてかしていた。泥が草や突起を埋めつくして、小径を消してしまっていた。極度に集中して登ったけれども、四歩目のあとで滑って、平地までまた落ちてしまったうえに、横腹がすっかり泥にまみれてしまった。平手で泥をこそげ落としてから、再度試みた。勾配の中程でよろめいて、とっかかりを手探りで探したがむだだった。ふたたび、こんどは転げ落ちてしまった。すんでのところで叫んでしまうところだったけれど、がちんとあたりに聞こえる音をたてながら歯をあわせて口を閉じた。すでに泥を着て泥を穿いていたので、三度目には肘と膝を突きたてながら彼は登った。路肩にやっと登りおえるや、カービン銃から泥を落としにかかったけれども、そのとき上手で小さな地滑りみたいな音がした。眼差しを上に伸ばしてみて、道の左手の石灰質の断崖のクレバスから歩哨が踊りでてくるのが見えた。村は断崖のすぐ裏側にあるに違いなかった。なぜなら、空には数知れない煙突の白い煙が、素早く逃げてゆくのが見えたから。
歩哨は道の真ん中に仁王立ちになった。
「銃を下ろせよ、ガリバルディ!」と、ミルトンが大声で言った。「ぼくはバドッリオ派のパルチザンだ。おまえの司令官オンブレと話しにきた」
感知できないほどわずかに銃口を下げて、歩哨が彼に進めと合図した。農夫とスキーヤーの間の身なりに、目出し帽の真ん中に鮮やかな赤い星を縫いつけた歩哨は、まだ幼い少年とさして変わらなかった。
「おまえはイギリス煙草を持っているに違いない」と、開口一番にその少年兵が言った。
「ああ、だけどマナもそろそろ底をついた」と、ミルトンはクレイヴンAの箱を軽く振って彼に進呈した。
「半分ずつにしよう」と、少年は言いながら、口に銜えた。「どんな味だい?」
「かなりなるいかな。さて、連れてってくれるか?」
彼らは登ってゆき、ミルトンは一歩ごとに軍服から泥を落とした。
「そいつはアメリカ製カービン銃だね、え?何口径?」
「八」
「ならば、そいつの弾はステン銃には合わないね。ポケットのなかに何発かステン銃の弾が転がってないかしら」
「いや、それにおまえはどうするのさ? ステン銃を持ってないのに」
「手に入れるさ。何発かステン銃の弾がないなんてありえる? おまえたちは、パラシュート投下があるってのに」
「しかしな、見ろよ、ぼくはカービン銃を持っているんで、ステン銃ではないんだ」
「おいらなら」と、少年がまだ言った。「おまえみたいに選べたなら、ステン銃を取るな。そいつは連射できないだろ、だけどおいらの気に入っているのは連射なのさ」
下方の斜面に雑然と建てられた一軒家の破れ屋根が路面の高さに現われてきた。歩哨はそちらの方角に道を折れた。
「しかしあんなのは司令部じゃありえないぞ」とミルトンが指摘した。「あれはただの哨所じゃないか」
少年は答えずに急坂を下りにかかった。
「ぼくは司令部に行きたいのだ」と、ミルトンが重ねて言った。「ぼくはオンブレの友だちだとおまえに言ったはずだぞ」
しかし少年は泥濘の沸きたつ麦打ち場にとうに飛び下りていた。やっと振りむくと言った。
「ここから通るんだよ。誰でもここを通せと、おいらはネーメガの命令を受けているんだ」
麦打ち場には五、六人のパルチザンがいて、立っている者もしゃがんでいる者も、みな壁にもたれて、泥濘と雨だれの境界にいた。片側に鶏籠で塞がった、半ば崩れ落ちたポーチがあって、昏い大気は、湿気で高められた発散のせいで、雌鳥の糞の悪臭に満ちていた。
あの男たちのひとりが視線をあげて予測しがたい裏声で言った。「あら、バドッリオ派の兵士さん。旦那衆のお出ましだ。ごらんよ、ごらんよ、なんて凄い銃に、装備なんだろう」
「ごらんよ、ぼくがどんなに泥まみれなのかも」と、ミルトンは澄まして答えた。
「見ろ、あれが有名なアメリカ製カービン銃だ」と、二人目が言った。
そして三人目は、感心のあまり妬みも忘れて。「それにあれがコルト拳銃だ。コルト拳銃の写真を撮れよ。ピストルなんてもんじゃない、小型砲だよ。オンブレのラマよりもでかいな。トムソン銃と同じ弾を撃てるってのはほんとかい?」
歩哨が彼の先に立って、汚れたベンチ二つとパンの捏ね箱の残骸以外にはまるで裸の大部屋へ入った。暗くてよく見えなかったので、石油ランプをいじって少年が灯をともした。少ししか照らさないのに真っ黒な脂ぎった煙が出て、くしゃみが出た。
「ネーメガはすぐ来るよ」と、少年が言って、そのネーメガとは何者なのかとミルトンが尋ねる間もなくまた外へ出た。
少年は断崖のその持ち場へは戻らずに、あの男たちと麦打ち場に止まった。鎖で繋がれた犬に彼らの一人が狙いを定めるふりをしていたけれど、先程通りかかったときにミルトンはその犬に気がつかなかった。
「なんの用だ?」
ミルトンはくるりと振りむいた。ネーメガは三十歳は確実にこえた年寄りだった。両眼と口が銃眼の、トーチカ正面みたいな顔つきだった。防水ジャケツを着ていたが、うち続く長雨の下でそれはボール紙の箱みたいに四角張ってしまっていた。
「オンブレ司令官と話したい」
「なにについて?」
「それは彼に言う」
「で、オンブレと話したいという、そのおまえは何者だ?」
「ぼくはバドッリオ派第二師団のミルトンだ。マンゴの旅団だ」パスカルの旅団の所属だと彼は言っておいた。そちらのほうがレーオの旅団よりも規模が大きく名も通っていたからだ。
ネーメガの両眼は実際に目に見えないくらい小さかった。
「おまえは将校か?」と、ネーメガが彼に訊いた。
「ぼくは将校ではないが、将校としての任務を帯びている。で、おまえは誰だ? おまえは将校か、政治委員か、それとも副委員か?」
「知ってるか、われわれはおまえたちバドッリオ派に恨みを抱いていることを?」
ミルトンは憂鬱な関心を覚えて彼を凝視した。「ふん、なぜだ?」
「おまえたちはわれわれから脱走したある男を受け入れた。ウォルターとかいう男だ」
「そんなことか? そいつはぼくらの原則のひとつだ。ぼくらのところには自由に入り、自由に出てゆくんだ。むろん、黒の旅団の手に落ちないかぎりは、だが」
「われわれがおまえたちの哨所に赴いてその男を引き渡すように求めたのに、おまえたちは彼を引き渡さなかったばかりか、われわれを回れ右させて失せさせた。つまり、われわれをブレン機関銃で威嚇したのだ」
「どこでのことだ?」と、ミルトンはため息をついた。
「コッサーノでだ」
「ぼくらはマンゴの部隊だ。しかし、思うにぼくらでも同じように行動したことだろう。おまえたちとはもう関わりたくない男を引き戻そうとしたおまえたちが間違えていた」
「よく話を聞けよ」と、ネーメガが指を鳴らしながら言った。「われわれはあの男には関心がない。われわれに関心があるのは武器だ。やつは小銃を携えて脱走したが、その銃は旅団のもので、彼のものではない。その小銃さえおまえたちは返そうとしなかった。しかもおまえたちにはパラシュート投下があって、ごっそり武器、弾薬があって増えて困って、埋めておかねばならぬというのにな。おまえたちの背中の影に隠れて、ウォルターの言っていたことは嘘だ。つまり小銃が彼のもので、彼が旅団に持ちこんだというのは。武器は旅団のものだった。ウォルターみたいな分子は一ダースでも脱走して構わないが、一挺の銃でもわれわれは失うわけにゆかない。ウォルターに会ったなら、決して道を間違えるな、われわれの管区は大きく迂回しろと言っておけ」
「言っておこう。どの男か聞いて、言っておくとしよう。いまはオンブレに会えるか?」
「おまえはオンブレを知っているのか? じかに、つまり、その名声ゆえにではなくて?」
「ぼくらはヴェルドゥーノの戦闘で一緒だった」
男は感銘を受けたように見えた。まるで過ちの現場を押さえられたかのように。そこでミルトンはわかった気がした。ヴェルドゥーノの時代には、ネーメガはまだ丘に登ってはいなかったのだ。
「ああ」と、男が息を洩らした。「だが、オンブレはいない」
「いないだと! きさまはあのウォルターとその哀れな小銃の話でごたくをさんざ並べておいて、いまになってオンブレはいないとぼくに言うのか? で、どこにいるんだ?」
「外だ」
「外のどこか? 遠くか?」
「川向こうだ」
「気が変になる。しかし、いったい川向こうになにをしに出かけたんだ?」
「いま言うところだ。ガソリンのためだ。ガソリンとして代用する溶剤のためだ」
「今夜は戻らないのか?」
「もうだいぶ経つから、今夜にはこちら岸に渡るだろう」
「ぼくは重大かつ緊急きわまる用件で来たのだ。おまえたちにファシスト軍の捕虜はいるか?」
「われわれに? われわれは捕虜を持ったためしがない。捕虜にしたとたんに、われわれは捕虜を失うからだ」
「ぼくらももうおまえたちよりやわではない」と、ミルトンが言った。「だからこそぼくらには捕虜がいないから、おまえたちに求めにきたのだ」
「これはずいぶんと耳新しい話だ」と、ネーメガが言った。「で、われわれが捕虜をおまえたちに贈らねばならないのか?」
「貸与だ。通常の貸与だ。せめて政治委員はいないのか?」
「われわれにはまだいないんだ。いまのところはモンフォールテの師団からときおりやって来るが」
ネーメガは石油ランプの焔を強くしに行って戻りしなに言った。「捕虜をどうするのだ? おまえたちの誰かと交換するのか? いつ捕まったんだ?」
「今朝だ」
「どこでだ?」
「アルバ側の、別の斜面でだ」
「どうして?」
「霧だ。ぼくらの方面は乳の海だった」
「おまえの兄弟か?」
「いや」
「それなら友だちか? わかるさ、おまえが泥濘を抜け出てここまでやって来てそんな交渉をもちかけるくらいだからな。しかしだ、捕虜を自前で調達できないのかな?」
「たしかに」と、ミルトンが答えた。「とうにぼくらの仲間がそのために動き回っている。だからこそぼくらはおまえたちに捕虜を借りても返せると踏んでいるのだ。だがな、九月の収穫月にぶどうを摘みに出かけるのとはわけがちがうんだ。何日間か、かかってしまうかもしれない。そしてその間に、たぶんまさしくわれわれがここで議論している間にも、ぼくの仲間はすでに壁際に立たされてしまったかもしれない」
ネーメガは静かにだが考えこむように、罵った。
「それではおまえたちに捕虜はいないんだな?」
「いない」
「ぼくは遅かれ早かれオンブレと再会するし、そのときには今日来たこの件を話すからな」
「おまえはなんとでも彼に話すがいいさ」と、ネーメガが素っ気なく答えた。「わたしは平気だ。おまえにわれわれには捕虜がいないと言ったが、それはほんとうのことだからな。だが、待つがいい。なぜわれわれに捕虜がいないのか、おまえに告げられる男に話をさせよう」
「むだなことだ……」と、ミルトンがまだ言いおえぬうちに、あの男は汚い家のなかに消えて、呼んでいた。パーコ、パーコ。
その名前を聞いて彼ははっとした。パーコ。彼の知っているあのパーコだったら。だがそんなことはありえない。きっと別人のパーコだ。それにしても、パーコという戦闘名をもつパルチザンは多くはないはずだった。
嫌気のさした尻下りの声で、谷間に向かって、ネーメガがパーコと呼ぶのがまた聞こえた。
初夏に、ネイーヴェの守備隊で、以前はバドッリオ派の兵士だったパーコのことを、ミルトンは考えていた。やがて徴発に関してその司令官のピエッレと口論して姿を消してしまった。そして彼は〈赤い星〉に移ったのだと考えた者もたしかにいた。《しかしあのパーコであろうはずがない》と、ミルトンは結論した。
ところがまさしく彼だった。少しも変わらず、大きな図体で茫洋として、パン屋の小型シャベルみたいな手をして、黄色い額には赤みをおびた前髪がかかっていた。中へ入るなりすぐにミルトンとわかった。彼はいつも人づきあいのよいやつだったし、ミルトンも彼には胸襟を開いたものだった。
「ミルトン、老いた蛇よ、おまえはネイーヴェでのことを覚えているか?」
「むろんさ。だがそれからおまえは立ち去った。ピエッレが原因だったのか?」
「とんでもない」と、パーコが答えた。「ピエッレのせいでおれが抜けたと誰もが思っているが、そいつはほんとうじゃあない。おれはネイーヴェが好かなかったんだよ」
「ぼくは嫌いじゃなかったが」
「おれは嫌いだったね。しまいには見るのも嫌になったし、眠ることもできなくなった。ただの迷信だったかもしれないけれど、あの村の位置がいけなかった。二つの集落に分かれていることも気に入らなければ、真ん中を鉄道が通っていることも気に入らなかった。しまいにはおれは時を告げるその鐘の音にも我慢ならなくなったんだ」
「で、いまは、ガリバルディの部隊のなかでおまえはどんな具合だ?」
「悪くはないよ。だが、重要なのは赤か、それとも青か、ということじゃなくて、重要なのはいまいるかぎりの黒を削除することさ」
「そのとおりだ」と、ミルトンが言った。「オンブレがファシストの捕虜を持っているかどうか、言ってくれるか?」
パーコは即座に首を横に振った。
「イギリス煙草を吸いなよ」と、箱を差しだしながら、ミルトンが言った。
「ああ、一本ためしてみたいね。おれがバドッリオ派にいたころにはまだ出回ってなかったからな」
「オンブレが外に出ているというのはほんとうか?」
「彼は川向こうにいる。甘いタバコだ。女が吸うやつだ」
「そうだ。じゃ、捕虜は一人もいないのか?」
「おまえの来るのが一日遅かったよ」と、パーコが小声で答えた。
ミルトンは絶望の笑みを漏らした。「そいつは言わないでくれたほうがよかったな、パーコよ。で、何者だったんだ?」
「ファシスト軍の伍長だ」
「そいつならぴったしだったのになあ」
「痩せた大男でな。ロンバルディーア人だったよ。捕虜を探しているのは交換のためか? おまえたちの誰が捕まったんだ?」
「ジョルジョだ」とミルトンが言った。「マンゴのぼくらの仲間だ。たぶん覚えているだろう。金髪のあの美青年だよ。エレガントな……」
「ううん、いたような、いたような。」
ミルトンは頭を俯けて、カービン銃を肩に負いなおした。
「まさに昨日」と、パーコが耳うちした、「まさに昨日、片づけてしまったんだ」
彼らは麦打ち場に降りた。あの五、六人の男たちはどこへとも知れずいなくなって、鎖に繋がれた犬だけが勢いづいて、絞め殺されたみたいに歯を剥きだして唸りながら、彼らに飛びかかろうとした。信じがたいくらいに暗くなって、気違い風がおのれの尾を噛むかのようにぐるぐる回って渦をなして吹きすさんでいた。
パーコは彼を道まで送りに出て、なおしばらくのあいだ一緒に歩いた。「青のなかではおまえとおれはうまのあう仲間だった」と、彼が言った。
道に出るとパーコが言った。「どんなふうにやつが死んだか、知りたいか?」
「いや、死んでしまったということを知っただけで充分だ」
「そいつは保証つきだ」
「おまえがやったのか?」
「いや。おれはやつをそこまで連れていっただけだ。ここからは見えない森のなかだ。そして銃殺が終わったら、おれはすぐその場を離れてしまった。やった者が埋める、正しいか?」
「正しい」
「ふた声、叫びやがった。なんて叫んだか、わかるかい? 統領万歳!だと」
「ごたいそうにな」と、ミルトンが言った。
雨は降っていなかったが、斜めに吹きつける風の下で、アカシアの木々が悪意をこめたみたいに、辛辣に、斜に雨だれを飛ばしてきた。ミルトンとパーコは音をたてて震えていた。石灰質の大絶壁が暗闇のなかにぼやけていた。
パーコはミルトンがもう反対しないと悟って話しだした。
「昨日の午前中ずうっとやつがおれに話したのは豚の統領のことばかりだった。やつの引渡しがおれの任務だった。十時ごろオンブレが一台のオートバイを遣ってベネヴェッロの主任司祭を連れてこさせた。この伍長が司祭を望んだからだ。ベネヴェッロの主任司祭についちゃ、昨日の朝は笑わされたよ。だからいまはおまえさんも笑わせてやるよ。サイドカーから降りるなりオンブレのところへ駆けていって言ったものだ。《いつもわたしにあんたの死刑囚の告解を受け持たせるのは、もうこれっきりにしていただきたい! どうか、この次の折りにはロッディーノの主任司祭を使ってください。彼のほうがわたしよりも若く、より近くに住んでいる事実を別にしても、少しは交替して、輪番にして欲しい。われらの主イエス・キリストにかけて!》
ミルトンは笑わなかったのにパーコが続けた。「それから、司祭とあの兵隊は地下室の階段半ばに引き籠もる。おれともう一人のジューリオという名の男は階段のてっぺんに待機して、おかしな真似をしたらやつを消してしまおうと構えている。だけど、やつらが話していたことについちゃ一言もわからなかった。十分経ってまた上がって来るが、最後の段のうえで司祭がやつに言う。《わたしはおまえを神にとりなしてやったが、生憎と、人間たちに対してはおまえになにもしてやれないのだ》。そしてそっと逃げだす。伍長はおれとジューリオと残る。震えてはいたが、さほどでもない。《まだなにを待つのだ?おれは覚悟できている》と、やつが言う。そこでおれが。《まだおまえの時ではない》《今日はしないということか?》《今日は今日だが、すぐにじゃない》するとやつは麦打ち場の真ん中にくずおれて、二掌尺の泥濘に坐りこみ、両手で頭を抱えこむ。おれはやつに言う。《もしおまえが手紙を書いて、司祭が発つまえに手渡したいのなら……》するとやつ。《でも誰に手紙を書く? おまえは知るまいが、おれは売女とこそ泥の子だ。それとも捨子の大統領に手紙を出せというのか?》するとジューリオ。《おお、だがこの共和国じゃおまえたち私生児がなんて多いんだ》すぐあとでジューリオが五分間の委員会に出なくてはと言って、おれに銃を預けて立ち去る。《あいつは糞をしに行ったんだ》と、伍長は彼を目で追いもせずに言う。《おまえもしたいか?》とおれが聞く。《かもな、だがしたってなんになる?》《それならタバコを吸いな》と、おれはやつに言って、箱をやつに差しだすのに、やつは断る。《おれにその習慣はない。おまえは信じないかもしれないけれど、おれには喫煙の習慣がないんだ》《でも、吸いな。やたら強くはないし、実に美味いぜ》《いや、おれはタバコを吸うのには慣れてないんだ。もしも吸ったりしたら、咳が止まらなくなってしまうだろう。ところがおれは叫びたいんだ。せめてこれだけは》《叫ぶ?いまか?》《いまではなくて、おれの時が来たときに》《好きなだけ叫ぶがいいさ》と、おれが言う。《おれは叫ぶんだ、統領万歳!》と、やつがおれにのたまわったよ。《まあ、おまえの好きなように叫ぶがいいさ》と、おれは言う。《ここでは誰も顰蹙しないからな。だが、心に留めておくといい。おまえは男を下げるぞ。おまえの統領は大の卑怯者だ》《ぷふぁっ!》とやつが言う。《統領は偉大だ。最も偉大な英雄だ。おまえら、おまえらこそ大の卑怯者だ。そしておれら、彼の兵隊のおれらも、大の卑怯者だ。もしもおれらが大の卑怯者でなかったら、もしもおれらが適当にやってばかしいなかったら、いまごろはおまえらをみな根絶やしにして、おまえらの最後の丘の上におれらの旗を突き立てていただろうに。だけど統領は、彼は最も偉大な英雄だから、おれは叫びながら死ぬんだ、統領万歳!》そこでおれ。《おまえにはもう言ったはずだ。おまえは好きなことを叫べるんだよ。だがな、重ねて言うが、おれの考えでは、おまえは男を下げるぞ。おれは確信しているんだ。おまえはな、ずっと男らしくおまえは死ぬだろうよ。やつにその時が来てやつが死ぬ、そのざまよりもな。しかもその日は近いだろう、この世に一つの正義があるならばな》そして彼。《で、おれはおまえに重ねて言うが、統領は最も偉大な英雄だ。不世出の英雄だ。だのにおれらイタリア人はみな、おまえらもおれらも、彼には相応しくないこぞってむかつく連中だったんだよ》で、おれ。《おまえのいまの身を思えば、おれはおまえと議論はしたくない。しかし、おまえの統領は大の卑怯者だぞ、不世出の卑怯者だ。おれはやつの顔のなかにそのことを読み取ったのだ。よおっく聞け。ついこの間、おれの手のなかにたまたま当時の、つまりおまえらにとって良き時代の、新聞が滑りこんだんだ。そこには半ページほども占めてやつの写真が載っていて、おれはじっくりと一時間そいつを仔細に眺めたのだ。そしてだ。おれはやつの顔のなかにそのことを読み取ったのだ。おれがこんなに言って聞かせるのはな、おまえが死の間際にあんな野郎の万歳を唱えておまえの男を下げさせたくないからだよ。おれには太陽みたいに明らかに、そのことがわかったよ。いまおまえが死ぬときであるように、やつに死ぬときが来たら、やつは男らしく死ぬことができないだろうよ。しかも女らしくだって死ねないだろうさ。豚らしく死ぬことだろう。おれにはそれがありありと見えるね。なぜなら、やつはとびっきりの卑怯者だからだ》《統領万歳!》と、やつは言うが、静かに、あいかわらず拳で頭を抱えこんだままだ。そこでおれは業を煮やしたりせずにやつに言う。《やつは途轍もない卑怯者だぞ。おまえらのなかで最も汚らしく死ぬ者でさえ、やつと比べたら、それでも神みたいに死ぬことだろう。なぜって、やつは途方もない卑怯者だからだ。イタリアが存在して以来、存在したイタリア人のなかで最悪の卑怯者だぞ。その卑怯さときたら、たとえイタリアが百万年続いたとしたって、匹敵する者がもう出ないくらいの無比の卑怯さなんだぞ》そしてやつ。《統領万歳!》と、あいかわらず小声で言った。やがてジューリオがやって来て、おれに言った。《おれたちに手早く片づけろだと》そこでおれは伍長に。《立て》《よしきた》と、やつが言う。《太陽ともおさらばだ》しかも言っておくが、指ほどもある雨つぶが降りそそいでいるときにだ」
「ここで別れよう」と、ミルトンが言った。「しかしうんざりだな。またも豚みたいに泥まみれにならねばならないのが」
「なぜ?」
「橋だ。地雷が埋まっているんだろう、違うか?」
「地雷なんか埋まっているものか。いったいどこから爆薬を調達するんだい? で、これからどうする?」
「ぼくの部隊へ戻るさ」
「あのおまえの友だちのためにはどうするつもりだ?」
ミルトンは躊躇い、やがてそれを告げた。
パーコは騒々しく息を吸いこんでから、言った。「言えよ、どの方面でやるんだ。アルバか、アスティか、それともカネッリか?」
「アスティは遠すぎる。アルバはぼくの故郷だし、しくじったら……故郷で失敗するという考えはいただけない。それにぼくに会いにぞろぞろついてくるだろう。もしそこで厄介なことになって、敵との接触を断つために撃たねばならなくなったら、やつらの手のなかには即座に仕返しのできるジョルジョがいる」
「カネッリしかないか」と、パーコが言った、「だが、おまえはおれよりもよく知っているだろうが、カネッリは黒のサン・マルコ旅団で溢れ返ってるぞ。おまえは最悪の水溜めに釣りにゆくことになる」
「背後を取られた人間はみな同じだよ」
8
夜の十時ごろ、ミルトンは、レーオとともにトゥレイーゾに再びいるどころか、そこから歩いて二時間の、サント・ステーファノとカネッリに面する大きな丘の、山裾に紛れた一軒家にいた。
闇のなかで彼はその家を手探りで見出したが、その様子なら諳んじていた。恐ろしい平手打ちを屋根に食らって、以来いちども修理されなかったかのように、低くひしゃげた家だった。谷間の凝灰岩と同じ灰色で、不順な気候のせいで腐った板囲いにほぼ覆われた縁の欠けた小窓に、こ
れも腐って石油缶の一部で繕われたバルコニー。片方の袖が崩れ落ちてその壊れ屑が山桜の幹のまわりに積み重ねられていた。あの家で唯一微笑ましいのは新たに修理された屋根の一部だが、それも鬼婆の髪に挿した一輪の赤いカーネーションみたいに、ぞっとさせた。
冷たい水の瓶に夕食の皿などを沈めている老婆に背を向けて、ミルトンはタバコを燻らしながら、玉蜀黍の穂軸の痩せた炎を見つめていた。すでに私服に着替えていて、不充分にしか覆われていないと身に感じていた。ことに上衣は夏服みたいに軽い気がして、そのひどく痩せてしまった身体が目立った。カービン銃をおのれの脇の、炉の隅に立てかけて、拳銃は腰掛のうえに置いていた。
眼を転じないで婆が彼に言った。「熱があるね。肩をすくめないの。熱は肩を竦められるのを嫌うからね。ほんのわずかな熱だけど、熱があるね」
一服ごとにミルトンは咳をするか、それとも咳を抑えようと痙攣的に身を捩るかした。
女がまた話しだした。「今回は不味いものを食べさせちゃったわね」
「とんでもない!」とミルトンが心から言った。「玉子を食べさせてくれた!」
「この穂軸の炎では暖まらないわ、ねえ? でも、薪は節約しているのよ。この冬はとても長いでしょうからね」
ミルトンが肩で頷いた。「この世界が世界になって以来、一番長い冬となるだろう。六ヵ月間の冬となるだろう」
「なぜ六ヵ月間も?」
「ぼくらが二度目の冬を越さねばならないとは、ぼくは思ってもみなかった。そのことを予測したと告げにくる者はいなかったし、そんなことをすれば、ぼくはそいつに面と向かって嘘つきとか、法螺吹きとか、浴びせたことだろう」彼は婆のほうに半ばふり向いて、つけ加えた。「去年の冬には、ぼくはとても素敵な仔羊の毛皮のコートを持っていたんだ。四月の半ばごろ、ぼくはそれを投げ捨ててしまった。とても素敵だったし、自分のものを捨てるときにはぼくはいつもいくらか胸が締めつけられるのにね。考えてもみてよ、戦争に加わるまえの、少年のころから、ぼくはタバコの吸殻を投げ捨てるたびに胸が締めつけられたんだ。ことに夜中に、暗闇に投げ捨てた吸殻にはね。考えてもみてよ、吸殻たちの宿命にぼくは胸が締めつけられたんだ。あの毛皮のコートは、ムラッツァーノ方面で、ぼくは生け垣の後ろに投げ捨てたんだ。あのころぼくは確信していた。また寒さが始まるまえに、ぼくらはファシズムを二度は楽にひっくり返せるだけの暇があるとね」
「で、ところが? ところがいつそいつは死ぬの? いつになったらあたしらはそいつが死-ん-だ、と言えるの?」
「五月だ」
「五月!?」
「だからこそぼくは言ったんだ。この冬は六ヵ月間続くだろうって」
「五月」と、女はおのれ自身に言った。「たしかに、それは恐ろしく遠い。でもせめて、真面目で教育あるあんたみたいな青年が言ったからには、それが終わりなんだ。可哀相に人びとはただ終わりだけを必要としている。今夜からはあたしは信じたい。五月からはあたしらの男たちは昔のように市や市場に出かけてゆくことができて、道端で死ぬことはない、と。青年男女は野外ダンスができて、若い女たちは喜んで妊娠し、あたしら年寄りは自分らの麦打ち場へ出ても武装したよそ者に出くわす恐れはない、と。そして五月には、美しい夕べに、あたしらは外出できて、村々のイルミネーションを眺めて心ゆくまで楽しみあえるのだ、と」
女が話し、平和の夏を描写しているあいだに、ミルトンの顔のうえに痛ましいしかめ面が描かれてそのまま止まった。フールヴィアなしでは彼にとっては夏ではない。その真夏に寒気を覚えるこの世にたった一人の男となってしまうことだろう。だがもしフールヴィアが、あの泳ぎ渡った荒れ狂う大海原の向こう岸で彼を待っていたなら……彼は絶対に知らねばならなかった。明日には、彼は絶対にあの素焼きの貯金箱を叩き割って、真実の本を買うための貨幣を引き出さねばならなかった。
彼はこうした考えに浸ることができた。なぜなら女は一分間ほど口を噤んで、屋根に打ち当たる激しい雨音に耳を澄ませていたから。
「あんたは思わない」と、やがて言った。「あたしの家の上には〈永遠の主〉はほかのどこよりも雨を激しく打ち当てるとは?」
ミルトンのまえに進み出て、大籠のなかの穂軸を残らず炎のなかにぶちまけると、干からびて、油に汚れ、歯は抜け、臭う女が、小さな骨の束みたいな両手を脇に当てて、彼のまえに立ったが、一方、ミルトンはかつての、若い、少女を女のなかに見出そうと絶望的に試みていた。
「で、あんたの仲間なのかい?」と彼女が尋ねた。「今朝、不幸に見舞われたあのかわいそうな青年は?」
「わからない」と、彼は答えながら、部屋の床に視線を捩った。
「見てとれるよ、あんたがそのことで苦しんでいることくらい。彼のためにあんたらはなんにもできなかったのかい?」
「なんにも。師団じゅうに交換のための捕虜が一人もいなかった」
婆は両腕を上げて揺り動かした。「ほら見な、捕虜は節約して、取っておかねばならないのさ、今朝みたいな場合のために、んん? けれども、捕虜をあんたらは持っていたんだよ。あたしは捕虜をひとり見たよ。数週間まえに、あたしの家のまえの小径を通りすぎたんだ。目隠しされて両手を縛りあげられて、それもフィルポが膝で小突きながらまえへ押しやっていた。あたしは麦打ち場から彼に叫んだんだ。少しは憐れみを持ちな、憐れみこそはあたしらみながいま必要としていることなのだからって。フィルポは激怒の固まりになって振りむいてあたしを鬼婆と罵って、すぐにあたしが身を隠さなかったら撃たれてしまうところだった。フィルポ、あの子になら、あたしは百回も食べさせて眠らせてやったことだろうに。わかった? 捕虜たちは節約せねばならないんだよ」
ミルトンは首を横に振った。「この戦争はこういうふうにしかやりようがないんだ。それにぼくらが戦争に命じているのではなくて、戦争こそがぼくらに命じているのだ」
「そうかもしれない」と、彼女が言った、「でもそういう間にもあの下のほうのアルバでは、アルバがいまは貶められて呪われたあの土地では、彼をもう殺してしまったかもしれない。あたしらが兎を殺すみたいに、彼は殺されてしまったかもしれない」
「わからない、まだではないかと思う。ベネヴェッロからの帰りがてらに、モンテマリーノの道すがらに、ぼくはコーモの守備隊のオットに出会ったんだ。オットは知っている?」
「オットも知っているよ。彼には食べ物と寝床を一度ならず与えているからね」
「オットはそのことについてまだなにも知らなかった。彼はアルバに一番近い守備隊の男だ。すでに銃殺されてしまったのなら、オットはとうにそのことを知っているはずだった」
「それなら明日までは心配はないのね?」
「そうとは言い切れない。あの下のほうで銃殺されたぼくらの最後の男は、夜中の二時に銃殺されているんだ」
婆は両手を頭上に挙げたのに頭には置かなかった。
「あたしの思い違いでなければ、彼もあんたと同じアルバの出だったね?」
「ええ」
「友だちだったの?」
「ぼくらは一緒に生まれたんだ」
「で、あんたは?」
「ぼくが、なに?」とミルトンはかっとなって言った。「ぼくに……なにができる?」
「あたしが言いたかったのは、それが彼ではなくてあんただったということも充分にありえたということよ」
「おお、たしかに」
「そのことを考える?」
「ええ」
「それなのに……?」
「いえ。かえって。それだからこそ、さっきよりも始末が悪い」
「でも、あんたの母親はまだ元気なんでしょう?」
「ええ」
「なのに母親のことは考えないの?」
「いえ。考えるけど、いつもあとで」
「なにのあとで?」
「危険が去ったあとで。危険のまえや最中には決して考えない」
婆はため息をついて、微笑みに似た、幸福なくらいの小さな安堵の笑みを漏らした。
「ずいぶんとあたしは絶望しきったものだった」と、彼女が言った。「ずいぶんとあたしは怒り狂ったものだった。だから、すんでのことで精神病院へ送りこまれるところだった……」
「いったい、なんの話を?」
「あたしの二人の息子の話だよ」と、答えながら、彼女は笑みの輪を顔に広げた。「一九三二年にチフスで死んでしまったあたしの息子たちの話さ。一人は二十一歳で、もう一人は二十歳だった。ずいぶんとあたしは絶望しきって、ずいぶんとあたしは乱心したものだから、あたしをほんとに愛してくれていた人たちまであたしを入院させようとしたものさね。でもあたしはいまは満足している。いまは、時の流れに苦しみは去って、あたしは満足しているし、もう落着き払っている。おお、あたしの可哀相な二人の息子たちはなんて幸せなのだろう。いまは地下でなんて幸せなのだろう、人間たちに脅かされることなく……」
ミルトンが片手を上げて、静かにと彼女に命じた。コルト拳銃を握って戸口を狙った。「あんたの犬が」と、婆にささやいた。「怪訝な動きをしている」
外で犬が吠えずに歯を剥きだして唸っていた。紛らわしい雨音をとおしてもその唸り声はよく聞こえた。ミルトンは腰掛から半ば腰を浮かせて、あいかわらず拳銃を戸口に構えていた。
「構わないで」と、婆がふだんよりも高い声で言った。「あたしはこの獣のことはよおっく知っている。こんなふうに唸るのは危険が迫っているからではなくて自分自身に腹を立てているからなの。耐え忍ぶということのできない犬なのよ。一度も堪え忍べたことはないわね。ある朝、麦打ち場に出てみれば、この犬がじぶんの足を使って縊れていたとしても、あたしは肝を潰したりはしないでしょうよ」
犬はなおも怒っていた。ミルトンはもうしばらく耳をそばだててから、拳銃を置いてまた腰を降ろした。婆は台所の遠い隅に戻っていた。
とある瞬間に妙な顔をしてミルトンのほうを振り返り、なんと言ったのかと彼に尋ねた。
「ぼくはなにも言っていない」
「あんたはたしかになにか言ったわ」
「そうは思えないけれど」
「あたしは年寄りで、耳のよさで二十歳の若者と張り合えるはずもないけれど、それでもあんたは、なんとかの四人と言ったわ。たぶん、あの四人のうち一人と言ったのではないかしら」
「そうかもしれない、でもぼくはそのことに気がつかなかった」
「まだ一分も経ってないまえのことよ。あんたは四人と関わるなにかを考えていたの?」
「ぼくは覚えていない。ここではもう誰も正常ではない。ただ雨だけがいまだに正常なのだ」
実際には彼は激しく《あの四人のうち一人》と考えていたから、きっとつい口に出してしまったのだろう。そして彼はそのことを考えつづけて、その間にも脳からはあの日の朝、ヴェルドゥーノの居酒屋を満たしていた茹でた牝牛の肺臓のひどい臭いが鼻へ下ってくるのだった。
あれは青と赤が組んで一緒に戦った始めての折だった。ヴェルドゥーノの守備隊はバドッリオ派で、すぐ隣の斜面はフランス人ヴィクトール指揮下の赤の旅団が占領していた。アルバの連隊の一個大隊がすでに谷底に現れていた。歩兵と騎馬隊だったのだが、騎馬隊は最後の瞬間になって突如現れた。歩兵は浅はかにも漫然と前進してきた。前進拠点もなく、側面掩護もなく、なにもなかった。とっくに広場に到着していたヴィクトールは、そうした様子を長いこと双眼鏡で観察してから言った。「近接行動中のやつらを撃つのは止めよう。村は無防備で平和そのものだと見せかけよう。そしてやつらを通りや広場で、銃口を突きつけて、肉薄して直撃で歓待してやろう。やつらは罠に嵌まるまで気がつかないことだろう。あいつらは精神薄弱か、それとも酔っ払いか、きみらは見ないのか?」議論をしに居酒屋に引きこもったが、茹でた牝牛の肺臓のむかつく臭いがあたりに漂っていた。バドッリオ派の指揮官エドはヴィクトールの作戦に反対だった。なぜなら、あとで村が恐ろしい報復を受けるだろうから。整然と村の外で野戦を行うほうが、と彼は言った、断然よろしい。そして結果がどうであれ、村は勝敗の影響を、理に叶って、免れねばならない。「こいつは典型的に、ぞっとするばかりに青だなあ」と、当時はただの支隊長だったオンブレがミルトンにささやいた。ミルトンと他に数人の青がヴィクトールの作戦を支持したが、エドはその正規路線をいっかな変えなかった。彼は正規将校の頭で固まっていたし、とりわけ最終的な勝利が確実であるならば、あいだにある大小の戦闘をパルチザンは一貫して敗北してもかまわないという考えの持主だった。すると、半ばフランス語、半ばイタリア語で、ヴィクトールが言った。「ヴェルドゥーノはきみらの守備隊駐屯地だが、ぼくはいまその中にいるし、ぼくは撤退しない。きみらはどうぞ外から駐屯地を守りたまえ、ぼくはそれを中から守る。だから、ヴェルドゥーノはどのみち被害を被ることだろう。なぜなら、ぼくの部隊だけでは、ぼくはやつらを遠くに止めておくことはできないだろうから」この言葉にはさすがのエドも思い知って、折れた。
やつらを村なかで迎え撃つこと、それまではいささかも気配を気取られてはならない、と彼らは合意した。ミルトンは広場の胸壁の後ろに待ち伏せした。すると、彼の傍らにしゃがみにまさしくオンブレがやって来た。彼らは一緒にファシスト軍が攀じ登ってくるのを眺めていた。一部は道路を登ってきたが、他は畑や牧場を突っ切ってきた。後者のほうが苦労して、しばしば滑り落ちていた。土は一週間足らずまえに積雪が消えたばかりだった。だから将校さえいなかったなら、みな羊の群れよろしく道路を登ってきたことだろう。いまではとても近くまで来ていたし、大気は澄みきっていたので、ミルトンはその良い眼でやつらの顔つきや、髯と口髭を生やした者と生やしてない者、自動銃を持つ者と小銃を持つ者を、よく見て取った。それから振り返って村なかの全体の配置を眺めて、村の計量所脇にヴィクトールとその本隊がサンテティエンヌ機関銃を据えて待ち伏せているのを見た。反対側を眺めて、彼の青たちがアメリカ製重機関銃を据えているのを見た。なおも数瞬、胸壁の後ろに止まってから、彼らは這って後退し、ミルトンは村役場のアーケード下の仲間たちと合流した。彼オンブレは仲間のところへは戻らずに、できるだけ孤立して、塩タバコ専売店の角の後ろに身を隠した。最初に現れた敵兵は──短く刈りこんだ顎鬚の、大きな図体の軍曹で──まさに専売店の正面に姿を現した。オンブレはわずかに身体を出して、その角からやつを連射した。胴体ではなくて頭を狙ったから、あの軍曹の鉄兜と頭蓋半分が飛び散るのが見えた。
オンブレの連射が総員撃ての合図となった。ファシスト軍は数発しか撃たなかった。茫然自失のあまり、もう態勢を立て直せなかった。最大の殺戮はヴィクトールのサンテティエンヌ機関銃が果たしていた。あとで、計量所まえの通りには十八体の死体が伸びていたが、いずれも二列に鉛弾を浴びせられていた。専売店の手前で通りは砂利道となって下りにかかるけれども、そこを血がぶどう酒みたいに小川となって流れ、脳味噌の切れ端がそのうえに浮かんでいた。ミルトンはいま思い出したが、ジョルジョ・クレリチは吐いたあげくに気絶してしまって、まるで重傷を負った兵みたいに世話の焼けたことだった。
もう射撃音は聞こえず、ただ叫び声だった。まだ生きているファシスト兵士が叫び、人びとが家並のなかで叫んでいた。生命からがらの兵隊が通りから戸締りを蹴破って家のなかに雪崩れこみ、寝台の下、パンの捏ね箱のなか、果ては老婆のスカートのなかや、厩舎の飼葉の下や家畜のあいだに隠れた。ヴィクトールが脇道の路地を馬みたいに駆け抜けながら《前へ! 大隊、前へ!》と叫んでいるのが聞こえた。
とある瞬間にミルトンはおのれ一人なのを見出した。どうしたわけか、兵隊の死骸は別にして、不意にまったく一人っきりになってしまったのだ。あの半ばの沈黙とあの全き人けの無さのなかで、彼は震えた。やがて計算された足取りが、彼のほうに聞こえて、彼は水盤の後ろに待ち伏せして、銃口を向けた。しかしそれはオンブレだった。友として、兄弟として、彼らは互いに出会った。そのうちにまた叫び声と銃声が聞こえたけれども、それは彼らの勝利を祝う騒ぎだった。彼らは教会の近くにいて、爪先立って逃げ隠れる者たちの足音を彼は聞きつけたように思った。おまえも聞いたかと目顔で尋ねるオンブレにミルトンは顎でああと合図した。「教会のなかだ」と、オンブレが囁いて、彼らはあらゆる用心を重ねて中へ入った。なかは陰があって涼しかった。洗礼堂のなかを掻き回して探すことから始めて、ついで最初の懺悔堂。吐息ひとつ聞こえなかった。オンブレは内陣を横目で見たが、やがてその考えを追い払って、腰掛を一列ずつ捜索しはじめた。こうして、矢筈模様に縫いながら、大祭壇へと近づいていった。さらに近づくと、祭壇の裏手から、両手を上げた兵士がいきなり現れて、「おれたちはここの後ろにいる」と、少女みたいな声で言った。男は恐怖に竦みあがっていて、降伏したことでむしろ安堵していた。オンブレがわずかに笑みを浮かべながら、「出てこい、何人いるんだ」と、悪戯の現場を押さえた年長者のゆるす口ぶりで、静かに、優しく言った。するとあの四人が祭壇の後ろから手を高く上げて出てきて、オンブレとミルトンがあのように落着いて、優越していて、蹴りもしなければ殴りもせず罵りさえしないのを見て、ほっとしたのだった。
彼らは教会から出た。太陽は倍ほどに熱さと輝きを増したかに見えた。四人の捕虜たちは絶えず瞬きをくり返し、オンブレの赤い星からミルトンの青いスカーフへと眼を転ずるのだった。武器はよほどまえに投げ捨ててしまったに違いなかった。
ミルトンは彼らの本隊がすでに村外に出て尾根筋に向かっているのを見て、急いで同じようにするよう、オンブレに言った。彼らは家並を外れて、頂から四分の三のところで、丘を斜めに突っ切ろうとした。丘はさほど高くはなかったけれども、上部がかなり膨らんでいて木立も生け垣もなかった。
突然、ミルトンは、彼らの前方三百メートルをゆく本隊末尾の動きに気がついた。にわかの非常合図と絶望的なダッシュと、なにもかも彼を動顛させる動きだった。その直後には、たくさんの軍馬のギャロップが彼の耳を痛撃した。本隊は混乱したが、ヴィクトールが咄嗟のうちに彼らを掌握して最善の行動に出た。全員に尾根に取りつき、谷間に飛びこめと命じた。男たちにとっては一種の滑り台だったけれど、馬にとっては断崖と変わらなかった。崖っ縁に出て、身を躍らせ、下へ転げ落ちる、こうして本隊は無事だったといえる。しかし、ミルトンとオンブレは突撃に曝された。彼らはひどく後方にいて、尾根まではまだ二百歩もあった。ただ飛ぶように走れば助かるかもしれなかったが、彼らが飛ぶように走ったところで、状況を悟ったあの四人が飛ぶように走るわけはなかった。「走れ!」とオンブレが命令した。「畜生みたいに走れ!」だが、あいつらは女みたいに走った。ミルトンが下方に視線を放って、先頭の騎馬が坂に差しかかって、どの馬の横腹からもストーブみたいに蒸気が昇っているのを見た。捕虜たちはいくらかばらばらになって、最も谷側の者はたぶん先頭の騎馬から百メートル足らずのところにいて騎兵たちに合図を送ろうとしていた。騎兵たちはまだ撃ってはこなかった。距離のためもあるが、ギャロップの上下動のなかで彼らの仲間を撃ってしまう虞れがあったからだ。彼らの仲間は灰緑色の軍服でそれと知れたし、オンブレとミルトンは雑多な色の服装をしていた。
「どうしようか?」とオンブレがミルトンに叫んだ。「おまえがやれ!」けれども二人とも髪の毛を針みたいに逆立てていた。騎馬隊はあと八十歩までに迫り、斜めにギャロップしていた。そこでオンブレがあの四人に列を詰め、集まれと権威をこめて叫んだのでたちまち彼らは従って花
束みたいになったところで、オンブレは彼らのなかに弾倉が空になるまで全弾を撃ちこんだ。彼らは一束になって転げ落ち、やがて各人各様のはずみがついた死体となって転がり落ちてゆき、下方の騎馬隊に会いに行った。そして馬上の兵たちの恐ろしい叫び声が聞こえてきた。あの身の毛もよだつ叫び声に、やっとミルトンはわれに返り、ロケット弾みたいにダッシュした。それまでオンブレの所業が彼をその場に凍りつかせていたのだった。騎馬隊は撃ってはきたが、五十歩と離れていなかったにしろ、彼ら二人に当たったらまぐれだったろう。彼らは同時に尾根にたどり着き、同時に宙に身を躍らせた。谷底について羊歯の茂みから彼らが断崖の縁を見上げたとき、馬たちはまだそこに顔を覗かせてはいなかった。
ミルトンはそこいらじゅうに痛みの走る胸をマッサージしながら、立ち上がった。
「なぜここで眠ってゆかないの?」と婆が言った。「あたしはあんたを自分の屋根の下に置いたからって、ちっとも怖かないよ。いま出ていかれたら、虚ろな夜になる気がするし、夜明けだって空しく感じてしまうことだろう」
彼は拳銃をサックに収めて、上衣の下にガンベルトを巻きつけて止金を締めようとしていた。
「ありがとう。だけど、今夜のうちに丘を越えたいんだ。目が覚めたら丘越えってのはいただけない」
壁と闇をとおして非常な高みから降る雨を見ることができた。雨は、そのマストドン的な乳房の丘とともに家の上に不動のままうねっていた。
婆が重ねて言った。「明日の朝、丘を越えるために、あんたの好きな時刻に起こしてあげられるよ。あたしには迷惑なものかね。あたしはもうほとんど寝ないのさ。横たわって、目を瞠って、無についてか、それとも死についてか、考えるきりでね」
彼はすべて整ったか触れてみた。装弾子二つに、ガンベルトの革袋中のばら弾十発。「いえ」とやがて言った。「ぼくは丘の頂で眠りたい。目が覚めたらあとは下るだけというふうにね」
「もうどこで泊まるか、わかっているの?」
「ちょうど崖下に乾し草置場があるのを知っている」
「この闇のなかで、それもこんなに篠つく雨のなかで、乾し草置場を必ず見つけられるの?」
「見つけるさ」
「そこの人たちはあんたを知ってるの?」
「いいえ。だけど起こそうとも思ってないし。犬が吠えないかぎりは。」
「あの上まで登るにはどれほど時間のかかることやら」
「一時間半だね」と、ミルトンは戸口に一歩踏みだした。
「せめて雨が小降りになるまで待てば……」
「もし雨が小降りになるまで待てば、明日の正午にもぼくはまだここにいることになる」と、彼は戸口にもう一歩踏みだした。
「そんな私服で、なにをしにゆくの?」
「約束があるんだ」
「誰と?」
「〈解放委員会〉のある男と」
婆は輝きの失せた無情な眼で彼をじっと見た。「いいこと、いいこと、死人二人は一人よりも始末が悪いんだよ」
ミルトンは頭を垂れた。「あんたにぼくの銃と軍服を預けておく」と、やがて言った。
「いまはあたしのベッドの下に隠しておくけれど」と、婆が答えた。「明日の朝、起きたらすぐに、よく乾いた袋に入れて、井戸のなかに降ろしておくわ。あたしの井戸の中程には四角い穴があって、そこに袋を押しこんでおくわ。鎖と長い竿を使えばわけないもの。あたしに任せておいて」
ミルトンは頷いた。「あとのこともこうしておこう。二晩以内にぼくがまた立ち寄らなかったら、あんたに一つだけ頼みたい。あんたの隣人にその袋を渡して、彼をマンゴに遣ってくれ。マンゴでそれをパルチザンのフランクに渡して、トゥレイーゾの旅団の司令官レーオに送るように言ってくれ。そして、なぜかと理由を聞かれたら、ただこう言ってほしい。《ミルトンが立ち寄って、私服に着替えたけれど、戻ってこなかった》、と」
婆が彼に人指し指を突きつけた。「でもあんたは二晩のうちにまた立ち寄る」
「明日の晩にはまた会うさ」と、ミルトンが答えて戸を開けた。
重たく、斜めの、土砂降りの雨だったし、丘の巨大な固まりは暗闇のなかにすっかりかき消されていて、犬さえ反応を見せなかった。彼は頭を低くして発っていった。
戸口から婆が叫んだ。「明日の晩には今夜よりもましなものを食べてもらうよ。そしてもっとあんたの母親のことを考えるんだよ!」
ミルトンはすでに遠くを、風と雨に押し潰されながら闇雲に、けれども的確に歩んでいた。
「オウヴァ・ザ・レインボウ」を低くハミングしながら。
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