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マンゴの鐘楼の鐘が六時を打ったばかりだった。両拳のあいだに頭を抱えて、ミルトンは居酒屋のまえの石のベンチに腰をおろしていた。なかで女がせわしげに働くのが聞こえたし、男みたいに太い大欠伸を女が洩らすのまで聞こえた気がした。村人たちはとうにみな起きだしていたのに、扉や窓はまだ閉まっていたので、内に籠もった臭いを思うだけでミルトンは嫌悪にあえいだ。
彼は一時間で、トゥレイーゾから登ってきた。途中、出くわした夥しい霧のボードは、山道をゆく羊の群れみたいに、彼の膝の高さを過っていった。厩舎の壊れた屋根を打つ雨音が聞こえるとてっきり思って目覚めたのに、雨は降っていなかった。かわりにひどい霧が、谷という谷を塞いで、丘々の膿んだ中腹を揺れうごくシーツとなって拡がっていた。丘に対してこれほどの吐き気を覚えたことはかつてなかったし、いまみたいに不吉で泥だらけな丘を、霧の裂け目に見たこともなかった。丘を、おのれの恋の自然な舞台として彼はいつも考えてきた──あの小径づたいにフールヴィアと、あの頂の上に彼女と、彼女の後ろにあんなに神秘の溢れるあの特別の曲がり角で彼女にこう言うことだろう……──ところが、その丘の上で到底思いも及ばぬことを、戦争を、やらねばならなかった。昨日までは彼はそのことに耐えることができた。だが……
真上の砂利道で足音が聞こえても、彼は頭を上げなかった。一瞬後にモーロの声がとどろいた。
「おや、おまえはミルトン! 呪われた前哨地がやになったか? おれたちのところへ戻るのか?」
「いや。ジョルジョと話しにきただけだ」
「やつは出てるぞ」
「知っている。歩哨がそう言ってた。誰が彼と一緒なんだ?」
モーロが指折り数えながら言った。「シェリフ、コブラ、メーオにジャック。昨夜パスカルが連中をマネーラの二叉路の監視に出した。パスカルはアルバのファシスト軍があの方面から来ると考えたのだ。しかし、何事もなかった。だからあの五人はとっくに監視任務を終えて、いまご
ろは戻る途中だ。おい、具合でも悪いのか? ガスみたいな顔色しているぜ」
「じゃ、おまえの顔色はどうだと思っているんだ?」
「わかってら」と、モーロが笑った。「ここではみな肺病になりかかっている。居酒屋に入ろう。ジョルジョはなかで待てばよい」
「冷気がぼくには心地好い。頭が焼けるようなんだ」
「おれは、失敬して、避難するよ」と、モーロは入った。そして一瞬後には、カタルと底意の漲る声で、給仕女と話しだすのが聞こえた。
ミルトンは身震いしてまた頭を両手で抱えこんだ。
一九四二年十月三日のことだった。フールヴィアは一週間か、四、五日くらいか、トリーノへ帰る、とにかく発つところだった。
《フールヴィア、行くなよ》
《行かなきゃ》
《でも、なぜ?》
《なぜならあたしには父親も母親もあるからよ。それとも、あたしには親がないと思ったの?》
《そうだな》
《なんと言って?》
《ひとりでないきみなんて、ぼくは見ることも、思うこともできないって言うのさ》
《親がいるの、親がいるのよ》と、彼女が息をはずませた。《そしてしばらくあたしにトリーノにいてもらいたがっているの。でもしばらくのあいだだけよ。あたしには兄も二人いるわ、あんたに興味あるなら》
《興味ないね》
《兄がふたりよ》と、彼女が重ねて言った。《ふたりとも軍人よ、将校だわ。ひとりはローマに、もうひとりはロシアにいるの。毎晩あたしは彼らのために祈ってるわ。ローマにいるイータロ兄さんのためにはお祈りのふりをするだけ、なぜってイータロ兄さんは戦争をしているふりをしているだけだから。でも、ロシアにいるヴァレーリオ兄さんのためにはあたしは真剣に祈ってるわ、できるかぎり》
ミルトンをこっそりと見た。彼は、遠くの川に、白茶けた両岸のあいだの灰色の水面に、顔を向けて、頭を垂れたまま放心していた。
《あたしは大洋を渡ってゆくわけではないのよ》と、彼にささやいた。
しかし彼女は大洋を渡っていた。鴎たちの嘴が心臓にこぞって食い入るのを彼が感じているからには。
彼とジョルジョ・クレリチが彼女を駅まで送っていった。あの日、駅は開戦以来これまでになくきちんと整頓されて、ずっと清掃が行き届いているように見えた。空は最も美しい群青色よりも美しい、透きとおった灰色で、その無窮の広がりのなかに不変だった。フールヴィアがトリーノに降り立ったころには、夕暮れだったことだろう。昏い煤けた夕暮れだったことだろう。けれども、正確にはトリーノのどこに彼女は住んでいるのだろう? 彼はそれを本人にもジョルジョにも聞こうとはしなかった。後者はたしかに住所を知っていただろうに。フールヴィアに関して、彼はトリーノの何もかもを知ろうとはしなかった。彼らの物語はひたすらアルバの丘の上の別荘でだけ紡ぎだされるのだった。
ジョルジョは自主経済政策以前のスコットランド織の服を着ていた。ミルトンは父親の仕立てなおしの上衣を着て、ネクタイは目を結ばずに垂らしていた。とうに列車に乗りこんだフールヴィアが、車窓から顔を覗かせていた。ジョルジョに軽く微笑みかけて、たえずお下げ髪をゆり動かしていた。それから車内通路をとおり抜けながら彼女を押しつぶしたでっぷりした旅客に向かってしかめ面をした。いまはジョルジョに笑いかけていた。プラットフォームの上を助役が小旗を広げながら、歩を速めて機関車のほうへ行った。空の灰色はもういくらか損なわれていた。
フールヴィアが言った。《英軍があたしのこの列車を爆撃したりはしないでしょうね?》
ジョルジョが笑った。《英軍機が飛ぶのは夜間だけさ》
やがてフールヴィアは彼を車窓の下に呼んだ。彼女は笑わずに、その声の音よりもむしろ唇の動きでミルトンが意味を捉えた言葉を言った。
《別荘に戻ったときにあたしはそこにあなたの手紙を見つけたいの》
《わかった》と、答えたミルトンの声はその単音語のなかでさえ震えていた。《それを見つけねばならないのよ、いいこと?》
列車は発車して、ミルトンはカーブのところまで目で追った。川向こうの果てしないポプラ林のうえに立ちのぼる煙を追って、橋の向こうでそれをまた目に捉えたかった。だが、ジョルジョが彼を鉄格子の門まで押した。《ビリアードやりにいこうぜ》彼は駅の外まで引きずられるにまかせたが、ビリアードはしないと言った。彼は直ちに家に帰らねばならなかった。
彼女を愛しているとフールヴィアに手紙を書くのには、たった一週間しか、たぶんそれ以下しかなかった。
そこに立て掛けてあったカービン銃をまた見出そうと壁を手探りしながら、彼は疲れきってベンチから立ち上がった。最悪の状態だった。冷気の斉射をなんども浴びて全身が震えているのに、頭は耳鳴りがするばかりに漲り、蟠りながら、燃えあがる熱に焦げついていた。
ちびのジムが脇の路地裏から出てきた。近寄らずに彼に言った。パスカルがちょうどいま司令部に入ったから、話したいのがパスカルとならば。
「いや、ぼくはジョルジョとだけ話したいのだ」
「どっちの? 美男子ジョルジョか?」
「そうだ」
「やつはまだ外だ」
「知っている。途中で出会うように出かけようと思うんだが」
「あまり村から遠ざかるなよ」と、ジムが警告した。「濃霧で道に迷うぞ」
表通りを通って村を抜けながら、路地ごとに目を脇に走らせて野辺を埋めゆく霧の濃さに注意した。村外れに植えられた木立はすでに幻みたいだった。
最後の人家の角で彼はぴたっと立ち止まった。小石だらけの急坂に五、六人の足音を聞きつけたのだ。足取りは、長くて迅速で、町の少年パルチザンたち特有の足音だった。彼らは無言で登ってきた。みな喉や肺いっぱいに霧を詰まらせているのは明らかだった。ひどい昂奮に襲われて、
彼は狼狽し、家の角に寄りかからねばならなかった。しかしジョルジョの分隊ではなかった。問われもしないのに、彼らの一人が通りすがりに言った。墓地下から来た、夜は墓堀り人のところで過ごしたのだ、と。
なおも心が乱れたまま、彼は野辺に出た。野外で、受胎告知の聖母の小礼拝堂付近で、ジョルジョを待とうと心に決めた。しばらくのあいだ彼をほかの四人から引き離して、それから……
尾根道には霧が溢れていたが、なおまだ隙間やうねりがあった。しかし両側の谷間には縁まで不動の固まった真綿みたいな霧が溢れ返っていた。霧は丘の斜面をも這い昇ってきて、頂の何本かの海岸松だけが霧の海から突き出て、溺死寸前の人びとの腕みたいに見えた。
小礼拝堂の幻に向けて用心深く下った。霧によって巣のなかに押しこめられた鳥たちの唖然とした囀りと霧に沈んだ谷間のせせらぎを別にして、一切が沈黙していた。
マンゴの鐘楼の鐘が木霊もなしに、七時を告げた。
礼拝堂の壁にもたれてトッレッタの峠を不安そうに見つめた。下の高原から飽和点を求めて昇ってくる霧によって、峠道はすでにあらかた塞がれていた。まだ裂け目がひとつ残っていたが、ジョルジョの分隊は十秒以内にそこに現れねばならなかったろう。しかし現れなかった。だから見よ、いまはもう遅い。霧の援軍が峠をかき消してしまった。
タバコに火をつけた。もうどれくらいフールヴィアのシガレットに火をつけていないだろう? 戦争の恐ろしい大海原を泳ぎわたって岸辺にたどり着いて、フールヴィアのシガレットに火をつけるくらいだとしても、たしかにその甲斐はあった。
最初の一口で肺が破裂しそうな気がして、二口目では痙攣のために身体を二つに折らねばならなかった。三口目は少しはましに耐えて、いくらか戦いただけでしまいまで吸うことができた。
霧は、いまではあの目のまえの道まで閉ざしてしまったが、それでも地面から一メートルほどのところで宙に漂っていた。まさしくその中空層にカーキ色のズボンを穿いた脚がちんばを引いているのを、彼はようやく認めた。胴体や頭は霧に覆われて見えなかった。道なかに飛び下りて身を伸ばし、ジョルジョの脚を、その足取りをもっとはっきりと見わけようとした。いつものように、極度に感動すると、彼の心臓は身体のおくに潜りこむのだった。
胴体と頭が濃霧のなかから現われ出てきた。シェリフ、メーオ、コブラ、ジャック……
「おや、ジョルジョはどこだ? きみらと一緒じゃなかったのか?」
シェリフがいやいや立ち止まった。「そうだ。やつは後ろだ」
「後ろのどこだ?」と、霧のなかを穿つように目を凝らしながらミルトンが訊いた。
「五、六分遅れだ」
「きみらはなぜ彼と離れた?」
「離れてったのは彼のほうだぜ」と、メーオが咳をした。
「きみらは彼を待っていられなかったのか?」
「大人は大人だ」とコブラが言った。「やつだって道はおれらと同じくらいよく知っている」
そしてメーオが、「ミルトン、おれたちを行かせてくれ。おれは腹が減ってくたばりそうだ。霧がラードなら……」
「待てよ。きみらは五、六分遅れだと言ったが、ぼくにはまだ彼の姿が見えないぞ」
シェリフが答えた。「道沿いのどこかの家で飯でも食っているんだろう。ジョルジョがどんなやつか知ってるだろ。やつは仲間と食うのがむかつくんだ」
「行かせてくれよ」と、メーオがくり返した。「それとも、どうしても話したいのなら、歩きながら話そうじゃないか」
「シェリフ、ほんとのことを話せよ」と、脇へ退かずにミルトンが言った。「きみらはジョルジョと喧嘩したのか?」
「とんでもない」と、それまで口を出さなかったジャックが言った。
「とんでもない」と、シェリフが言った。「ジョルジョがいくらおれたちのタイプじゃないとしてもな。やつは金持の息子だ、豚の軍隊によく見かけたようにな」
「だけど、ここじゃみな平等なんだ」と、いきなり激昂してコブラが言った。「ここじゃ、親の七光は利かない。軍隊と同じようにここでもそれが利くのなら……」
「でもおれは腹が減ってくたばりそうだ」と、メーオが言って、頭を低くしてミルトンの脇を抜けた。
「おれたちと一緒に村へ来いや」と、彼も歩きだしながら、シェリフが言った。「あちらの上でやつを待てばいい」
「ぼくはここで彼を待つほうがいいんだ」
「お好きなように。せいぜい十分もすればきっとやって来るさ」
なおも彼を引き止めた。「あちらの霧はどうだった?」
「いや物凄い。村に着いたら誰か年寄りにこんな霧を一生のあいだに見たことがあるか尋ねようと思っているくらいだ。物凄いぞ。とある地点では、屈んでも道は見えないし、このおれを支えている自分の足さえ見えない始末だ。だけど、危険はないさ、道は断崖には沿っていないからな。だが、ミルトン、言っておくがおまえの友だちが呼べば、おれはやつを待っただろうし、こいつらも待たせたことだろうさ。しかしやつは呼ばなかった。だからおれにはわかったのさ、やつはいつものように自分のことをしたいんだ、と。ジョルジョがどんなふうか、おまえも知ってのとおりさ」
彼らは四人とも霧のなかへまた消えていった。
彼は礼拝堂に寄りかかりにまた登った。二本目のタバコに火をつけてくゆらしながら、路面と霧の層とのあいだで耐えている中空層を注視していた。三十分後にはまた路面に降り立って、トッレッタの峠へ向けてゆっくりと歩きだした。
ジョルジョはひとりでいるためにわざと霧を利用したと、シェリフが考えたのはもっともなことだった。まさしく仲間意識のなさと、その拒絶ゆえに、ジョルジョは不人気だった。おのれの物をなにひとつ、その体温さえも分かちあわないように、孤立する機会を彼は逃さなかったし、
それどころかそうした機会を次々に創りだしていた。ひとりで眠り、ひとりで食べ、タバコが払底している折に隠れて吸うし、タルカムパウダーを使う……ミルトンは下唇を突きだして、そこに歯を突きたてた。昨日以前ならば、彼の笑みを誘ったジョルジョのことが、いまは彼を突き刺した。ジョルジョは、ミルトンだけに耐えられるかのようだった。ミルトンだけと立ち居を共にした。厩舎で眠りながら、どれほど互いに寄り添って身体を伸ばし、互いに身体をくっつけあっていたことだろう。そういう親密さはみなジョルジョのほうからもちかけたことだった。ミルトンはたいてい三日月みたいに身体を曲げて眠ったので、ジョルジョは彼が寝る体勢をとりおえるのを待ってから、彼に身を寄せて、横方向のハンモックに寝るかのように順応していた。そして先に目覚めてみれば、ミルトンはどれほど好きなだけ眺めていたことだろう。ジョルジョの身体を、その肌を、その毛を……
いまは霧の最も濃い、最も盲た層のなかを行くというのに、苦しみが彼の歩みを速めさせた。霧は具体的な厚みを帯びて、正真正銘の蒸気の塀となった。そしてミルトンは一歩ごとに衝突と打撲傷を負う感覚を覚えた。彼はたしかに峠のごく間近まで来ているのだが、歩の運びと道の勾配からそうと推断するほかはなかった。まさしくシェリフが言ったように、身をかがめてみてやっと路面と、切り離されたみたいなピント外れのおのれの足の見わけがついた。前方の視界はというと、もしもジョルジョが二メートルさきに現れたとしても、その彼をしかと見ることはできなかったであろう。
なおも五、六歩登って、頂に着いたと彼は確信した。巨大な稠密な霧の層が下の高原を圧し潰していた。
唾を呑みこんでから、ちょうどそのとき最後の急斜面を登っている者に聞こえるように声を調節しながら、ジョルジョの名前を呼んだ。それから、ジョルジョが高原を歩きまわって坂に差しかかったばかりの場合に備えて、ずっと大声で名前を呼んだ。なんの返事もなかった。それから両手を漏斗みたいに口のまわりに添えて、ジョルジョの名前をできるだけ引き伸ばしながら叫んだ。少し下で、一匹の犬がきゃんきゃん鳴いた。そしてあとは何もなかった。
すでに目に見えない村の方角を間違えないように、あらゆる注意を払いながら、ミルトンはくるりと身体の向きを変えて、一歩一歩ふたたび下った。
5
食堂でシェリフをまた見つけた。彼は空腹を満たして、両肘をテーブルにぺたりとつけてうたた寝をしていた。ぜいぜいいう寝息の下で、こぼされたぶどう酒の染みが水溜めみたいに波立っていた。
ミルトンが彼を揺り動かした。「会えなかったぞ」
「わけがわからない」と、濁声でシェリフは答えたが、それでも上半身を起こしてしっかりと話をする姿勢は示した。「いま何時だ?」と、目を擦りながら聞いた。
「九時過ぎだ。近くにファシスト軍がいなかったのは確かなんだな?」
「あの濃霧で? ここの霧をもとに、ものを言うなよ。言っとくが、二叉路では乳色の海だったんだぞ」
「行軍中のやつらを濃霧が襲うってことだってありうるぞ」と、ミルトンが指摘した。「やつらがアルバを進発したときには、あの下のほうではこんな濃霧ではなかったはずだ」
シェリフが頭を揺さぶった。「あの濃霧で」と、また言った。
ミルトンが激した。「おまえはやつらがいたかもしれないことを除外するためにだけ濃霧を使っている。それなら、やつらを見かけなかった言い訳をするためだけにも濃霧を口実にしないか、おまえは?」
シェリフはあいかわらず頭を、あいかわらず穏やかに揺さぶっていた。「それでも、やつらを聞きつけたはずだ。アルバからは大隊以下では出てきやしない。大隊は鼠じゃないから、音を聞きつけたはずだ。兵隊ひとりが咳をすれば充分だったんだからな」
「しかし、パスカルはやつらが来ると読んでいたんだ。おまえたちを二叉路の監視に遣ったのは、まさにあの方面からやつらが来ると睨んだからなんだぞ」
「パスカル」と、シェリフが鼻を鳴らした。「パスカルをもとにものを言うのか。だが、やつを旅団司令官にしたのはいったい誰なんだ? まあ、批判するわけじゃないがな。ただ言っておくが、何ヵ月も経つがやつが言い当てたためしをおれは一度も見ていない。もしおまえが知りたければ、昨日も今朝もずっとおれたちはパスカルにひどく毒づいていたんだ。やつは敵襲を夢に見て、糞な暮らしを送るのはおれたちだ。おれたちはこういうふうに何時間もパスカルには毒づいてたよ。おまえのジョルジョもだ」
ミルトンはテーブルをぐるりと回って、シェリフの正面の椅子に跨がって腰をおろした。
「シェリフ、おまえはジョルジョと喧嘩したのか?」
相手は二度ほどしかめ面をしてから頷いた。「ジャックと大喧嘩だ」
「ああ」
「だけど、そのことと離ればなれになったこととは全然関係がないぞ。要するに、喧嘩のせいで、彼を霧のなかで見失ったわけじゃないんだ。彼が勝手に離れたんだ。やつの自発的意志でな。金持の息子の気儘さを尽くすためにな」
「むろん、おまえたち三人はジャックの肩を持ったわけだ」
「それは言えている。ジャックがまったく正しかったからな」
ほんとうのことを言うと、とシェリフが説明した。五人ともみな激怒して本性を現わしたのだった。ミルトンがそのアルバ斥候を終えてトゥレイーゾへ戻ってからしばらくしたころ、彼らはマンゴを発った。トッレッタの峠にまだ行き着かないうちにもう肉にくいこむ真っ黒な夜だった。一行は尾根づたいに歩いていたから、はや冬みたいに不吉な強風を、胸にまともに受けていた。紛れもなくこれは高い丘のああした墓地のひとつの開け放たれた墓穴から吹きだしてくる風だ、とメーオが言った。おれは銃殺されたってあんな墓地に入るのは御免だがな。まるっきり人っこ一人いなかったが、尾根道をとおる彼らの臭いを嗅ぎつけて、丘の中腹の犬という犬が吠えていた。犬には我慢できないコブラが吠え声ごとに罵っていた。彼はとうに頭巾を被っていて、歩きながら罵り声をあげるシスターみたいに見えた。そして犬さえ鳴かなければまったく目につかないわが家の所在を明かしてしまう熱心な犬に、百姓たちが投げつける罵りを考えに入れると、世界じゅうがひとつの罵り声だった。それは残りの四人も、歯ぎしりしながら進んでいたが、心のうちでは罵っていたからなおさらだった。彼らは確信していた。パスカルは夢をみたか、それともたんに気まぐれを起こしたか、いずれにしろ、糞な暮らしでそいつを支払う羽目になったのが自分たちだ、と。最も怒り狂っていたのはたしかにジョルジョだった。なぜなら、あの分隊は彼の性に合わなかったし、指揮はシェリフに任されていたからだ。《こいつら四人のルンペンのあいだで》と、無論やつは考えていたに違いない。《おれが指揮をとるに相応しからずと見なされるのなら、おれのパルチザンのなかでの成功と出世もわかろうというものだ》
それからみなはメーオに腹を立てねばならなかった。みなはマンゴから腹を空かせて発ったから、以前やつと哀れなラフェーがとてもいい扱いを受けたとある一軒家の農家に寄って夕飯にありつこうと、メーオが言いだしたのだった。釜から出した焼き立てのパン、甘いけれどもどっさり具の入ったミネストラ、それに真ん中に薔薇色の小さな輪の入った、あの雪みたいに真っ白な、極上のベーコンを好きなだけ。みなで、よし、そこに行こう、ということになった。しかし場所は、はなはだ具合が悪かった。その家は大斜面の裾にあったからだ。首根っこを折りそうな小径づたいに下へおりたが、夜は黒ぐろとピッチみたいだし、おまけに闇が生き物のようにたくさんの谷底を目に錯覚させるものだから、そのつど立ち止まらねばならなかった。それに、やっと下に着いてみれば、メーオはもうその家がどこかわからなくて、みなで四方に散って探さねばならなかった。農家の四つ壁は不順な気候にひどく黒ずんでいたので、人のすむ家のあの薄明かりさえ放ってはいなかった。あげくにやっとコブラが見つけたのはいいが、やつはまさにその家の麦打ち場を囲っている有刺鉄線にズボンを引っ掛けてしまった。コブラが大きな罵り声をあげたので、みなはそちらへ向かったわけだ。幸い、番犬はいなかった。いれば吠えたてて、コブラはたちどころにステン銃で撃ち殺してしまうだろうし、そうなるとこんどはシェリフが怒り狂って泥濘のなかでコブラと立回りを演じたことだろう。シェリフは犬が射殺されるのを見ると正気を失うのだった。
そうして呆れてしまったのは、なかへ入るのに山ほど儀式ばらねばならなかったことだった。戸を叩きにメーオが行くと、主が戸の裏に身を寄せた。
「誰だ?」
「パルチザンだ」と、メーオが答えた。
「方言で言え」と、老耄が要求した。そこでメーオは方言でくり返した。
「種類は? バドッリオ派の青か、それとも赤い星か?」
「バドッリオ派だ」
「で、バドッリオ派なら、どこの司令部だ?」
「マンゴの司令部だよ」と、辛抱強くメーオが答えた。「おれたちはパスカルの部下だ」だが、老耄はまだ閂を抜かなかった。だから、シェリフはコブラを制さねばならなかった。後者は足掻いて、戸ごしにあの百姓にずばっと言ってやりたがった。さっと戸を開けたくなるような二言三言を。
「で、なんの用だ?」老耄が続けた。
「一口食べて、すぐまたおれたちは任務に出かけるんだ」
それでもあいつはまだ満足しなかった。
「いま話しているおまえは誰だか、知れるかな? おれはおまえを知ってるか?」
「いいとも」と、メーオが言った。「おれはメーオで、あんたの家に一度食べに寄ったことがある。思い出してみてくれ」
黙って、老耄は思い出しては篩にかけていた。「おれのことを思い出すはずだ」と、メーオが言った。「二ヵ月まえに寄ったんだ。やっぱり晩のことだった。身体を持っていかれそうな風が吹いていた」
年寄りは少しずつわかりだしたしるしになにか呟いた。「で、おまえは」と、それから尋ねた、
「おまえは誰と来たのか、覚えているか?」
「もちろん」と、メーオが言った。「ラフェーとここへ来たんだ。まもなくロッケッタでの戦闘中に死んでしまったあのラフェーと」
すると年寄りは女房に声をかけて、閂を外し、みなはなかへ入った。けれどもメーオが請けあった美味いものなどなかったし、それどころかひどく貧しい食事だった。ポレンタと冷えたキャベツにひと握りのハシバミの実しかなかった。しかもそのわずかばかりのものを老人のじっと見る目の下で食べねばならなかった。彼らを監視しつつ、白い大きな口髭をたえず舐めながら、ときおりひと言、ひと言だけ呟いていた。《シベリア》。それが老人の口癖だった。《シベリア、シベリア》ジョルジョはポレンタに手をつけず、ましてやキャベツには見向きもしないで、ハシバミの実を十二個ほど急いで噛み砕いたから、それらは怒りとともに胃の腑に残った。それから彼が言った。食べたハシバミの実が食道ぞいに蒔いた小石みたいに感じられる、と。あの惨めな家を彼らがようやく後にしたときには、まだやっと九時だったのに、夜は夜明けまえの一瞬みたいに恐ろしげだった。よくもあんな夕食を見つけてくれたとみなはメーオを散々にこき下ろしながら登った。一番ましなのはまたもジャックだった。ひっきりなしにソフトな声で陽気なくらいにぼやいていた。《ファシストの豚め、ファシストの豚め、ファシストの豚め……》
それからみなは二叉路監視のベースにする家の選択で、シェリフに腹をたてた。早くも二叉路の見えるところまで彼らは来ていた。谷側の道が痛ましく白じらと浮かび出ていた。頭巾を被った頭を振ってコブラが言った。「明日の朝、あの道をファシスト軍が通ったなら、おれは誓って言うが、あの砂利を腹が裂けるまで喰ってやる。」四人は〈ランガの牛舎〉に泊まりたがった。あそこなら厩舎は広いし、どの隙間もしっかり栓がしてあるし、牡牛がたくさんいるからその鼻息でスチーム暖房みたいに温めてくれる。シェリフが反対した。あそこは眠るには心地好くても、見張るには位置が悪い。二叉路から離れすぎている。彼は立ち往生してしまったに違いない。それでもしまいにはみなを、二叉路のまさしく真向かいにある丘の縁に立つ見捨てられたあばら屋に連れていった。そこは、はや静まり返って灯も消え横棧をかけられた二叉路の集落からステン銃の射程内にあった。いまいましい風の下で根のなかまでざわざわと音を立てている木々の長い列をつたって彼らはそこに着いた。
あばら屋には崩れ落ちて屋根なしの三つの小部屋があった。いくらかましな部屋は厩舎だったけれど、あれは厩舎なんて呼べる代物ではなかった。ひどく狭くて羊六頭も入れられなかったことだろうし、秣槽には小人が入れるかどうかというところで、煉瓦敷きの床がまったく剥きだしで、片隅に二、三束の棘の多い薪束が積み重ねられているだけだった。それにたったひとつの小窓には、ガラスはなくて窓紙は穴だらけだったし、戸板には平手がとおる割れ目があった。
真夜中から歩哨を立てた。シェリフが最初の歩哨に立った。ほかの者は横になり、煉瓦敷きの床の上でとぐろを巻き、震えて縮んだが、誰ひとり眠らなかった。みなはこうも獣的になったので、あの古い薪束を外に放りだしてスペースを広げるという単純至極なことを誰ひとり思いつかなかった。わずかに隅へ寄せただけだったが、やがてジャックがほかの男たちの冷たいのたくりや横滑りや捩れに押し退けられて、その薪束の上にひっくり返ることになった。それでも眠っていた唯一の男はジャックだった。苦行僧みたいにあの棘の多い薪束のうえで、彼は眠りながら臨終の人みたいに呻いていた。最後から二番目の歩哨にはジョルジョが立ち、最後の立哨はジャックだった。後者は明け方の眼を欺く光のなかで非凡な視力を持っていた。
ジョルジョとの禍いが持ちあがったのはジャックの立哨時間中のことだった。戻ってきたジョルジョが、ジャックを揺り起こし、ジャックが外へ出ると、彼はコブラとメーオの身体を掻き分けて寝藁のうえに半ば横たわった。むろん眠気は訪れないから、膝の下で手を組み合わせて背を丸めた。タバコを一本吸ってから、眠るためというよりもなんとかしのげるように夜を明かすために、百もの姿勢を試みたが、うまくゆかなかった。そこで坐りなおして、もう一本タバコに火をつけた。マッチの明かりで、ジャックがその歩哨の義務に服して外にいるどころか、厩舎のなかにいるのを見た。ジャックは戸口の壁を背にして坐って、こっくりこっくりしていた。
「ジョルジョは」と、シェリフが言った。「かっとなったにちがいない。彼はきちんとおのれの当直を果たしたというのに……」
「誰もいない」と、ミルトンが遮った。「師団じゅうで、誰もいない。ジョルジョみたいに用心深く歩哨をつとめる男は」
「それはほんとうだ」と、シェリフが認めた。「それに吟味しようとも思わない。彼がそんなにきちんと歩哨に立つのは彼自身のためだけなのか、それとも仲間のためでもあるのか、と。事実はおのれの生命のためにきちんと歩哨に立つことで彼は自動的にほかの男たちの生命のためにもそうしていることになるということだ。この点についてはおれたちは一致している。言ったように、ジョルジョはかっとなった。膝立ちして、野獣みたいに両手で寝藁を引っ掻いていた。《なぜおまえは外で歩哨に立っていないんだ?》そしてなにかわけをいう暇も与えずに、ジャックにひどい言葉を浴びせかけた。なかでも、売女の子、というのが一番ひどかった。ジャックの過ちは、それが過ちならばな、すぐに相手にわからせなかったことだ。《むだだよ》と応えて、そしてたぶん、ジョルジョのほうの床に唾を吐いたかも知れんな。ジョルジョは蛙みたいに彼に飛びかかりながら言った。《むだだ!? おれたちは歩哨に立ったのに、おまえだけ立たないのか、卑怯な豚め?》そして彼に蹴りかかった。おれたちは目を覚ましていたが、まだわけが呑み込めずにいたし、それにひどく身体が痺れて節々が強張ってしまっていたから、おれたちが立ち上がるまでには丸一分はかかってしまった。おれにわかったことといったら、ジャックが外で歩哨に立っていなかったことだけだった。だからおれは彼に、なぜだ?と、そして直ちに外へ出て役目を果たせ、と叫んだのだ。だが、ジャックはおれに返事をしなかった。というのも、ジョルジョから身を庇うのでそれどころではなかったから。ジョルジョは彼の首根っこを捕まえてその頭を壁にめりこませようと躍起になっていた。そうして首を締めあげて頭を押しつけながらも、彼を侮辱するのを止めなかった。《父無し子め、おまえみたいな手合いとかかずらわるのはもうやめだ! おまえらはわれわれにもやつらにも役立たずだ! みんな殺されてしまえ! おまえらは犬だ、豚だ、滓だ……!》ジャックは答えなかった。というのもジョルジョが首を絞めにかかっていたし、彼自身、首筋を強張らせて壁に頭を打ちつけられないようにしていたから。こうして彼は話さなかったし、おれたちに助けを求めもしなかった。彼は足を巻いてそれでジョルジョを投げ飛ばそうとしていた。長い話になってしまったが、こうしたこと一切が三十秒以内に起こったのだった。おれたちが割ってはいるまえに、ジャックは両足をまんまとジョルジョの胸に当てて、やつを煉瓦敷きの床のうえに勢いよく尻餅つかせていたよ。そこでおれは、すぐに釈明しろ、とジャックを叱りつけたんだ。すると、ジャックは自分の場所に坐ったまま、おれに答えた。《むだだよ、とおれは言った。おまえが見てみろ》と、彼はひと突きして戸を開け放った。おれたちは外を眺めて、理由を悟った」
「霧だ」と、ミルトンがつぶやいた。
その霧を叙景してみせるために、シェリフは椅子から立ち上がった。
「まあ、乳の海を想像してみてくれ。あの家までだ。霧の舌やら乳房やら、おれたちはたまげて手探りで厩舎に舞い戻った。おれたちは一人ずつ外へ出たが、用心して、すぐ近くまでしか行かなかった。あの乳の海にいまにも溺れ死んでしまいそうだったからな。おれたちは互いにやっと誰だかわかったのだが、それも一直線になって、肘と肘を突きあわせてのことだぞ。おれたちのまえにはなにひとつ見えなかった。おれたちはじだんだを踏んで自分らが地面の上にいて、雲の上じゃないってことをたしかめねばならなかった」どっかりとまた腰を下ろすと話を続けた。
「コブラが笑い声をあげるなり、厩舎に戻って、あの薪束を抱えあげると、外に戻って満身の力をこめてその薪束を前方へ、あの霧の口めがけて投げつけたんだ。だけど、薪束が地面に落ちた音はしなかった」
彼らがどんなに耳をそばだてても、息を殺していても、こそとの物音ひとつしなかった。ジョルジョとジャックの諍はとっくに忘れられていた。ジョルジョの時計が五時近くを指していた。彼らはみな了解した。敵襲はなかったし、ありえなかっただろう、と。あそこに止まっていても彼らにはもう何事もなしえなかったし、ただちにマンゴへの道を取って返さねばならなかった。
「若者よ」と、シェリフが言った。「尾根道を採れば一番近いうえに道筋は頭のなかにしっかり入っていた。だがな、この霧のなかでは尾根道は危険だった。両側の斜面のあいだの剃刀の刃の上を渡らねばならないのだから。この霧のなかでははぐれやすかったし、はぐれた者は自殺するに等しいとまでは言わないが、甘く見ないほうがいい。どこまでも転がり落ちていって、あの下のほう二キロ余りのところを流れているベルボ川まで止まりはしない。それゆえおれは鉛みたいに重い足を引きずって斜面のなかほどまで下ってそこから丘の中腹の道を行くことを提案したのだ。遠回りじゃあるが、せめて片側だけは断崖によって守られているからな。つねに右側を歩いて断崖に触れながら行けばよいわけだ。ピローネ・デル・キアルレの高地にまで達したら、また尾根道を登ることができる。そのあたりの道はあまり危険ではない。両側にかなり広い牧場が瀑布のまえまで続くからだ。それにあそこまで行けば、霧はここいらほどには物凄くないかもしれない」みなは彼の言い分を認めて、用心に用心を重ねて、始めのうちはボッチェの点を測るときにやるみたいに、一足ずつ順送りにしながら、丘の中腹まで下った。跪いてみてやっと見わけたのだが、丘の中腹の道に出てからは、霧は同じように濃かったが、彼らはいくらか早く歩いた。それから彼らは偶然にピローネ・デル・キアルレへと登る小径に入ってまた尾根道を歩んだ。
「おお」と、シェリフが言った。「ふだんならば一時間で歩く道を、おれたちは三時間かけて歩いたことになる」
「で、ジョルジョは、どこで彼ははぐれたんだ?」
「わからない。だが重ねて言っておくが、はぐれていったのは彼のほうなのだ。思うに、丘の中腹の道の取っつきあたりでやつは離れたのだろう。落ち着けよ、ミルトン、おれにはジョルジョがどこにいるか察しがつく。どこか素敵な牛舎で暖かいところに坐って、お金をじゃらつかせて、飯でも出してもらっているさ。いつでも大金を持っていて、ときにはやつのほうが旅団の会計係よりも持っていた。やつの父親が薄荷ドロップみたいにやつに持たせるからだ。いまじゃ、どうするのか、おれは知ってるぜ。大きなスープ皿に沸かした牛乳を入れて持ってこさせて、もう砂糖なんて払底しているから、蜂蜜をスプーンで何杯も溶かしこむんだ。そうとも、だからこそやつが咳ひとつ、くすんともするのを聞いたことがないんだ。ほかのおれたちは咳きこんで、魂まで吐きだしちまうというのにな。落ち着けよ、ミルトン、斥候隊の責任を預かるこのおれがどれだけ落ち着いているか、見るがいい。心配しなさんな、正午には村でやつにまた会えるから」
「正午にはぼくはトゥレイーゾに帰りたいのだ」と、ミルトンが言った。「レーオにそのように約束したつもりでいるからだ、ぼくは」
放恣な徴にシェリフは片手をひらひらさせた。「もっと遅く帰ったってなにが不味い? レーオなんてなんの関係がある? ここでは点呼も再点呼もないんだ。この点でもパルチザン暮らしは偉大だよ。さもなければ王国軍みたいになってしまう。失礼して銃に触るよ」実際に彼は弾倉に触ってつけ加えた。「ここでは何事も掌尺で測るというのに、なぜおまえはミリ単位で測りたいんだ?」
「ぼくは掌尺は性に合わないからだ」
「いまはおまえまで豚の軍隊のシステムで行軍するのか?」
「軍隊のことは人が話すのも聞きたくはない。それでもぼくは掌尺は性に合わない」
「そういうことなら、ジョルジョのことでは、またいつか来いよ」
「ぼくは彼とすぐに話す必要があるんだ」
「それにしたって、なんでまたおまえはそんなにジョルジョに会いたがるのさ? おまえがやつに言いたいそんなに大事なことってなんなのさ?やつのおふくろでも死んだのか?」
ミルトンが背を向けて戸口へ向かうのを見て、彼は言った。「で、いまはどこへ行くんだ? 村んなかか?」
「ここの外だけだ、霧を見にな」
眼の下に見える谷間のなかでは、霧は、巨大なごく鈍いいくつものシャベルによって、谷底でまた掻き混ぜられたかのように、動きだしていた。五分のうちに幾つか穴や割れ目が広がって、その底に切れぎれの地面が覗いていた。彼の眼には地面は、窒息によって仮死したかのように、きわめて遠くに黒ぐろと映った。丘々の頂と空はなおも濃く幾重にも霧に覆われていたが、あと三十分も経てばあの上のほうにも、きっとどこかに裂け目ができたことだろう。数羽の小鳥が気弱にまた囀りだした。
彼は首だけをまた屋内に差し延べた。シェリフはまたも寝こんでしまったようだった。
「シェリフ? 道の途中ではなにも聞かなかったのか?」
「なにも」と、頭も上げず肘も広げずに、即座に相手は答えた。
「丘の中腹の道でのことなんだが」
「なんにも」
「絶対にか?」
「まったくなんにも!」シェリフは頭を猛烈に撥ねあげたけれど、その声は少しはましに抑えた。
「もしおまえがほんとに正確さを期するのなら、まっ、こんなにこだわるおまえさんは見たこともないが、言っておくと、おれたちが耳にしたのは後にも先にも一羽の鳥が飛んでゆく羽音だけだ。さあ、もういまはおれを眠らせてくれ」
外では小雨がぱらつきだした。
6
彼は十人ほどの戦友にジョルジョを見かけ次第彼のところへ寄越すようにといいおいて、食堂にいるとも告げておいた。しかし十一時半ごろにはその食堂からも出て、三十分ほど村外れをあてどなく彷徨いながら、虚ろな野辺から戻ってくるジョルジョの姿をいくらか遠くに見つけはす
まいかと空しい期待にかられていた。霧は到るところで溶け去りつつあったし、小糠雨がいくらか繁くなったとはいえ、まだはっきりとしたうるささではなかった。
洗濯場へと抜ける小径の出口に一瞬、フランクが浮かび出た。彼もやはりアルバの青年で、ミルトンやジョルジョのカテゴリーだった。ミルトンの影さえ目に入らなかったかのように通り過ぎたが、遅れて視覚が働いたのか、すぐにまた小径のところに姿を見せた。フランクは髪の毛の先から足まで戦いていて、その顔はかつてないほどにあどけなく青白く、石膏みたいだった。
《ジョルジョが捕まったんだ》と、ミルトンは呟いた。
「ミルトン!」と叫びながらフランクが駆け下ってきた。「ミルトン!」とまた叫びながら、ばらけた砂利道のうえで踵でブレーキをかけた。
「フランク、ほんとに、ジョルジョは捕まったのか?」
「もう誰から聞いたんだ?」
「誰からも。そういう気がしたんだ。どうしてわかった?」
「ある農夫が」と、フランクが吃りながら話した。「低い丘の農夫が、捕虜になった彼が荷車に乗せられて通り過ぎるのを見かけて、知らせにきたんだ。司令部に駆けつけよう」と、フランクが走りだした。
「いや、駆けないで行こう」と、ミルトンは言って、頼んだ。脚は彼を支えているのがやっとだった。
フランクは素直にまた彼の横に並んだ。「ぼくもひどいショックを受けたよ。ぼくは自分が溶けてなくなる気がした」
彼らはゆっくりと、いやいやながらみたいに、司令部めざして引き返した。
「罠に嵌まったんだ、なあ?」とフランクがささやいた。「軍服姿で武器を帯びて捕まるなんて。なにか言えよ、ミルトン!」
ミルトンが口を開かないので、フランクがまた話しだした。「欺されたんだ。彼の母親のことをぼくは考えたくないよ。濃霧の口に呑みこまれてしまったに違いない。なにひとつ起こらないにしては、今朝の濃霧はあんまり異常だった。でもこれはあとで思いつくことだ。可哀相なジョルジョ。あの農夫は、彼が縛りあげられて荷車で通るのを見たんだ。」
「ジョルジョだって、たしかなことなのか?」
「彼を見知っているといってた。それに、いないのは彼だけだ」
一人の農夫がひらけた野辺へ下ってゆくところだった。男はひどく滑りやすい近道をとって、丈の高い草を掴みながら徐々に下りてきた。
「あの男だ!」とフランクが言うなり、男に口笛を吹いて、ぱちんと指を鳴らした。
いやいや男は立ち止まり、砂利道にまた登ってきた。四十歳代の男で、白子に近く、胸まで泥の飛沫を撥ねあげていた。
「ジョルジョのことを話してくれ」と、ミルトンが彼に命じた。
「あんたらの隊長にもう全部話したよ」
「ぼくにもう一度話してくれ。どうして彼を見たんだ? 霧で見えなかったんじゃないのか?」
「あの下のおれらのとこじゃ、霧はこの上みたいにひどくはなかった。それにあの時分にはもうほとんど引いていた」
「おまえのいうのは何時だ?」
「十一時だ。おまえたちの仲間を荷車に縛りつけたアルバの縦隊が通り過ぎるのをおれが見たのは十一時少しまえだった」
「やつらは彼をトロフィーみたいに持ちかえったのだ」と、フランクが言った。
「やつらを見かけたのは偶然だった」と、男がまた話しだした。「おれは葦を剪りに出ていて、眼の下の道をやつらが通り過ぎるのを見たんだ。おれがやつらを見かけたのは偶然だった。音がしなかったからだ。やつらは水蛇みたいに下っていたから」
「ジョルジョだったのはたしかなことか?」と、ミルトンが尋ねた。
「彼のことはよく見かけて知っていた。うちの近所の家に食べて眠りに一度ならず来ていた」
「おまえはどこに住んでいる?」
「マブッコの橋のすぐ上手だ。おれの家は……」
ミルトンが男の家の叙述を遮った。「で、なぜおまえは丘の麓のチッチョの兵士たちに知らせに走らなかったんだ?」
「それはすでにパスカルが訊いた」と、フランクがため息をついた。
「じゃ、おまえさんはおれがおまえたちの司令官に答えたことを聞いたわけだ」と、農夫は言い返した。
「おれは女じゃない、おれも兵隊には征ったからな。おれはすぐさま自分に言ったんだ、おまえたちのなかであのときやつらを止められるのはチッチョだけだ、と。そこでおれは飛ぶように駆け下ったんだ。そしておれも生命がけだった。というのもおれがやつらの側面を追い越してゆくあいだに、やつらの後尾の兵はおれを見かければ兎みたいに撃ち殺せたのだから。だが、おれがチッチョの支隊に着いてみれば、チッチョはいなくて、いたのはコックと歩哨一人だけだった。それでもおれは彼らに知らせて、彼らは矢みたいに飛びだしていった。だから、おれは彼らが本隊を探しにいって、待ち伏せを用意するか、なにかするだろうとばかり思っていたのだ。ところがやつらは森のなかに隠れるためだけに走っていったのだった。縦隊が通り過ぎて、もうアルバの街道の遠くへ行ってしまってから、あの二人は舞い戻ってきて、おれに言ったものだ。《おれたち二人だけでなにができただろう?》と」
フランクが話をひきとった。「パスカルが言っていた。今日にも分隊を下へ遣ってブレン機関銃二挺のうち一挺を引き揚げさせる。ブレン機関銃一挺でもあの……の群れには十分すぎる」
「おれを行かせてくれ」と農夫が言った。「あまり遅れると女房が心配するし、身重なんだ」
「ほんとうにマンゴの旅団のジョルジョだったんだな?」とミルトンが念を押した。
「死みたいに確実なことさ。どれほど血塗れの顔をしていようとな」
「負傷していたのか?」
「打擲されていたな」
「で、……荷車の上でどんな様子だった?」
「こんなふうだ」と、男は言って、ジョルジョの姿勢を真似した。やつらは彼を荷車の縁に坐らせ、荷台の簀の子に差しこんだ棒杭に胴体を縛りつけて、ジョルジョが剣みたいにぴん立ちになるようにして垂れさせた両脚は荷車を曳く牛たちの尾と一緒にぶらぶらするようにしていた。」
「やつらは彼をトロフィーみたいに持ちかえった。」とフランクが重ねて言った。「彼がアルバへ入るときの光景を思ってもみろよ。今日と今夜のアルバの娘たちのことを思ってもみろよ」
「娘たちになんの関係がある?」と眼をぎょろつかせてミルトンがかっとなって言った。「なにもないか、それともごくわずかだ。きみも幻想を抱いている一人だ」
「ぼくが? 失礼、ぼくがなにに幻想を抱いているって?」
「きみにはわからないのか、あまりにも長く続きすぎているのが? 習慣みたいになっているのが、ぼくらが死んで、娘たちはぼくらが死ぬのを見ることが?」
「まだおれを行かせてくれないのか?」と農夫が尋ねた。
「待てよ。で、ジョルジョはどうしてた?」
「ええっ、どうしてればいいと言うのさ?じっとまえを見ていたよ」
「兵隊はまだ彼を殴りつけていたか?」
「いや、もう殴ってなかった」と、男が答えた。「彼を捕まえた直後に打擲したに違いない。だが、道すがらではもうなにもしなかった。やつらはきっと恐れていたに違いない。おまえたちがいまにもこの丘あの丘から現われやすまいか、と。さっきも言ったように、やつらは水蛇みたいに音も立てずに下っていた。だから、彼はそっとしておいたのだ。だが、危険地帯を抜けてしまえば、もう少し鬱憤晴らしに彼に飛びかかったかもしれない。それじゃ、おれはもう行っていいかな?」
ミルトンはとうに司令部めざして突進していた。フランクはその急な動きに意表をつかれて、彼のあとを追って走りながら、叫んだ。「いまになって、なぜ走るんだ?」
司令部入口はマンゴ守備隊の大部分によって塞がれていた。ミルトンはあの人垣を掻き分けて、自分といまは直ぐあとに続くフランクに道を開けた。すでに電話を握っていたパスカルのまわりにも別の人の輪ができていた。ミルトンはあの内側の人垣にも割りこんで最前列に出て、死人みたいに蒼い顔をしたシェリフと肘を突き合わせて並んだ。
パスカルが通話を待っているあいだに、フランクがささやいた。「師団じゅうになら捕虜の一人くらいはいることに首を賭けるぞ」
「おれのほうは、書きとめとけよ、白薔薇の花環だ」と、別の男が言った。
師団司令部が電話に出た。電話線の向こう端の相手は副官のパーンだった。用立てできる捕虜はいない、とすぐに答えた。パスカルにジョルジョの風采を尋ね、やがてパーンは彼のことを思い出したようだった。しかし捕虜はいなかった。パスカルが旅団のさまざまな司令官に当たってみれば。なるほど規則では、下級司令部で獲たあらゆる捕虜は即刻、師団司令部に移送すべしと定められていた。それでも良心の荷をおろすために、パスカルがレーオ、モーガン、ディアスに電話してみればいい。
「レーオには捕虜はいない」と、パスカルが受話器に言った。「ここに、トゥレイーゾ旅団の男が目のまえにいるが、レーオには捕虜はいないと合図している。モーガンとディアスに電話してみよう。とにかく、パーンよ、おまえのところにとりたての捕虜が届いたなら、削除しちまわずに、直ちに車でおれのところへ送ってくれ」
「早く、モーガンに電話しろよ」と、パスカルがまた受話器を取ったときにミルトンが言った。
「ディアスを呼んでみる」と、パスカルは素っ気なく答えた。
ミルトンはシェリフを横目で見た。いまは彼は灰色がかった顔色をしていた。だが、とミルトンは思った。ジョルジョの運命ゆえにではなくて、ただ濃霧のなかに何百となく散開していた敵兵ゆえの遡及的な恐怖のためにすぎない。彼シェリフは、盲の閲兵よろしく敵兵のなかを、落着き払って、なにも知らずに、迷い鳥の羽音だけに気を取られて通り抜けてきたのだ。
「かわいそうなジョルジョ」と、シェリフがぼそぼそと話した。「なんて豚な最後の夜を過ごしたのだろう。どんなにひどいありさまか知れたものじゃない。まだあのハシバミの実が胃につかえているに違いない」
「たぶん、彼にとってはなにもかもとっくに終わってしまったことだろう」と、ミルトンの背後で、ある男が言った。
「よさないか」と、パスカルが言った。そのとき電話が鳴り響いた。
ディアス本人だった。いや、彼には捕虜はいなかった。「わが蛇たちは」と彼が言った。「一ヵ月ほど銜えていない」金髪のジョルジョのことは実によく覚えていたし、残念なことであったけれど、捕虜はひとりもいないのだった。
小さな顎髭を生やしたパルチザンが、この男をミルトンは初めて見たが、やつらはアルバのどこで銃殺するのかとあたりに尋ねた。
フランクが答えた。「あちらこちらだ。いちばん多いのは墓地の塀際だ。だけど鉄道の土手ぞいでもやるし、環状道路の到る所でやっている」
「知っても胸が悪くなるだけだなあ」と、小さな顎髭の男が言った。
そして、また聞こえた。「おれには白薔薇を」
すでにモーガンが話していた。「捕虜か。いないなあ。そのジョルジョとは誰のことだった? 軍曹よ、なんてこった。三日まえなら一人いたんだが、師団に送ってやらねばならなかった。濡れたひよっこでな。それが第一級の道化師だとわかったんだ。大した才能だよ。われわれと過ごした一日中みなを大笑いさせてくれたものだ。パスカル、やつがトトーとマカーリオの真似をしたのを見せたかったよ。目に見えない打楽器全部を打ち鳴らしたところを見せたかったなあ。師団送りの際には、削除せずにおけと言ってやったんだが、その夜のうちに埋めてしまった。なんてこった、軍曹よ! そのジョルジョとは誰のことだった?」
「金髪の美男子だよ」と、パスカルが答えた。「取り立ての捕虜はな、モーガンよ、削除せずに、師団送りにもせずにおいとくれ。パーンには話を通してある。車でこちらに送ってくれ」
パスカルは受話器を置き、ミルトンが人垣を押し分けながら出口へと向かうのを見た。
「どこへ行くんだ?」
「ぼくはトゥレイーゾへ戻る」と、半ば振り返りながら答えた。
「おれたちと食事をしてけよ。いまごろトゥレイーゾに戻ってなにになる?」
「トゥレイーゾなら、もっと早くわかる」
「なにがだ?」
しかしミルトンはとうに外へ飛び出ていた。けれども外では別の人だかりに突きあたった。みなコブラのまわりにびっしりと輪になっていた。両袖を逞しい二の腕まで念入りにたくしあげたコブラが、いまは想像上の盥のうえに屈みこんでいた。「見てろよ」と、言っていた。「みんな
見てろよ、もしもやつらがジョルジョを殺したら、おれのすることを。おれの友だち、おれの戦友、おれの兄弟のジョルジョを殺したら。とっ捕まえた最初のやつを……おれはそいつの血のなかで両手を洗いたい。このように」そうして想像上の盥のうえに屈みこんで両手を浸してから念入りにぞっとする優しさで手を擦りあわせた。「このように。それに手だけじゃないぞ。腕もそいつの血で洗いたいんだ」そうしてさきほどの仕草を二の腕と二頭筋のうえでくり返した。
「このように。見てろよ、もしもやつらがおれの兄弟のジョルジョを殺したら」手や腕を洗うのと同じ優しさと明瞭さをこめて話していたが、最後の瞬間には甲高い叫び声となって破裂した。
「おれはやつらの血が欲しい! おれはやつらの血にこの脇の下まで漬かりたいいいいい!」
ミルトンはその場を発って村境の最初のアーチを過ぎてようやく立ち止まった。ベネヴェッロとロッディーノの方角を長いこと見つめていた。霧はどこもかしこも上がって、下のほうでは丘丘の黒ぐろとした正面に貼りついた数枚の切手となってしか霧は残っていなかった。雨はかぼそ
く規則的に降り続いていたが、少しも視界を妨げなかった。頭を別の方角に振り向けて、アルバの方角に深ぶかと視線を落とした。町の上の空はほかのどこよりもずっと昏く、はっきりと菫色を呈していて、はるかに激しく雨が降っていることを徴していた。捕虜となったジョルジョの上に、たぶんはや屍となったジョルジョの上に、土砂降りの雨が降っていた。フールヴィアの真実の上に土砂降りの雨が降っていた。その真実を永遠にぬぐい去りながら。《ぼくは真実を知ることは決してできないだろう。ぼくはそれを知らずに逝くことだろう》
背後に走る音が聞こえ、男はまっしぐらに彼めざして駆けてきた。それよりも早く発とうとしたが、結局そうはしなかった。フランクが彼に追いついた。
「どこへ行くんだ?」とフランクはあえいだ。「逃げだすつもりじゃあるまいな? ここにぼくをひとりで置いてゆくなよ。今日はきっとジョルジョの父親が登って来て、息子と交換できる捕虜がいるかどうか知りたがることだろう。もしきみが逃げだせば、ぼくひとりが会って、話さねばならなくなる。だけど、ぼくはとてもその気にはなれない。そうした役目はすでに一度、トムの兄弟たちとで、ぼくはやっているんだ。だから、またやりたくはない、少なくともひとりでは。きみ、お願いだから、ぼくとここにいてくれよ」
ミルトンは彼にベネヴェッロとロッディーノのずんぐりした丘の頂を指し示した。「ぼくはあの方面に行くよ。ジョルジョの父親が来て、ぼくのことも尋ねたなら……」
「きみのことを尋ねないわけがないじゃないか」
「きみが彼に言うんだ、ぼくはジョルジョのために交換捕虜を探しに出かけている、と」
「ほんとうにそう言っていいのか?」
「彼にそういって誓ってもかまわないぞ」
「で、どこに探しにゆくんだ?」
貨幣みたいに平たい雨粒の、重たい雨が疎らに降ってきた。
「ぼくはオンブレのところへ行く」と、ミルトンが答えた。
「赤のところへ行くのか?」
「ぼくら青に捕虜がいないからには」
「だが、彼らは、捕虜がいたとしても、きみには決してくれないぞ」
「くれるとも……貸してくれるさ」
「貸してだってくれないさ。遺恨もあれば、政治委員に吹きこまれてのぼせた頭もあるし、ぼくらは受け取って彼らは無しのパラシュート投下のせいで身体じゅうに溜まったやっかみの胆汁だってあるし……」
「オンブレとぼくは友だちなのだ」と、ミルトンが言った。「特別の友だちだ。きみは知っているじゃないか。ぼくは彼に個人的な好意として頼んでみるよ」
フランクは首を横に振った。「彼らに捕虜がいるとして、きみに与えるとしても……彼らに捕虜はいない。なぜなら彼らの手に落ちた捕虜は捕虜としている時間もなしに……しかし捕虜がいたとして、きみにくれたとして、きみはどうする? ここへ真っ直ぐ連れてくるのか?」
「いや、いや」と、手を捩りながら、ミルトンが言った。「時間がかかりすぎる。ぼくは最初に出会った司祭を遣って、形式抜きでアルバの丘の上で交換するつもりだ。場合によっては、ニックの兵二人に立ち会ってもらうさ」
雨粒が彼らの頭にあたって砕けて軍服を濡らしていたが、並木道の葉叢の最も乾いた葉音によって強められて初めて、二人はそのことに気がついた。
「おまけに本降りになってきた」と、フランクが言った。
「時間が惜しい」と、ミルトンが言って、下の細道の縁づたいに大股に下りはじめた。彼の踵が泥濘のなかに深くて長い艶のある傷痕を開いていった。
「ミルトン!」と、フランクが呼んだ。「きっと空手で戻ってくるとは思うけれども、もしうまく捕虜を手に入れて交換に行くときには、ぼくらのアルバの丘の上に着いたなら、百ほどの目を皿みたいにして、四方八方に気を配るんだぞ。ごまかしに用心しろ、佯撃に用心しろ。わかったか? 知ってるだろうが、こういう交換はときには地獄の罠なんだぞ」
7
雨はごくこまやかで、肌のうえにも感じとれないくらいだったが、その雨の下で道の泥濘は目のとどくかぎり醗酵しつづけていた。四時に近かった。道は急坂にさしかかっていた。ミルトンはすでにオンブレの旅団の観測、監視域の半径内に入ったに違いなかった。それゆえ目を見開き、耳を欹てながら、急斜面を登った。一歩ごとにいつ頬を掠めて弾が飛んでくるか知れなかった。赤たちは軍服を疑るし、英軍の軍服をドイツ軍と見間違える厄介な傾向があった。だから目を瞠りながら斜面や大灌木地帯を進みゆき、ことに丘の中腹のぶどう畑の農具小屋には注意を払った。
とあるカーブを抜けると、彼はぴたっと立ち止まった。目のまえに無傷の小橋が現われたのだ。
《無傷だ。無傷の橋は地雷橋》谷川の流れと、小橋の上流と下流の膿んだ、黒ぐろとした自然に目を凝らした。上流では谷の両岸が迫りすぎていた。そこで下流を見てみることにした。牧場に下ってそれから岸に出た。が、最後の瞬間に、思い止まった。《信用できない。罠の臭いがする。踏み分け径はずっと下流にある。村人たちがあの下のほうを通るのなら、それなりの理由があるはずだ》降りてあの下手のほうを渡った。間に渡る岩がいくつもあったとはいえ、ふくら脛までずぶ濡れになることは避けられなかった。栗色の濁流は凍るように冷たかった。
道はふたたび彼の真上を通っていたが、そこに到る斜面は高く、険しく、泥で膨れあがって、てかてかしていた。泥が草や突起を埋めつくして、小径を消してしまっていた。極度に集中して登ったけれども、四歩目のあとで滑って、平地までまた落ちてしまったうえに、横腹がすっかり泥にまみれてしまった。平手で泥をこそげ落としてから、再度試みた。勾配の中程でよろめいて、とっかかりを手探りで探したがむだだった。ふたたび、こんどは転げ落ちてしまった。すんでのところで叫んでしまうところだったけれど、がちんとあたりに聞こえる音をたてながら歯をあわせて口を閉じた。すでに泥を着て泥を穿いていたので、三度目には肘と膝を突きたてながら彼は登った。路肩にやっと登りおえるや、カービン銃から泥を落としにかかったけれども、そのとき上手で小さな地滑りみたいな音がした。眼差しを上に伸ばしてみて、道の左手の石灰質の断崖のクレバスから歩哨が踊りでてくるのが見えた。村は断崖のすぐ裏側にあるに違いなかった。なぜなら、空には数知れない煙突の白い煙が、素早く逃げてゆくのが見えたから。
歩哨は道の真ん中に仁王立ちになった。
「銃を下ろせよ、ガリバルディ!」と、ミルトンが大声で言った。「ぼくはバドッリオ派のパルチザンだ。おまえの司令官オンブレと話しにきた」
感知できないほどわずかに銃口を下げて、歩哨が彼に進めと合図した。農夫とスキーヤーの間の身なりに、目出し帽の真ん中に鮮やかな赤い星を縫いつけた歩哨は、まだ幼い少年とさして変わらなかった。
「おまえはイギリス煙草を持っているに違いない」と、開口一番にその少年兵が言った。
「ああ、だけどマナもそろそろ底をついた」と、ミルトンはクレイヴンAの箱を軽く振って彼に進呈した。
「半分ずつにしよう」と、少年は言いながら、口に銜えた。「どんな味だい?」
「かなりなるいかな。さて、連れてってくれるか?」
彼らは登ってゆき、ミルトンは一歩ごとに軍服から泥を落とした。
「そいつはアメリカ製カービン銃だね、え?何口径?」
「八」
「ならば、そいつの弾はステン銃には合わないね。ポケットのなかに何発かステン銃の弾が転がってないかしら」
「いや、それにおまえはどうするのさ? ステン銃を持ってないのに」
「手に入れるさ。何発かステン銃の弾がないなんてありえる? おまえたちは、パラシュート投下があるってのに」
「しかしな、見ろよ、ぼくはカービン銃を持っているんで、ステン銃ではないんだ」
「おいらなら」と、少年がまだ言った。「おまえみたいに選べたなら、ステン銃を取るな。そいつは連射できないだろ、だけどおいらの気に入っているのは連射なのさ」
下方の斜面に雑然と建てられた一軒家の破れ屋根が路面の高さに現われてきた。歩哨はそちらの方角に道を折れた。
「しかしあんなのは司令部じゃありえないぞ」とミルトンが指摘した。「あれはただの哨所じゃないか」
少年は答えずに急坂を下りにかかった。
「ぼくは司令部に行きたいのだ」と、ミルトンが重ねて言った。「ぼくはオンブレの友だちだとおまえに言ったはずだぞ」
しかし少年は泥濘の沸きたつ麦打ち場にとうに飛び下りていた。やっと振りむくと言った。
「ここから通るんだよ。誰でもここを通せと、おいらはネーメガの命令を受けているんだ」
麦打ち場には五、六人のパルチザンがいて、立っている者もしゃがんでいる者も、みな壁にもたれて、泥濘と雨だれの境界にいた。片側に鶏籠で塞がった、半ば崩れ落ちたポーチがあって、昏い大気は、湿気で高められた発散のせいで、雌鳥の糞の悪臭に満ちていた。
あの男たちのひとりが視線をあげて予測しがたい裏声で言った。「あら、バドッリオ派の兵士さん。旦那衆のお出ましだ。ごらんよ、ごらんよ、なんて凄い銃に、装備なんだろう」
「ごらんよ、ぼくがどんなに泥まみれなのかも」と、ミルトンは澄まして答えた。
「見ろ、あれが有名なアメリカ製カービン銃だ」と、二人目が言った。
そして三人目は、感心のあまり妬みも忘れて。「それにあれがコルト拳銃だ。コルト拳銃の写真を撮れよ。ピストルなんてもんじゃない、小型砲だよ。オンブレのラマよりもでかいな。トムソン銃と同じ弾を撃てるってのはほんとかい?」
歩哨が彼の先に立って、汚れたベンチ二つとパンの捏ね箱の残骸以外にはまるで裸の大部屋へ入った。暗くてよく見えなかったので、石油ランプをいじって少年が灯をともした。少ししか照らさないのに真っ黒な脂ぎった煙が出て、くしゃみが出た。
「ネーメガはすぐ来るよ」と、少年が言って、そのネーメガとは何者なのかとミルトンが尋ねる間もなくまた外へ出た。
少年は断崖のその持ち場へは戻らずに、あの男たちと麦打ち場に止まった。鎖で繋がれた犬に彼らの一人が狙いを定めるふりをしていたけれど、先程通りかかったときにミルトンはその犬に気がつかなかった。
「なんの用だ?」
ミルトンはくるりと振りむいた。ネーメガは三十歳は確実にこえた年寄りだった。両眼と口が銃眼の、トーチカ正面みたいな顔つきだった。防水ジャケツを着ていたが、うち続く長雨の下でそれはボール紙の箱みたいに四角張ってしまっていた。
「オンブレ司令官と話したい」
「なにについて?」
「それは彼に言う」
「で、オンブレと話したいという、そのおまえは何者だ?」
「ぼくはバドッリオ派第二師団のミルトンだ。マンゴの旅団だ」パスカルの旅団の所属だと彼は言っておいた。そちらのほうがレーオの旅団よりも規模が大きく名も通っていたからだ。
ネーメガの両眼は実際に目に見えないくらい小さかった。
「おまえは将校か?」と、ネーメガが彼に訊いた。
「ぼくは将校ではないが、将校としての任務を帯びている。で、おまえは誰だ? おまえは将校か、政治委員か、それとも副委員か?」
「知ってるか、われわれはおまえたちバドッリオ派に恨みを抱いていることを?」
ミルトンは憂鬱な関心を覚えて彼を凝視した。「ふん、なぜだ?」
「おまえたちはわれわれから脱走したある男を受け入れた。ウォルターとかいう男だ」
「そんなことか? そいつはぼくらの原則のひとつだ。ぼくらのところには自由に入り、自由に出てゆくんだ。むろん、黒の旅団の手に落ちないかぎりは、だが」
「われわれがおまえたちの哨所に赴いてその男を引き渡すように求めたのに、おまえたちは彼を引き渡さなかったばかりか、われわれを回れ右させて失せさせた。つまり、われわれをブレン機関銃で威嚇したのだ」
「どこでのことだ?」と、ミルトンはため息をついた。
「コッサーノでだ」
「ぼくらはマンゴの部隊だ。しかし、思うにぼくらでも同じように行動したことだろう。おまえたちとはもう関わりたくない男を引き戻そうとしたおまえたちが間違えていた」
「よく話を聞けよ」と、ネーメガが指を鳴らしながら言った。「われわれはあの男には関心がない。われわれに関心があるのは武器だ。やつは小銃を携えて脱走したが、その銃は旅団のもので、彼のものではない。その小銃さえおまえたちは返そうとしなかった。しかもおまえたちにはパラシュート投下があって、ごっそり武器、弾薬があって増えて困って、埋めておかねばならぬというのにな。おまえたちの背中の影に隠れて、ウォルターの言っていたことは嘘だ。つまり小銃が彼のもので、彼が旅団に持ちこんだというのは。武器は旅団のものだった。ウォルターみたいな分子は一ダースでも脱走して構わないが、一挺の銃でもわれわれは失うわけにゆかない。ウォルターに会ったなら、決して道を間違えるな、われわれの管区は大きく迂回しろと言っておけ」
「言っておこう。どの男か聞いて、言っておくとしよう。いまはオンブレに会えるか?」
「おまえはオンブレを知っているのか? じかに、つまり、その名声ゆえにではなくて?」
「ぼくらはヴェルドゥーノの戦闘で一緒だった」
男は感銘を受けたように見えた。まるで過ちの現場を押さえられたかのように。そこでミルトンはわかった気がした。ヴェルドゥーノの時代には、ネーメガはまだ丘に登ってはいなかったのだ。
「ああ」と、男が息を洩らした。「だが、オンブレはいない」
「いないだと! きさまはあのウォルターとその哀れな小銃の話でごたくをさんざ並べておいて、いまになってオンブレはいないとぼくに言うのか? で、どこにいるんだ?」
「外だ」
「外のどこか? 遠くか?」
「川向こうだ」
「気が変になる。しかし、いったい川向こうになにをしに出かけたんだ?」
「いま言うところだ。ガソリンのためだ。ガソリンとして代用する溶剤のためだ」
「今夜は戻らないのか?」
「もうだいぶ経つから、今夜にはこちら岸に渡るだろう」
「ぼくは重大かつ緊急きわまる用件で来たのだ。おまえたちにファシスト軍の捕虜はいるか?」
「われわれに? われわれは捕虜を持ったためしがない。捕虜にしたとたんに、われわれは捕虜を失うからだ」
「ぼくらももうおまえたちよりやわではない」と、ミルトンが言った。「だからこそぼくらには捕虜がいないから、おまえたちに求めにきたのだ」
「これはずいぶんと耳新しい話だ」と、ネーメガが言った。「で、われわれが捕虜をおまえたちに贈らねばならないのか?」
「貸与だ。通常の貸与だ。せめて政治委員はいないのか?」
「われわれにはまだいないんだ。いまのところはモンフォールテの師団からときおりやって来るが」
ネーメガは石油ランプの焔を強くしに行って戻りしなに言った。「捕虜をどうするのだ? おまえたちの誰かと交換するのか? いつ捕まったんだ?」
「今朝だ」
「どこでだ?」
「アルバ側の、別の斜面でだ」
「どうして?」
「霧だ。ぼくらの方面は乳の海だった」
「おまえの兄弟か?」
「いや」
「それなら友だちか? わかるさ、おまえが泥濘を抜け出てここまでやって来てそんな交渉をもちかけるくらいだからな。しかしだ、捕虜を自前で調達できないのかな?」
「たしかに」と、ミルトンが答えた。「とうにぼくらの仲間がそのために動き回っている。だからこそぼくらはおまえたちに捕虜を借りても返せると踏んでいるのだ。だがな、九月の収穫月にぶどうを摘みに出かけるのとはわけがちがうんだ。何日間か、かかってしまうかもしれない。そしてその間に、たぶんまさしくわれわれがここで議論している間にも、ぼくの仲間はすでに壁際に立たされてしまったかもしれない」
ネーメガは静かにだが考えこむように、罵った。
「それではおまえたちに捕虜はいないんだな?」
「いない」
「ぼくは遅かれ早かれオンブレと再会するし、そのときには今日来たこの件を話すからな」
「おまえはなんとでも彼に話すがいいさ」と、ネーメガが素っ気なく答えた。「わたしは平気だ。おまえにわれわれには捕虜がいないと言ったが、それはほんとうのことだからな。だが、待つがいい。なぜわれわれに捕虜がいないのか、おまえに告げられる男に話をさせよう」
「むだなことだ……」と、ミルトンがまだ言いおえぬうちに、あの男は汚い家のなかに消えて、呼んでいた。パーコ、パーコ。
その名前を聞いて彼ははっとした。パーコ。彼の知っているあのパーコだったら。だがそんなことはありえない。きっと別人のパーコだ。それにしても、パーコという戦闘名をもつパルチザンは多くはないはずだった。
嫌気のさした尻下りの声で、谷間に向かって、ネーメガがパーコと呼ぶのがまた聞こえた。
初夏に、ネイーヴェの守備隊で、以前はバドッリオ派の兵士だったパーコのことを、ミルトンは考えていた。やがて徴発に関してその司令官のピエッレと口論して姿を消してしまった。そして彼は〈赤い星〉に移ったのだと考えた者もたしかにいた。《しかしあのパーコであろうはずがない》と、ミルトンは結論した。
ところがまさしく彼だった。少しも変わらず、大きな図体で茫洋として、パン屋の小型シャベルみたいな手をして、黄色い額には赤みをおびた前髪がかかっていた。中へ入るなりすぐにミルトンとわかった。彼はいつも人づきあいのよいやつだったし、ミルトンも彼には胸襟を開いたものだった。
「ミルトン、老いた蛇よ、おまえはネイーヴェでのことを覚えているか?」
「むろんさ。だがそれからおまえは立ち去った。ピエッレが原因だったのか?」
「とんでもない」と、パーコが答えた。「ピエッレのせいでおれが抜けたと誰もが思っているが、そいつはほんとうじゃあない。おれはネイーヴェが好かなかったんだよ」
「ぼくは嫌いじゃなかったが」
「おれは嫌いだったね。しまいには見るのも嫌になったし、眠ることもできなくなった。ただの迷信だったかもしれないけれど、あの村の位置がいけなかった。二つの集落に分かれていることも気に入らなければ、真ん中を鉄道が通っていることも気に入らなかった。しまいにはおれは時を告げるその鐘の音にも我慢ならなくなったんだ」
「で、いまは、ガリバルディの部隊のなかでおまえはどんな具合だ?」
「悪くはないよ。だが、重要なのは赤か、それとも青か、ということじゃなくて、重要なのはいまいるかぎりの黒を削除することさ」
「そのとおりだ」と、ミルトンが言った。「オンブレがファシストの捕虜を持っているかどうか、言ってくれるか?」
パーコは即座に首を横に振った。
「イギリス煙草を吸いなよ」と、箱を差しだしながら、ミルトンが言った。
「ああ、一本ためしてみたいね。おれがバドッリオ派にいたころにはまだ出回ってなかったからな」
「オンブレが外に出ているというのはほんとうか?」
「彼は川向こうにいる。甘いタバコだ。女が吸うやつだ」
「そうだ。じゃ、捕虜は一人もいないのか?」
「おまえの来るのが一日遅かったよ」と、パーコが小声で答えた。
ミルトンは絶望の笑みを漏らした。「そいつは言わないでくれたほうがよかったな、パーコよ。で、何者だったんだ?」
「ファシスト軍の伍長だ」
「そいつならぴったしだったのになあ」
「痩せた大男でな。ロンバルディーア人だったよ。捕虜を探しているのは交換のためか? おまえたちの誰が捕まったんだ?」
「ジョルジョだ」とミルトンが言った。「マンゴのぼくらの仲間だ。たぶん覚えているだろう。金髪のあの美青年だよ。エレガントな……」
「ううん、いたような、いたような。」
ミルトンは頭を俯けて、カービン銃を肩に負いなおした。
「まさに昨日」と、パーコが耳うちした、「まさに昨日、片づけてしまったんだ」
彼らは麦打ち場に降りた。あの五、六人の男たちはどこへとも知れずいなくなって、鎖に繋がれた犬だけが勢いづいて、絞め殺されたみたいに歯を剥きだして唸りながら、彼らに飛びかかろうとした。信じがたいくらいに暗くなって、気違い風がおのれの尾を噛むかのようにぐるぐる回って渦をなして吹きすさんでいた。
パーコは彼を道まで送りに出て、なおしばらくのあいだ一緒に歩いた。「青のなかではおまえとおれはうまのあう仲間だった」と、彼が言った。
道に出るとパーコが言った。「どんなふうにやつが死んだか、知りたいか?」
「いや、死んでしまったということを知っただけで充分だ」
「そいつは保証つきだ」
「おまえがやったのか?」
「いや。おれはやつをそこまで連れていっただけだ。ここからは見えない森のなかだ。そして銃殺が終わったら、おれはすぐその場を離れてしまった。やった者が埋める、正しいか?」
「正しい」
「ふた声、叫びやがった。なんて叫んだか、わかるかい? 統領万歳!だと」
「ごたいそうにな」と、ミルトンが言った。
雨は降っていなかったが、斜めに吹きつける風の下で、アカシアの木々が悪意をこめたみたいに、辛辣に、斜に雨だれを飛ばしてきた。ミルトンとパーコは音をたてて震えていた。石灰質の大絶壁が暗闇のなかにぼやけていた。
パーコはミルトンがもう反対しないと悟って話しだした。
「昨日の午前中ずうっとやつがおれに話したのは豚の統領のことばかりだった。やつの引渡しがおれの任務だった。十時ごろオンブレが一台のオートバイを遣ってベネヴェッロの主任司祭を連れてこさせた。この伍長が司祭を望んだからだ。ベネヴェッロの主任司祭についちゃ、昨日の朝は笑わされたよ。だからいまはおまえさんも笑わせてやるよ。サイドカーから降りるなりオンブレのところへ駆けていって言ったものだ。《いつもわたしにあんたの死刑囚の告解を受け持たせるのは、もうこれっきりにしていただきたい! どうか、この次の折りにはロッディーノの主任司祭を使ってください。彼のほうがわたしよりも若く、より近くに住んでいる事実を別にしても、少しは交替して、輪番にして欲しい。われらの主イエス・キリストにかけて!》
ミルトンは笑わなかったのにパーコが続けた。「それから、司祭とあの兵隊は地下室の階段半ばに引き籠もる。おれともう一人のジューリオという名の男は階段のてっぺんに待機して、おかしな真似をしたらやつを消してしまおうと構えている。だけど、やつらが話していたことについちゃ一言もわからなかった。十分経ってまた上がって来るが、最後の段のうえで司祭がやつに言う。《わたしはおまえを神にとりなしてやったが、生憎と、人間たちに対してはおまえになにもしてやれないのだ》。そしてそっと逃げだす。伍長はおれとジューリオと残る。震えてはいたが、さほどでもない。《まだなにを待つのだ?おれは覚悟できている》と、やつが言う。そこでおれが。《まだおまえの時ではない》《今日はしないということか?》《今日は今日だが、すぐにじゃない》するとやつは麦打ち場の真ん中にくずおれて、二掌尺の泥濘に坐りこみ、両手で頭を抱えこむ。おれはやつに言う。《もしおまえが手紙を書いて、司祭が発つまえに手渡したいのなら……》するとやつ。《でも誰に手紙を書く? おまえは知るまいが、おれは売女とこそ泥の子だ。それとも捨子の大統領に手紙を出せというのか?》するとジューリオ。《おお、だがこの共和国じゃおまえたち私生児がなんて多いんだ》すぐあとでジューリオが五分間の委員会に出なくてはと言って、おれに銃を預けて立ち去る。《あいつは糞をしに行ったんだ》と、伍長は彼を目で追いもせずに言う。《おまえもしたいか?》とおれが聞く。《かもな、だがしたってなんになる?》《それならタバコを吸いな》と、おれはやつに言って、箱をやつに差しだすのに、やつは断る。《おれにその習慣はない。おまえは信じないかもしれないけれど、おれには喫煙の習慣がないんだ》《でも、吸いな。やたら強くはないし、実に美味いぜ》《いや、おれはタバコを吸うのには慣れてないんだ。もしも吸ったりしたら、咳が止まらなくなってしまうだろう。ところがおれは叫びたいんだ。せめてこれだけは》《叫ぶ?いまか?》《いまではなくて、おれの時が来たときに》《好きなだけ叫ぶがいいさ》と、おれが言う。《おれは叫ぶんだ、統領万歳!》と、やつがおれにのたまわったよ。《まあ、おまえの好きなように叫ぶがいいさ》と、おれは言う。《ここでは誰も顰蹙しないからな。だが、心に留めておくといい。おまえは男を下げるぞ。おまえの統領は大の卑怯者だ》《ぷふぁっ!》とやつが言う。《統領は偉大だ。最も偉大な英雄だ。おまえら、おまえらこそ大の卑怯者だ。そしておれら、彼の兵隊のおれらも、大の卑怯者だ。もしもおれらが大の卑怯者でなかったら、もしもおれらが適当にやってばかしいなかったら、いまごろはおまえらをみな根絶やしにして、おまえらの最後の丘の上におれらの旗を突き立てていただろうに。だけど統領は、彼は最も偉大な英雄だから、おれは叫びながら死ぬんだ、統領万歳!》そこでおれ。《おまえにはもう言ったはずだ。おまえは好きなことを叫べるんだよ。だがな、重ねて言うが、おれの考えでは、おまえは男を下げるぞ。おれは確信しているんだ。おまえはな、ずっと男らしくおまえは死ぬだろうよ。やつにその時が来てやつが死ぬ、そのざまよりもな。しかもその日は近いだろう、この世に一つの正義があるならばな》そして彼。《で、おれはおまえに重ねて言うが、統領は最も偉大な英雄だ。不世出の英雄だ。だのにおれらイタリア人はみな、おまえらもおれらも、彼には相応しくないこぞってむかつく連中だったんだよ》で、おれ。《おまえのいまの身を思えば、おれはおまえと議論はしたくない。しかし、おまえの統領は大の卑怯者だぞ、不世出の卑怯者だ。おれはやつの顔のなかにそのことを読み取ったのだ。よおっく聞け。ついこの間、おれの手のなかにたまたま当時の、つまりおまえらにとって良き時代の、新聞が滑りこんだんだ。そこには半ページほども占めてやつの写真が載っていて、おれはじっくりと一時間そいつを仔細に眺めたのだ。そしてだ。おれはやつの顔のなかにそのことを読み取ったのだ。おれがこんなに言って聞かせるのはな、おまえが死の間際にあんな野郎の万歳を唱えておまえの男を下げさせたくないからだよ。おれには太陽みたいに明らかに、そのことがわかったよ。いまおまえが死ぬときであるように、やつに死ぬときが来たら、やつは男らしく死ぬことができないだろうよ。しかも女らしくだって死ねないだろうさ。豚らしく死ぬことだろう。おれにはそれがありありと見えるね。なぜなら、やつはとびっきりの卑怯者だからだ》《統領万歳!》と、やつは言うが、静かに、あいかわらず拳で頭を抱えこんだままだ。そこでおれは業を煮やしたりせずにやつに言う。《やつは途轍もない卑怯者だぞ。おまえらのなかで最も汚らしく死ぬ者でさえ、やつと比べたら、それでも神みたいに死ぬことだろう。なぜって、やつは途方もない卑怯者だからだ。イタリアが存在して以来、存在したイタリア人のなかで最悪の卑怯者だぞ。その卑怯さときたら、たとえイタリアが百万年続いたとしたって、匹敵する者がもう出ないくらいの無比の卑怯さなんだぞ》そしてやつ。《統領万歳!》と、あいかわらず小声で言った。やがてジューリオがやって来て、おれに言った。《おれたちに手早く片づけろだと》そこでおれは伍長に。《立て》《よしきた》と、やつが言う。《太陽ともおさらばだ》しかも言っておくが、指ほどもある雨つぶが降りそそいでいるときにだ」
「ここで別れよう」と、ミルトンが言った。「しかしうんざりだな。またも豚みたいに泥まみれにならねばならないのが」
「なぜ?」
「橋だ。地雷が埋まっているんだろう、違うか?」
「地雷なんか埋まっているものか。いったいどこから爆薬を調達するんだい? で、これからどうする?」
「ぼくの部隊へ戻るさ」
「あのおまえの友だちのためにはどうするつもりだ?」
ミルトンは躊躇い、やがてそれを告げた。
パーコは騒々しく息を吸いこんでから、言った。「言えよ、どの方面でやるんだ。アルバか、アスティか、それともカネッリか?」
「アスティは遠すぎる。アルバはぼくの故郷だし、しくじったら……故郷で失敗するという考えはいただけない。それにぼくに会いにぞろぞろついてくるだろう。もしそこで厄介なことになって、敵との接触を断つために撃たねばならなくなったら、やつらの手のなかには即座に仕返しのできるジョルジョがいる」
「カネッリしかないか」と、パーコが言った、「だが、おまえはおれよりもよく知っているだろうが、カネッリは黒のサン・マルコ旅団で溢れ返ってるぞ。おまえは最悪の水溜めに釣りにゆくことになる」
「背後を取られた人間はみな同じだよ」
8
夜の十時ごろ、ミルトンは、レーオとともにトゥレイーゾに再びいるどころか、そこから歩いて二時間の、サント・ステーファノとカネッリに面する大きな丘の、山裾に紛れた一軒家にいた。
闇のなかで彼はその家を手探りで見出したが、その様子なら諳んじていた。恐ろしい平手打ちを屋根に食らって、以来いちども修理されなかったかのように、低くひしゃげた家だった。谷間の凝灰岩と同じ灰色で、不順な気候のせいで腐った板囲いにほぼ覆われた縁の欠けた小窓に、こ
れも腐って石油缶の一部で繕われたバルコニー。片方の袖が崩れ落ちてその壊れ屑が山桜の幹のまわりに積み重ねられていた。あの家で唯一微笑ましいのは新たに修理された屋根の一部だが、それも鬼婆の髪に挿した一輪の赤いカーネーションみたいに、ぞっとさせた。
冷たい水の瓶に夕食の皿などを沈めている老婆に背を向けて、ミルトンはタバコを燻らしながら、玉蜀黍の穂軸の痩せた炎を見つめていた。すでに私服に着替えていて、不充分にしか覆われていないと身に感じていた。ことに上衣は夏服みたいに軽い気がして、そのひどく痩せてしまった身体が目立った。カービン銃をおのれの脇の、炉の隅に立てかけて、拳銃は腰掛のうえに置いていた。
眼を転じないで婆が彼に言った。「熱があるね。肩をすくめないの。熱は肩を竦められるのを嫌うからね。ほんのわずかな熱だけど、熱があるね」
一服ごとにミルトンは咳をするか、それとも咳を抑えようと痙攣的に身を捩るかした。
女がまた話しだした。「今回は不味いものを食べさせちゃったわね」
「とんでもない!」とミルトンが心から言った。「玉子を食べさせてくれた!」
「この穂軸の炎では暖まらないわ、ねえ? でも、薪は節約しているのよ。この冬はとても長いでしょうからね」
ミルトンが肩で頷いた。「この世界が世界になって以来、一番長い冬となるだろう。六ヵ月間の冬となるだろう」
「なぜ六ヵ月間も?」
「ぼくらが二度目の冬を越さねばならないとは、ぼくは思ってもみなかった。そのことを予測したと告げにくる者はいなかったし、そんなことをすれば、ぼくはそいつに面と向かって嘘つきとか、法螺吹きとか、浴びせたことだろう」彼は婆のほうに半ばふり向いて、つけ加えた。「去年の冬には、ぼくはとても素敵な仔羊の毛皮のコートを持っていたんだ。四月の半ばごろ、ぼくはそれを投げ捨ててしまった。とても素敵だったし、自分のものを捨てるときにはぼくはいつもいくらか胸が締めつけられるのにね。考えてもみてよ、戦争に加わるまえの、少年のころから、ぼくはタバコの吸殻を投げ捨てるたびに胸が締めつけられたんだ。ことに夜中に、暗闇に投げ捨てた吸殻にはね。考えてもみてよ、吸殻たちの宿命にぼくは胸が締めつけられたんだ。あの毛皮のコートは、ムラッツァーノ方面で、ぼくは生け垣の後ろに投げ捨てたんだ。あのころぼくは確信していた。また寒さが始まるまえに、ぼくらはファシズムを二度は楽にひっくり返せるだけの暇があるとね」
「で、ところが? ところがいつそいつは死ぬの? いつになったらあたしらはそいつが死-ん-だ、と言えるの?」
「五月だ」
「五月!?」
「だからこそぼくは言ったんだ。この冬は六ヵ月間続くだろうって」
「五月」と、女はおのれ自身に言った。「たしかに、それは恐ろしく遠い。でもせめて、真面目で教育あるあんたみたいな青年が言ったからには、それが終わりなんだ。可哀相に人びとはただ終わりだけを必要としている。今夜からはあたしは信じたい。五月からはあたしらの男たちは昔のように市や市場に出かけてゆくことができて、道端で死ぬことはない、と。青年男女は野外ダンスができて、若い女たちは喜んで妊娠し、あたしら年寄りは自分らの麦打ち場へ出ても武装したよそ者に出くわす恐れはない、と。そして五月には、美しい夕べに、あたしらは外出できて、村々のイルミネーションを眺めて心ゆくまで楽しみあえるのだ、と」
女が話し、平和の夏を描写しているあいだに、ミルトンの顔のうえに痛ましいしかめ面が描かれてそのまま止まった。フールヴィアなしでは彼にとっては夏ではない。その真夏に寒気を覚えるこの世にたった一人の男となってしまうことだろう。だがもしフールヴィアが、あの泳ぎ渡った荒れ狂う大海原の向こう岸で彼を待っていたなら……彼は絶対に知らねばならなかった。明日には、彼は絶対にあの素焼きの貯金箱を叩き割って、真実の本を買うための貨幣を引き出さねばならなかった。
彼はこうした考えに浸ることができた。なぜなら女は一分間ほど口を噤んで、屋根に打ち当たる激しい雨音に耳を澄ませていたから。
「あんたは思わない」と、やがて言った。「あたしの家の上には〈永遠の主〉はほかのどこよりも雨を激しく打ち当てるとは?」
ミルトンのまえに進み出て、大籠のなかの穂軸を残らず炎のなかにぶちまけると、干からびて、油に汚れ、歯は抜け、臭う女が、小さな骨の束みたいな両手を脇に当てて、彼のまえに立ったが、一方、ミルトンはかつての、若い、少女を女のなかに見出そうと絶望的に試みていた。
「で、あんたの仲間なのかい?」と彼女が尋ねた。「今朝、不幸に見舞われたあのかわいそうな青年は?」
「わからない」と、彼は答えながら、部屋の床に視線を捩った。
「見てとれるよ、あんたがそのことで苦しんでいることくらい。彼のためにあんたらはなんにもできなかったのかい?」
「なんにも。師団じゅうに交換のための捕虜が一人もいなかった」
婆は両腕を上げて揺り動かした。「ほら見な、捕虜は節約して、取っておかねばならないのさ、今朝みたいな場合のために、んん? けれども、捕虜をあんたらは持っていたんだよ。あたしは捕虜をひとり見たよ。数週間まえに、あたしの家のまえの小径を通りすぎたんだ。目隠しされて両手を縛りあげられて、それもフィルポが膝で小突きながらまえへ押しやっていた。あたしは麦打ち場から彼に叫んだんだ。少しは憐れみを持ちな、憐れみこそはあたしらみながいま必要としていることなのだからって。フィルポは激怒の固まりになって振りむいてあたしを鬼婆と罵って、すぐにあたしが身を隠さなかったら撃たれてしまうところだった。フィルポ、あの子になら、あたしは百回も食べさせて眠らせてやったことだろうに。わかった? 捕虜たちは節約せねばならないんだよ」
ミルトンは首を横に振った。「この戦争はこういうふうにしかやりようがないんだ。それにぼくらが戦争に命じているのではなくて、戦争こそがぼくらに命じているのだ」
「そうかもしれない」と、彼女が言った、「でもそういう間にもあの下のほうのアルバでは、アルバがいまは貶められて呪われたあの土地では、彼をもう殺してしまったかもしれない。あたしらが兎を殺すみたいに、彼は殺されてしまったかもしれない」
「わからない、まだではないかと思う。ベネヴェッロからの帰りがてらに、モンテマリーノの道すがらに、ぼくはコーモの守備隊のオットに出会ったんだ。オットは知っている?」
「オットも知っているよ。彼には食べ物と寝床を一度ならず与えているからね」
「オットはそのことについてまだなにも知らなかった。彼はアルバに一番近い守備隊の男だ。すでに銃殺されてしまったのなら、オットはとうにそのことを知っているはずだった」
「それなら明日までは心配はないのね?」
「そうとは言い切れない。あの下のほうで銃殺されたぼくらの最後の男は、夜中の二時に銃殺されているんだ」
婆は両手を頭上に挙げたのに頭には置かなかった。
「あたしの思い違いでなければ、彼もあんたと同じアルバの出だったね?」
「ええ」
「友だちだったの?」
「ぼくらは一緒に生まれたんだ」
「で、あんたは?」
「ぼくが、なに?」とミルトンはかっとなって言った。「ぼくに……なにができる?」
「あたしが言いたかったのは、それが彼ではなくてあんただったということも充分にありえたということよ」
「おお、たしかに」
「そのことを考える?」
「ええ」
「それなのに……?」
「いえ。かえって。それだからこそ、さっきよりも始末が悪い」
「でも、あんたの母親はまだ元気なんでしょう?」
「ええ」
「なのに母親のことは考えないの?」
「いえ。考えるけど、いつもあとで」
「なにのあとで?」
「危険が去ったあとで。危険のまえや最中には決して考えない」
婆はため息をついて、微笑みに似た、幸福なくらいの小さな安堵の笑みを漏らした。
「ずいぶんとあたしは絶望しきったものだった」と、彼女が言った。「ずいぶんとあたしは怒り狂ったものだった。だから、すんでのことで精神病院へ送りこまれるところだった……」
「いったい、なんの話を?」
「あたしの二人の息子の話だよ」と、答えながら、彼女は笑みの輪を顔に広げた。「一九三二年にチフスで死んでしまったあたしの息子たちの話さ。一人は二十一歳で、もう一人は二十歳だった。ずいぶんとあたしは絶望しきって、ずいぶんとあたしは乱心したものだから、あたしをほんとに愛してくれていた人たちまであたしを入院させようとしたものさね。でもあたしはいまは満足している。いまは、時の流れに苦しみは去って、あたしは満足しているし、もう落着き払っている。おお、あたしの可哀相な二人の息子たちはなんて幸せなのだろう。いまは地下でなんて幸せなのだろう、人間たちに脅かされることなく……」
ミルトンが片手を上げて、静かにと彼女に命じた。コルト拳銃を握って戸口を狙った。「あんたの犬が」と、婆にささやいた。「怪訝な動きをしている」
外で犬が吠えずに歯を剥きだして唸っていた。紛らわしい雨音をとおしてもその唸り声はよく聞こえた。ミルトンは腰掛から半ば腰を浮かせて、あいかわらず拳銃を戸口に構えていた。
「構わないで」と、婆がふだんよりも高い声で言った。「あたしはこの獣のことはよおっく知っている。こんなふうに唸るのは危険が迫っているからではなくて自分自身に腹を立てているからなの。耐え忍ぶということのできない犬なのよ。一度も堪え忍べたことはないわね。ある朝、麦打ち場に出てみれば、この犬がじぶんの足を使って縊れていたとしても、あたしは肝を潰したりはしないでしょうよ」
犬はなおも怒っていた。ミルトンはもうしばらく耳をそばだててから、拳銃を置いてまた腰を降ろした。婆は台所の遠い隅に戻っていた。
とある瞬間に妙な顔をしてミルトンのほうを振り返り、なんと言ったのかと彼に尋ねた。
「ぼくはなにも言っていない」
「あんたはたしかになにか言ったわ」
「そうは思えないけれど」
「あたしは年寄りで、耳のよさで二十歳の若者と張り合えるはずもないけれど、それでもあんたは、なんとかの四人と言ったわ。たぶん、あの四人のうち一人と言ったのではないかしら」
「そうかもしれない、でもぼくはそのことに気がつかなかった」
「まだ一分も経ってないまえのことよ。あんたは四人と関わるなにかを考えていたの?」
「ぼくは覚えていない。ここではもう誰も正常ではない。ただ雨だけがいまだに正常なのだ」
実際には彼は激しく《あの四人のうち一人》と考えていたから、きっとつい口に出してしまったのだろう。そして彼はそのことを考えつづけて、その間にも脳からはあの日の朝、ヴェルドゥーノの居酒屋を満たしていた茹でた牝牛の肺臓のひどい臭いが鼻へ下ってくるのだった。
あれは青と赤が組んで一緒に戦った始めての折だった。ヴェルドゥーノの守備隊はバドッリオ派で、すぐ隣の斜面はフランス人ヴィクトール指揮下の赤の旅団が占領していた。アルバの連隊の一個大隊がすでに谷底に現れていた。歩兵と騎馬隊だったのだが、騎馬隊は最後の瞬間になって突如現れた。歩兵は浅はかにも漫然と前進してきた。前進拠点もなく、側面掩護もなく、なにもなかった。とっくに広場に到着していたヴィクトールは、そうした様子を長いこと双眼鏡で観察してから言った。「近接行動中のやつらを撃つのは止めよう。村は無防備で平和そのものだと見せかけよう。そしてやつらを通りや広場で、銃口を突きつけて、肉薄して直撃で歓待してやろう。やつらは罠に嵌まるまで気がつかないことだろう。あいつらは精神薄弱か、それとも酔っ払いか、きみらは見ないのか?」議論をしに居酒屋に引きこもったが、茹でた牝牛の肺臓のむかつく臭いがあたりに漂っていた。バドッリオ派の指揮官エドはヴィクトールの作戦に反対だった。なぜなら、あとで村が恐ろしい報復を受けるだろうから。整然と村の外で野戦を行うほうが、と彼は言った、断然よろしい。そして結果がどうであれ、村は勝敗の影響を、理に叶って、免れねばならない。「こいつは典型的に、ぞっとするばかりに青だなあ」と、当時はただの支隊長だったオンブレがミルトンにささやいた。ミルトンと他に数人の青がヴィクトールの作戦を支持したが、エドはその正規路線をいっかな変えなかった。彼は正規将校の頭で固まっていたし、とりわけ最終的な勝利が確実であるならば、あいだにある大小の戦闘をパルチザンは一貫して敗北してもかまわないという考えの持主だった。すると、半ばフランス語、半ばイタリア語で、ヴィクトールが言った。「ヴェルドゥーノはきみらの守備隊駐屯地だが、ぼくはいまその中にいるし、ぼくは撤退しない。きみらはどうぞ外から駐屯地を守りたまえ、ぼくはそれを中から守る。だから、ヴェルドゥーノはどのみち被害を被ることだろう。なぜなら、ぼくの部隊だけでは、ぼくはやつらを遠くに止めておくことはできないだろうから」この言葉にはさすがのエドも思い知って、折れた。
やつらを村なかで迎え撃つこと、それまではいささかも気配を気取られてはならない、と彼らは合意した。ミルトンは広場の胸壁の後ろに待ち伏せした。すると、彼の傍らにしゃがみにまさしくオンブレがやって来た。彼らは一緒にファシスト軍が攀じ登ってくるのを眺めていた。一部は道路を登ってきたが、他は畑や牧場を突っ切ってきた。後者のほうが苦労して、しばしば滑り落ちていた。土は一週間足らずまえに積雪が消えたばかりだった。だから将校さえいなかったなら、みな羊の群れよろしく道路を登ってきたことだろう。いまではとても近くまで来ていたし、大気は澄みきっていたので、ミルトンはその良い眼でやつらの顔つきや、髯と口髭を生やした者と生やしてない者、自動銃を持つ者と小銃を持つ者を、よく見て取った。それから振り返って村なかの全体の配置を眺めて、村の計量所脇にヴィクトールとその本隊がサンテティエンヌ機関銃を据えて待ち伏せているのを見た。反対側を眺めて、彼の青たちがアメリカ製重機関銃を据えているのを見た。なおも数瞬、胸壁の後ろに止まってから、彼らは這って後退し、ミルトンは村役場のアーケード下の仲間たちと合流した。彼オンブレは仲間のところへは戻らずに、できるだけ孤立して、塩タバコ専売店の角の後ろに身を隠した。最初に現れた敵兵は──短く刈りこんだ顎鬚の、大きな図体の軍曹で──まさに専売店の正面に姿を現した。オンブレはわずかに身体を出して、その角からやつを連射した。胴体ではなくて頭を狙ったから、あの軍曹の鉄兜と頭蓋半分が飛び散るのが見えた。
オンブレの連射が総員撃ての合図となった。ファシスト軍は数発しか撃たなかった。茫然自失のあまり、もう態勢を立て直せなかった。最大の殺戮はヴィクトールのサンテティエンヌ機関銃が果たしていた。あとで、計量所まえの通りには十八体の死体が伸びていたが、いずれも二列に鉛弾を浴びせられていた。専売店の手前で通りは砂利道となって下りにかかるけれども、そこを血がぶどう酒みたいに小川となって流れ、脳味噌の切れ端がそのうえに浮かんでいた。ミルトンはいま思い出したが、ジョルジョ・クレリチは吐いたあげくに気絶してしまって、まるで重傷を負った兵みたいに世話の焼けたことだった。
もう射撃音は聞こえず、ただ叫び声だった。まだ生きているファシスト兵士が叫び、人びとが家並のなかで叫んでいた。生命からがらの兵隊が通りから戸締りを蹴破って家のなかに雪崩れこみ、寝台の下、パンの捏ね箱のなか、果ては老婆のスカートのなかや、厩舎の飼葉の下や家畜のあいだに隠れた。ヴィクトールが脇道の路地を馬みたいに駆け抜けながら《前へ! 大隊、前へ!》と叫んでいるのが聞こえた。
とある瞬間にミルトンはおのれ一人なのを見出した。どうしたわけか、兵隊の死骸は別にして、不意にまったく一人っきりになってしまったのだ。あの半ばの沈黙とあの全き人けの無さのなかで、彼は震えた。やがて計算された足取りが、彼のほうに聞こえて、彼は水盤の後ろに待ち伏せして、銃口を向けた。しかしそれはオンブレだった。友として、兄弟として、彼らは互いに出会った。そのうちにまた叫び声と銃声が聞こえたけれども、それは彼らの勝利を祝う騒ぎだった。彼らは教会の近くにいて、爪先立って逃げ隠れる者たちの足音を彼は聞きつけたように思った。おまえも聞いたかと目顔で尋ねるオンブレにミルトンは顎でああと合図した。「教会のなかだ」と、オンブレが囁いて、彼らはあらゆる用心を重ねて中へ入った。なかは陰があって涼しかった。洗礼堂のなかを掻き回して探すことから始めて、ついで最初の懺悔堂。吐息ひとつ聞こえなかった。オンブレは内陣を横目で見たが、やがてその考えを追い払って、腰掛を一列ずつ捜索しはじめた。こうして、矢筈模様に縫いながら、大祭壇へと近づいていった。さらに近づくと、祭壇の裏手から、両手を上げた兵士がいきなり現れて、「おれたちはここの後ろにいる」と、少女みたいな声で言った。男は恐怖に竦みあがっていて、降伏したことでむしろ安堵していた。オンブレがわずかに笑みを浮かべながら、「出てこい、何人いるんだ」と、悪戯の現場を押さえた年長者のゆるす口ぶりで、静かに、優しく言った。するとあの四人が祭壇の後ろから手を高く上げて出てきて、オンブレとミルトンがあのように落着いて、優越していて、蹴りもしなければ殴りもせず罵りさえしないのを見て、ほっとしたのだった。
彼らは教会から出た。太陽は倍ほどに熱さと輝きを増したかに見えた。四人の捕虜たちは絶えず瞬きをくり返し、オンブレの赤い星からミルトンの青いスカーフへと眼を転ずるのだった。武器はよほどまえに投げ捨ててしまったに違いなかった。
ミルトンは彼らの本隊がすでに村外に出て尾根筋に向かっているのを見て、急いで同じようにするよう、オンブレに言った。彼らは家並を外れて、頂から四分の三のところで、丘を斜めに突っ切ろうとした。丘はさほど高くはなかったけれども、上部がかなり膨らんでいて木立も生け垣もなかった。
突然、ミルトンは、彼らの前方三百メートルをゆく本隊末尾の動きに気がついた。にわかの非常合図と絶望的なダッシュと、なにもかも彼を動顛させる動きだった。その直後には、たくさんの軍馬のギャロップが彼の耳を痛撃した。本隊は混乱したが、ヴィクトールが咄嗟のうちに彼らを掌握して最善の行動に出た。全員に尾根に取りつき、谷間に飛びこめと命じた。男たちにとっては一種の滑り台だったけれど、馬にとっては断崖と変わらなかった。崖っ縁に出て、身を躍らせ、下へ転げ落ちる、こうして本隊は無事だったといえる。しかし、ミルトンとオンブレは突撃に曝された。彼らはひどく後方にいて、尾根まではまだ二百歩もあった。ただ飛ぶように走れば助かるかもしれなかったが、彼らが飛ぶように走ったところで、状況を悟ったあの四人が飛ぶように走るわけはなかった。「走れ!」とオンブレが命令した。「畜生みたいに走れ!」だが、あいつらは女みたいに走った。ミルトンが下方に視線を放って、先頭の騎馬が坂に差しかかって、どの馬の横腹からもストーブみたいに蒸気が昇っているのを見た。捕虜たちはいくらかばらばらになって、最も谷側の者はたぶん先頭の騎馬から百メートル足らずのところにいて騎兵たちに合図を送ろうとしていた。騎兵たちはまだ撃ってはこなかった。距離のためもあるが、ギャロップの上下動のなかで彼らの仲間を撃ってしまう虞れがあったからだ。彼らの仲間は灰緑色の軍服でそれと知れたし、オンブレとミルトンは雑多な色の服装をしていた。
「どうしようか?」とオンブレがミルトンに叫んだ。「おまえがやれ!」けれども二人とも髪の毛を針みたいに逆立てていた。騎馬隊はあと八十歩までに迫り、斜めにギャロップしていた。そこでオンブレがあの四人に列を詰め、集まれと権威をこめて叫んだのでたちまち彼らは従って花
束みたいになったところで、オンブレは彼らのなかに弾倉が空になるまで全弾を撃ちこんだ。彼らは一束になって転げ落ち、やがて各人各様のはずみがついた死体となって転がり落ちてゆき、下方の騎馬隊に会いに行った。そして馬上の兵たちの恐ろしい叫び声が聞こえてきた。あの身の毛もよだつ叫び声に、やっとミルトンはわれに返り、ロケット弾みたいにダッシュした。それまでオンブレの所業が彼をその場に凍りつかせていたのだった。騎馬隊は撃ってはきたが、五十歩と離れていなかったにしろ、彼ら二人に当たったらまぐれだったろう。彼らは同時に尾根にたどり着き、同時に宙に身を躍らせた。谷底について羊歯の茂みから彼らが断崖の縁を見上げたとき、馬たちはまだそこに顔を覗かせてはいなかった。
ミルトンはそこいらじゅうに痛みの走る胸をマッサージしながら、立ち上がった。
「なぜここで眠ってゆかないの?」と婆が言った。「あたしはあんたを自分の屋根の下に置いたからって、ちっとも怖かないよ。いま出ていかれたら、虚ろな夜になる気がするし、夜明けだって空しく感じてしまうことだろう」
彼は拳銃をサックに収めて、上衣の下にガンベルトを巻きつけて止金を締めようとしていた。
「ありがとう。だけど、今夜のうちに丘を越えたいんだ。目が覚めたら丘越えってのはいただけない」
壁と闇をとおして非常な高みから降る雨を見ることができた。雨は、そのマストドン的な乳房の丘とともに家の上に不動のままうねっていた。
婆が重ねて言った。「明日の朝、丘を越えるために、あんたの好きな時刻に起こしてあげられるよ。あたしには迷惑なものかね。あたしはもうほとんど寝ないのさ。横たわって、目を瞠って、無についてか、それとも死についてか、考えるきりでね」
彼はすべて整ったか触れてみた。装弾子二つに、ガンベルトの革袋中のばら弾十発。「いえ」とやがて言った。「ぼくは丘の頂で眠りたい。目が覚めたらあとは下るだけというふうにね」
「もうどこで泊まるか、わかっているの?」
「ちょうど崖下に乾し草置場があるのを知っている」
「この闇のなかで、それもこんなに篠つく雨のなかで、乾し草置場を必ず見つけられるの?」
「見つけるさ」
「そこの人たちはあんたを知ってるの?」
「いいえ。だけど起こそうとも思ってないし。犬が吠えないかぎりは。」
「あの上まで登るにはどれほど時間のかかることやら」
「一時間半だね」と、ミルトンは戸口に一歩踏みだした。
「せめて雨が小降りになるまで待てば……」
「もし雨が小降りになるまで待てば、明日の正午にもぼくはまだここにいることになる」と、彼は戸口にもう一歩踏みだした。
「そんな私服で、なにをしにゆくの?」
「約束があるんだ」
「誰と?」
「〈解放委員会〉のある男と」
婆は輝きの失せた無情な眼で彼をじっと見た。「いいこと、いいこと、死人二人は一人よりも始末が悪いんだよ」
ミルトンは頭を垂れた。「あんたにぼくの銃と軍服を預けておく」と、やがて言った。
「いまはあたしのベッドの下に隠しておくけれど」と、婆が答えた。「明日の朝、起きたらすぐに、よく乾いた袋に入れて、井戸のなかに降ろしておくわ。あたしの井戸の中程には四角い穴があって、そこに袋を押しこんでおくわ。鎖と長い竿を使えばわけないもの。あたしに任せておいて」
ミルトンは頷いた。「あとのこともこうしておこう。二晩以内にぼくがまた立ち寄らなかったら、あんたに一つだけ頼みたい。あんたの隣人にその袋を渡して、彼をマンゴに遣ってくれ。マンゴでそれをパルチザンのフランクに渡して、トゥレイーゾの旅団の司令官レーオに送るように言ってくれ。そして、なぜかと理由を聞かれたら、ただこう言ってほしい。《ミルトンが立ち寄って、私服に着替えたけれど、戻ってこなかった》、と」
婆が彼に人指し指を突きつけた。「でもあんたは二晩のうちにまた立ち寄る」
「明日の晩にはまた会うさ」と、ミルトンが答えて戸を開けた。
重たく、斜めの、土砂降りの雨だったし、丘の巨大な固まりは暗闇のなかにすっかりかき消されていて、犬さえ反応を見せなかった。彼は頭を低くして発っていった。
戸口から婆が叫んだ。「明日の晩には今夜よりもましなものを食べてもらうよ。そしてもっとあんたの母親のことを考えるんだよ!」
ミルトンはすでに遠くを、風と雨に押し潰されながら闇雲に、けれども的確に歩んでいた。
「オウヴァ・ザ・レインボウ」を低くハミングしながら。
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