2009年1月1日木曜日

フェノッリオ 私的な問題――愛のゆくえと追跡と1~3



 今回ここに全訳した『私的な問題』(第三稿・決定稿)〔――愛のゆくえと追跡と──愛の追跡者パルチザン・ミルトン──〕さえもが、作家死後の一九六三年に初めて出版された。このときの衝撃を、イータロ・カルヴィーノはその長編小説『蜘蛛の巣の小道』(白夜書房)に寄せた序文中で次のように語っている。
  《しかし、最初の断片的なあの叙事詩の道を辿りつづけた者もありました。彼らは概して最も孤立していて、そういう力を保つにはあまり“壺に嵌まって”いない人たちでした。そして誰よりも孤独な男が、みなが夢見た小説を、もう誰も期待していなかったときに書き上げました。ベッペ・フェノッリオのことです。彼はそれを書くに到ったものの、完結まではこぎ着けず(『私的な問題』)、四十代の働き盛りで、出版を見ずに世を去りました。私たちの世代が書きたかった本が、いまやここにあります。そうしてわれわれの仕事は完成し、ひとつの意味を持つに到りました。いま初めて、フェノッリオのお蔭で、ある季節が終わったとわたしたちは言えるのですし、いまこそそれが真に実在していたとわたしたちは確信できるのです。
 つまり『蜘蛛の巣の小道』から『私的な問題』に至るあの季節があったのです。
 『私的な問題』は愛に満ちた錯乱と『狂乱のオルランド』のような騎士道風の、追跡の幾何学的な緊張で構成されており、同時に〈抵抗運動〉がまさにそのあったとおりに、内と外から描かれています。これはかつて書かれたことがないほど真実味の籠もった〈抵抗運動〉の物語で、忠実な記憶によって何年間も澄み切ったままに保たれ、しかも倫理的なあらゆる価値が言わず語らずであればあるほど一層強烈に書き込まれています。そして感動や、激怒もまた同様に。しかも、これは風景の書物です。そして迅速でみな生々しい人物たちの本です。正確で真実の言葉の本です。そしてまた、不条理で神秘的な書物です。そこでは、追う者は、別の者を追うために追っているのであり、その別の者はさらにまた別の者を追うために追われているのであって、真の理由が明らかにされることはないのです。
 私が序文を付そうと思ったのは、実はフェノッリオのあの書物にであって、私の本にではありませんでした。》


私的な問題

ベッペ・フェノッリオ
花野秀男訳




うっすらあいた口、だらりとわきにたれた両腕、ミルトンは見つめた。アルバの町へくだる丘のうえにひっそりと立つフールヴィアの別荘を。
心臓が鼓動をとめ、身体のおくに逃げこむみたいだった。
ほら、よせたきりの鉄格子門の先に、小径にそって四本のセイヨウミザクラの木立がある。ほら、黒ぐろとつややかな屋根よりもずっと空たかく、二本のブナの樹冠がゆれている。どの壁もあいかわらずまっ白で、しみや煙のあともなく、ここ数日間の豪雨にも色あせていなかった。窓はみな小鎖で閉じられて、見るからに長い時が経っていた。
《いつまた彼女に逢えるだろう? 戦争が終わるまでは不可能だ。いまは望むべきでさえない。けれども戦争が終わるその日に、ぼくはトリーノへ駆けつけて彼女を探そう。彼女はぼくらの勝利ときっかり同じだけ、ぼくから遠い》
戦友が近よりながら、できたての泥のうえをスケーティングした。
「なぜ迂回した?」とイワンがきく。「なぜいまさらとまった? なにを見ている? あの家か? なんであんな家を気にかける?」
「戦争が始まっていらいあの家を見なかったし、終わるまではもう見ることもないだろう。イワン、五分だけ辛抱してくれ」
「辛抱どころか、生命の問題だ。ここいらは危険だ。パトロール隊が」
「こんなうえまで出張ってくるものか。来てもせいぜい鉄道までだ」
「ミルトン、おれの言うことをきけよ、さっさとひきあげよう。アスファルト道は気にくわん」
「ここはアスファルト道じゃないぜ」とこたえて、ミルトンはなおも別荘に目を凝らした。
「このましたを通っているのさ」と、頂のすぐしたの街道の一部をイワンが指さした。アスファルトのあちらこちらに穴があき、いたるところに裂け目ができていた。
「アスファルト道は気にくわん」と、イワンがまた言った。「田舎道ならおまえがどんなばかをしたってかまわんが、アスファルト道は気にくわん」
「五分だけ待ってくれ」と、ミルトンが穏やかにいなして別荘に足をむけたので、相棒は鼻を鳴らしながらかかとのうえにしゃがみこみ、ステン銃をもものうえに寝かせて街道と丘の斜面の小径を見張った。それでもいま一度、戦友を一瞥した。《しかしなんて歩き方だ? 何ヵ月にもなるが、やつがあんな歩き方をするのは見たことがない。あれじゃ、まるで卵のうえを歩いているみたいだ》
ミルトンはぶおとこだった。背が高く、やせこけ、猫背だった。皮膚は厚くひどく青白かったが、光線や機嫌のささいな変化で黒ずむのだった。二十二歳で、口の両側に早くもにがい二本の皺をふかくきざみ、たえず顔をしかめる癖のせいでみけんにもたて皺がふかくきざまれていた。髪は栗色だったのに、何ヵ月もの雨と埃のせいでブロンドがかった最も卑しい色に変色してしまっていた。ましなのは目だけだったが、悲しく皮肉げで、硬く不安な色を宿していたから、あまり好意的でない娘ならば独特な目と評すくらいではすまなかったことだろう。けれども長くてやせた馬みたいな脚をしていたので、広い歩幅でしっかりと迅速に歩くことができた。
きしまなかった鉄格子の門をぬけ、三本目のセイヨウミザクラまで小径を登った。四二年の春にはサクランボがなんて見事になったことだろう。フールヴィアはふたりだけのためにサクランボを摘もうとこの木によじ登った。フールヴィアが無尽蔵のたくわえを持っているみたいだったあのほんもののスイス・チョコレートのあとに食べるために。彼女はこの木に腕白小僧みたいによじ登って、いちばん輝かしく熟れたサクランボを摘むんだと言って、横にのびる見るからにもろそうな枝のうえで大の字になった。小籠はとうにいっぱいだというのに、彼女はなおもおりようとしないばかりか、幹のほうにもどろうともしなかった。彼は考えるにいたった、彼が心をきめて彼女のもっとましたにほんの少し近よってしたからうえに彼女めがけて視線を放つように、フールヴィアはわざとぐずぐずしている、と。だのに彼は数歩もあとずさりし、髪の毛の先まで凍りつかせ、唇をわななかせた。《おりろ。もうたくさんだ、おりろ。もしすぐにおりないのなら、サクランボなんかひと粒だって食べないぞ。おりろよ、さもないと小籠ごと生け垣のむこうにぶちまけちゃうぞ。おりてくれ。きみはぼくを苦しめている》フールヴィアは笑った、いくらかけたたましく。すると、最後のセイヨウミザクラの高い枝から一羽の鳥が飛びさった。
ごく軽い足取りで家のほうに歩いていったのに、すぐに立ちどまり、セイヨウミザクラ木立のほうへあともどりした。《どうしてぼくはあのことを忘れることができたのだろう?》考えあぐねて、彼はひどく心がみだれた。あれはまさしく最後のセイヨウミザクラまで小径を登ったところでの出来事だった。彼女は小径を横ぎり、セイヨウミザクラ木立のむこうの牧場に入っていた。白い衣裳を身につけていたのに、しかも草地はもう生温かくもなかったろうに、彼女は寝そべっていた。指をくんで盆にした手枕にうなじと編んだ髪をのせて、太陽を凝視していた。けれども彼が牧場に入る合図をすると、だめっと大声をたてた。《あなたはいまいるところにいるの。セイヨウミザクラの幹によりかかって。そうよ》やがて、太陽を見つめながら、彼女が言った。《あなたはぶおとこね》ミルトンは目顔でうなずいた。すると彼女がまた始めた。《あなたは素敵な目をしているわ。口は美しいし、手はとっても綺麗だわ。でも全体としてはぶおとこね》感知できないほどわずかに頭を彼のほうにめぐらして彼女が言った。《でもあなたはやっぱりそんなにぶおとこじゃなくってよ。どうしてあなたがぶおとこだなんて言うのかしら? そう言ってる人たちは考えなしに……なのよ》しかしもっとあとで、静かに、けれどもたしかに彼が聞きとれるように彼女は言った。《Hieme et aestate, prope et procul, usque dum vivam... [冬も夏も、おそばにいるときも遠く離れているときも、わたしの生きているかぎり……]ああ、偉大なる愛しい〈神〉よ、ほんの一瞬なりとも、あの雲の白さのなかに、あたしに見させておくれ。あたしがそう告げる男の横顔を》頭全体をぱっと彼のほうにふりむけて、彼女が言った。《あなたの次の手紙はどのように書きだすつもり? フールヴィア、地獄の責め苦よ、かしら?》彼が首を横にふると、セイヨウミザクラの樹皮に髪の毛がこすれてかさこそ鳴った。フールヴィアがあえいだ。《あなた、次の手紙はもうない、というの?》《ただぼくはそれを、フールヴィア、地獄の責め苦よ、と書きだしはしない。手紙については、心配いらない。ぼくにはわかっている。ぼくらはもうなしではすませられない。ぼくがきみに手紙を書くことなしでは、そしてきみは手紙を受けとることなしでは》
別荘への最初の招待の終わりしなに、彼女に手紙を書くように彼に強いたのはフールヴィアだった。「ディープ・パープル」の歌詞を彼女のために訳すように彼を丘のうえに呼んだのだった。沈みゆく太陽のことだと思うんだけど、と彼女は言った。回転数を最小限におとしたレコードから、彼は訳した。彼女は彼にシガレットとあのスイス・チョコレートの小さな板をあたえた。彼を鉄格子の門までまた送ってきた。《きみに会える?――と、彼がきいた――明日、きみがアルバにおりてきたときに》《だめっ、絶対にだめっ》《でもきみは毎朝おりてくるじゃないか――と、彼が抗議した――そしてきみは町じゅうのカッフェをひとまわりするじゃない》《絶対にだめよ。あなたとあたしは、町ではあたしたちの核心にいないのよ》《なら、ここにはぼくはまた来られるの?》《来なくてはいけないわ》《いつ?》《きっかり一週間後に》将来のミルトンはその待たねばならぬ時のあまりの長さに、その克服しがたさに盲て手探りで歩いた。だが彼女は、彼女はどうしてそんなにも軽やかにそんなにも遠い日を決めることができたのだろう?《よくって、きっかり一週間後によ。でも、あなたはそのあいだにあたしに書くのよ》《手紙を?》《もちろん手紙を。あたし宛に、夜、それを書くのよ》《わかった、でもどんな手紙を?》《手紙よ》で、ミルトンはそのとおりにした。すると二度目の約束の日に、フールヴィアは彼が非常によく書いてくれたと言った。《そんなに……たいしたものではない》《とびっきり素晴らしい、って言ったでしょ。ねえ、あたしがトリーノへゆく最初のチャンスに何をするか、わかって? あたしは小さな筐を買ってそのなかにあなたの手紙をしまっておくの。全部しまっておいてだれにも決して見せないわ。たぶんあたしの孫娘たちが、あたしのいまの歳くらいになったら》そこで彼はなにも言えなかった。フールヴィアの孫娘たちが彼の孫娘たちでもあるとはかぎらないという恐ろしい可能性の影に圧迫されて。《次の手紙はどのように書きだすつもり?――と、彼女が言葉をつづけた――この手紙はフールヴィア、輝きよ、で始まっているけど。あたしはほんとうに輝いている?》《いや、きみは輝いてない》《あら、そうなの?》《きみは輝きそのものだ》《あなた、あなた、あなたったら――と彼女が言った――あなたには言葉を紡ぎだす凄い流儀がある……たとえばそれは、輝きという言葉が発せられるのを、あたしはいま生まれて初めて聞いたみたい》《なにも不思議ではない。きみ以前には輝きはなかった》《嘘つき!――と、一瞬後に彼女がつぶやいた――ごらんなさいな、なんて素敵な美しい太陽だこと!》そしてぱっと立ちあがると、小径のふちに、太陽の正面に彼女は駆けだした。
いま彼の低い眼差しはあの遠い日にフールヴィアが走った跡をまたたどっていたが、境までゆきつかないうちにその出発点に、あの最後のセイヨウミザクラにもどった。なんて醜い木になってしまったのだろう。もう老木だ。白みがかった空を背に、その木は淫らにおののいて雫をしたたらせていた。
それから彼は身震いしていくらか重たげに入口の小ポーチまえの平地にでた。ふやけた落葉が、フールヴィアの遠くはなれたふた秋の落葉が玉砂利にこびりついていた。読書のときには彼女はほとんどいつも、中央のあのアーチの線上に、赤いクッションの大きな籐の安楽椅子におさまって、あそこにいた。彼女が読んでいたのは『緑の帽子』、『令嬢エルゼ』、『消えたアルベルティーヌ』…… 彼にとってはフールヴィアの手のなかにあるそうした書物は心臓を刺した。彼はプルーストを、シュニッツラーを、ミハエル・アーレンを呪い、憎んだ。しかしのちには、フールヴィアはそうした書物なしにすますことを覚えた。彼が彼女のために次々にたちどころに訳す詩や物語だけで足りた、そのように見えた。最初の折には彼は『イーヴリン・ホープ』の試訳を彼女に持ってきた。
《あたしに?》と彼女が言った。《きみだけに》《なぜあたしに?》
《なぜって……きみがこうしたものにむかないタイプならわざわいだ》
《あたしがわざわい?》《いや、ぼく自身にわざわいだ》《で、なんなの》《Beautiful Evelyn Hope is dead / Sit and watch by her side an hour.》[美しいイーヴリン・ホープが死んだ/彼女のかたわらに坐って一時間みまもれ]あとで、目が涙できらきら光っていたのに、彼女はむしろ訳した者への感歎に身をゆだねた。《ほんとにあなたがこれを訳したの? でもそれならあなたはほんものの神よ。なのに陽気なものは決して訳してくれないの?》《決して》《でもなぜ?》《ぼくの目に触れることさえない。思うに、ぼくから逃げてゆくんだ、陽気なものは》
次の折にはポーの物語を彼女にたずさえていった。《なんのお話?》       《Of my love, of my lost love, of my lost love Morella 》[ぼくの愛、ぼくの失われた愛、ぼくの失われた愛しいモレッラ]《今夜読むわ》《ぼくは二晩かけてこれを訳したんだ》《夜ふかしがすぎるんじゃない?》《どのみち、起きてなきゃ――と、彼が答えた――空襲警報なしの夜はないというのに、ぼくは全国防空団に入ってるんだ》彼女がふきだした。《防空団に! あんたが防空団に? それだけはあたしに隠しとくべきだったわ。滑稽すぎるもの。防空団ボランティア、黄色と青の腕章つけて!》《腕章はそのとおりだけど、ボランティアだなんてとんでもない!やつらがぼくらをファッショ支部に徴募したんだし、警報がでたのにいないと、翌日にはお巡りが家に踏みこむんだ。ジョルジョだって防空団にいる》だが、ジョルジョのことはフールヴィアは笑わなかった。たぶん、彼についてはすでに笑いつくしてしまったためだろう。
バスケットボールの試合のあと、体育館で、彼女を彼に紹介したのはジョルジョ・クレリチだった。彼らが更衣室をでたところで、ひきあげる残りの観客のなかに、海草のあいだに見え隠れする真珠みたいに、彼女がいた。《こちらはフールヴィア。十六歳だ。爆撃がこわくてトリーノから疎開してきたんだ。結局のところ、彼女はそれを楽しんでいたのにね。いまはこちらに、丘のうえの公証人のものだった別荘に住んでいる……など、など。フールヴィアはアメリカのレコードを山ほど持ってるぜ。フールヴィア、こちらは英語にかけちゃ、神さまだよ》
最後の瞬間になってやっとフールヴィアはミルトンに目をあげた。そして彼女の眸はこの男、ミルトンは何者であれ、神さま以外の者よ、と告げていた。
ミルトンは両手を顔におしあててその闇のなかにフールヴィアの眸をまた見ようとした。その努力に疲れはて、思いだせないことを恐れて、ついに両手をおろすとため息をついた。それは黄金色の暈を冠った、鮮やかなハシバミ色の眸だった。
丘の背に頭をめぐらすと、あいかわらずしゃがみこんで、長くいりくんだ斜面を注視しているイワンの身体の一部が見えた。
小ポーチのしたに着いた。《フールヴィア、フールヴィア、愛しいひとよ》彼女の戸口のまえでそう言うと、何ヵ月ものあいだでいま初めて、風のなかに言うのではない気が彼はした。《フールヴィア、ぼくはいまもちっとも変わっていない。ぼくは多くのことをして、たくさん歩きとおしてきた…… ぼくは逃げ、追跡した。ぼくはかつてないほどに生きていると感じたし、死んだおのれをも見てきた。ぼくは笑い、泣いた。ぼくはこの手でまぢかにある男を殺した。はなれて殺すのは実にたくさん見てきた。でもぼくはちっとも変わってはいない》
別荘のぐるりをめぐる歩道のうえをわきから近づいてくる足音が聞こえた。ミルトンはアメリカ製ライフル銃をなかば肩にかまえた。が、どれほど重たげな足音だろうと、それは女の足音だった。



角から女管理人が窺った。「パルチザン! なんのご用? 誰を探しているの? でもあなたは……」
「ほんとうにぼくですよ」と、女があんまり老けこんでしまったのを見て狼狽のあまり、ミルトンは微笑まずに言った。女の身体はずっとずんぐりし、顔はずっと頬がこけて、髪はすっかり白かった。
「お嬢さまのお友だち」と言いながら、女が安全な角を離れた。「お友だちのひとりね。フールヴィアはいません。トリーノへ帰りましたよ」
「知っています」
「もう一年あまりまえに発ちました。あなたがた若い人たちがこのあなたがたの戦争を始めたときに」
「知っています。その後の消息は?」
「フールヴィアの?」女が首を振った。「わたしに手紙を書くと約束したのに、一通も来なかった。でもわたしはいつも待っているし、そのうちに届くのかもしれない」
《この女が――と、目を丸くして女を睨みながらミルトンは思った――この老いた、無意味な女がフールヴィアから受けとる。彼女の人生の消息と、挨拶と、署名入りの手紙を》彼女はいつもこう署名していた。Fu|l /vi|a と、少なくとも彼宛には。
「わたしに手紙は出したのに、届かなかったのかもしれません」目を伏せて、女が続けた。「フールヴィアは可愛かった。衝動的で、移り気だったかもしれないけれど、とても可愛かったでしょ」
「確かに」
「それに美しい、とても美しかった」
ミルトンは答えずに、ただ下唇を突きだした。それが苦しみを受けとめて、それに抗う彼のやり方だった。フールヴィアの美しさは他の何よりもまして、つねに彼を苦しめてきた。
女がやや斜めに彼を見上げて言った。「おまけにまだ十八歳にもなっていないのだから。あのころは、十六たらずだった」
「あなたにお願いしなくては。家をぼくにまた見せてください」思わず、硬く、擦れるみたいな声になってしまった。「あなたには思いもよらないことでしょうが……とても助かります」
「いいですとも」と答えながら、女が両手を捩った。
「ぼくらの部屋だけをまた見させてください」ソフトにしようと努めたその声も掠れたままだった。「ほんの二、三分しかお邪魔しませんから」
「いいですとも」
彼のために内側から扉を開けるには、女は別荘の裏手に回らねばならなかった。だから、彼は少し待たねばならない。「それに作男の息子に麦打ち場に出るように言って、しばらく見張りに立たせましょう」
「どうか、あちらの裏手のほうを。こちら側は仲間が注意していますから」
「おひとりかと思ったのに」と、女は言いながら新たな気がかりを覚えた。
「ぼくはひとりみたいなものです」
女管理人が角を曲がると、ミルトンはまた平地に出た。イワンに向けて両手を打って、それから開いた片手を突きだした。五分間、五分間待ってくれ。それからこの唖然とする一日の思い出、その別の大きな要素を心に焼きつけるために空を盗み見た。あの灰色の大海原のうえに黒っぽい雲の船団が西空へと滑ってゆき、その舳先がいくつか真っ白な小さな雲に衝突すると、白い雲はたちまち粉々になってしまった。一陣の疾風が湧き起こって木々をゆり動かし、雨だれが玉砂利のうえで短い音をたてた。
いまは彼の心臓は高鳴り、唇がいきなり乾いてしまった。扉をとおして「オウヴァ・ザ・レインボウ」の曲が聞こえた。あのレコードは、フールヴィアへの初めての贈物だった。あれを買ったあとの三日間はタバコなしだった。寡婦の母は日に一リラを彼に渡し、彼はそれをみなタバコに費やしていた。彼女にあのレコードを持っていった日には、それを二十八回も掛けた。《気に入った?――と、彼女に聞いてしまってから、的を得た問いは――好きかい?》であったろうに、と気持ちが萎えて暗くなった。《見てて、またかけるから――と、彼女が答えた。そしてそれから――気に入って、気絶しそう。終わると、ほんとに何かが終わってしまった、って感じ》そしてあのころ、数週間後に《フールヴィア、きみのお気に入りの歌って、ある?》《決めれない。三、四曲あるし》
《……は?》《たぶん、あら、とんでもない! あれはもう大好きよ、死ぬほど好き、でもほかにも三、四曲あるの》
女管理人がやって来た。女の足取りの下で嵌め木の床が、妬ましく悪意のある音をたてて、異常に軋んだ。まるで目覚めさせられるのを喜ばないかのように、とミルトンには思えてしまう。ポーチの下に急いで、片足ずつ靴の泥を石段の縁でこそぎ落としていた。女が灯りのスイッチを入れて錠を開けにかかる音を聞いた。彼は泥落としの途中だった。
扉が少し開いた。「入って、そのまま入って、すぐ入って」
「嵌め木の床が……」
「ああ、嵌め木の床」と、なにか自棄的な柔和さで女が言った。しかし彼が泥を落としおえるのを待ちながら、つぶやいた。「たっぷり降ったから、だのに作男の言うには、まだたっぷり降るだろう、ですって。わたしの人生でこんなに雨の多い十一月は一度もありませんでした。あなたたちパルチザンはいつも野外にいて、どうやって乾かすのかしら?」
「着たままで」と、答えたミルトンはいまだに中を覗こうともしなかった。
「さあ、もういいでしょ、入って、そのまま入って」
女はシャンデリアの灯りのたった一つを点けただけだった。光は螺鈿細工のテーブルのうえに反射せずに真っ直ぐに落ち、まわりの暗がりのなかに安楽椅子やソファーの白いカバーが幽霊みたいに見え隠れした。
「お墓のなかに入るみたいな気がしません?」
とても真剣な想いを糊塗せねばならない者がするにも似て、彼は愚かしく笑った。なるほど、女に言うわけにはゆかなかった。彼にとってはあそこが世界じゅうで最も光り輝く場所であり、あそこにこそ彼の生命も復活もあるのだ、とは。
「思うのですけど……」と女が静かに話しはじめた。
女の言うことは気にかけなかったし、たぶん声も聞こえなかった。彼はフールヴィアをまた見ていた。ソファーの気に入りの隅にくつろいで、頭を軽くのけ反らして、艶やかで重たげなそのお下げ髪のひとつが宙にぶら下がっている彼女。そして彼はおのれ自身をまた見た。反対側の隅に腰を下ろして、痩せた長い脚を遠くまで伸ばして、彼女に長いあいだ、何時間も話してきかせる彼。彼女は聞きほれて息をするのも忘れ、眼差しはいつも彼から遠く離れたところにある。彼女の目は早くも涙のヴェールを被った。そしてもう涙をこらえきれなくなると、そのときには顔をぱっとわきに振り向けて、話の緒を断ち切って、怒りくるった。《たくさん。もうあたしに話さないで。あたしを泣かせるのね。あんたは悪いひとよ。あたしが泣くのを見たいばっかりに、こんなふうに話して、こんな話ばかり探してきて繰りひろげて。いえ、あんたは悪いひとじゃない。でも、悲しい人ね。悲しいよりももっと悪い、あんたは暗いわ。せめてあんたも泣くのなら。あんたは悲しくて醜男よ。だけど、あたしはあんたみたいに悲しくはなりたくない。あたしは美しくて陽気だわ。そうだったのよ》
「思うのですけど」と、女管理人が言っていた。「戦争が終わったらフールヴィアはここにはもう決して戻らないのじゃないかしら」
「戻りますよ」
「そうならわたしは嬉しいのですけど、戻らないような気がします。戦争が終わり次第、彼女の父親は別荘をまた売るでしょう。別荘を買ったのはもっぱらフールヴィアのため、彼女を疎開させるためだったのですから。いま時分にここら一帯で買手が見つかるものなら、とっくに売り払っていたことでしょうよ。ここらの丘の上で彼女をまた見かけることはもうないのじゃないかと、ほんとに思うのです。フールヴィアは海辺へ出かけることでしょう。戦前には、夏ごとにそうしていたのですから。ほんとにあの娘は海が大好きで、わたしはアラッスィオの浜辺のことを、それはもうなんども聞かされたものですよ。あなたは一度もアラッスィオには、ゆかれたことはございませんの?」
彼は一度もそこには行ったことがなかったし、その場所に不信感を抱いていたのだが、たちまちその地を憎んで、戦争でそこが酷いありさまになってフールヴィアがもうそこには行けなくなるか、行こうとも思わなくなるといい、と思った。
「フールヴィアの家族はアラッスィオに家を持ってます。憂鬱になったり、飽きたときには、彼女はいつも海のこと、アラッスィオのことを話してました」
「言っときますが、彼女は戻りますよ」
暖炉の側の、奥の壁際に据えられた小テーブルのところへ行った。軽く屈んでフールヴィアの蓄音機のかたちを指でなぞった。
「オウヴァ・ザ・レインボウ」、「ディープ・パープル」、「カヴァリン・ザ・ウォタフラント」、チャーリー・クンツのピアノソナタ集、そして「オウヴァ・ザ・レインボウ」、「オウヴァ・ザ・レインボウ」、「オウヴァ・ザ・レインボウ」
「あの蓄音機をどんなに鳴らしたことでしょう」と、手をゆり動かしながら女が言った。
「ほんとに」
「ここで実に大勢ダンスしたこと、やりすぎでしたわ。ダンスは厳しく禁止されていたというのに、内輪だけでも駄目でしたのに。覚えてらして? 静かにして、外に、丘の中腹にまで聞こえてしまうからって、わたしが何度も言いに入らねばならなかったことを?」
「いま思い出しました」
「でもあなたはダンスしませんでしたね。違いました?」
いや、彼はダンスをしなかった。ダンスをしたことは一度もないし、覚えようともしなかった。ほかのみなが、フールヴィアとそのパートナーが踊るのを眺めていて、レコードを替えては蓄音機のゼンマイをまた巻いていた。要するに彼は舞台装置係だった。そう命名したのはフールヴィアだった。《目を覚ませ、装置係! 装置係、万歳!》その声の響きは実際には心地好いものではなかったが、彼はその声の響きのためになら、人類と自然の声のことごくに聾となることも厭わなかった。フールヴィアは実にしばしばジョルジョ・クレリチとダンスした。五、六枚ものレコードをとおして踊りつづけて、曲の切れ目にだけやっと互いの身体をほどくのだった。ジョルジョはアルバ一の美男子で、しかも一番金持だったから、当然、最もエレガントだった。アルバじゅうのどんな娘もジョルジョ・クレリチとでは釣り合わなかった。トリーノからフールヴィアがやって来て、完璧なカップルができあがった。彼は琥珀色の金髪で、彼女はマホガニーの赤褐色の髪だった。フールヴィアはダンサーとしてのジョルジョに夢中だった。《He dances divinely》[彼は神のごとくダンスするのよ]と、言い切った。そしてジョルジョは彼女のことを言った。《彼女は……言うに言われない》そして、ミルトンに向き直り《言葉じゃ無敵のきみだって、言えるかどうか……》ミルトンは黙って、落着き払い、安心して同情するみたいに彼に微笑みかけた。彼らは踊りながら、決して話さなかった。ジョルジョがフールヴィアと踊ろうと、彼には手段であり宿命である、しかけたあのわずかばかりのことをしおえるがいい。ただ一度だけミルトンは怒った。フールヴィアが一連のダンス曲のなかから「オウヴァ・ザ・レインボウ」をわきへ除けておくのを忘れたからだった。小休止のときに、彼女にそのことを指摘した。すると、彼女はすぐに目を伏せてつぶやいた。《あなたの言うとおりだわ》
けれどもある日、ふたりっきりのときに、フールヴィアは手ずから蓄音機のゼンマイを巻いて「オウヴァ・ザ・レインボウ」をかけた。《さあまえへ、あたしと踊って》彼は言った、大声を立てたかもしれない、いやだと。《あなたは絶対に覚えなくてはいけないわ。あたしと一緒に、あたしのために。さあまえへ》《覚えたくない……きみとは》しかしとっくに彼女は彼を捉えて、彼を広いところに連れだして、連れだしながら踊っていた。《いやだ!》と抗議したが、彼は動顛したあまり、身体をふりほどくのも忘れていた。《なによりもあの歌でダンスするのはいやだ!》それでも彼女が彼を放さなかったので、彼は躓いて彼女のうえに倒れかからないように気をつけねばならなかった。《覚えて――と、彼女が言った――あたしがそれを望んでいるの。あたしはあなたとダンスしたいの、わかる? あたしはなにも言わない男の子たちとダンスするのはもううんざり。あたしはあなたと決してダンスしないのには、もう耐えられないの》やがて、いきなり、まさにミルトンが屈しつつあったそのときになって、彼の両手を身体に強く押し戻して、彼を突き放した。《リビアへ征って死んでしまえ――と、ソファへ戻りながら彼女が言った――あんたは河馬ね、痩せた河馬だわ》しかしそのすぐあとでフールヴィアの手が両の肩に軽く触れて、彼女の吐息がうなじに降りかかるのを彼は感じた。《ほんとうに、あなたは肩をもっとしゃんとするよう気をつけなくてはいけないわ。あなたは猫背、すぎるのよ。ほんとに、肩をしゃんとなさい。そのことを決して忘れちゃだめよ、わかった? なら、また坐りましょう、そしてあなたがあたしに話して》
カットグラスのほのかな煌めきに誘われるように、彼は書棚のところへ行った。せいぜい十冊ほどの忘れられ、むだになった本があるだけで、ほとんど空なのはすでに目にとめていた。棚に屈みこんだが、胃の口に拳をくらった反動みたいにすぐまた身体を起こした。彼は青ざめて息もつけなかった。あの置き去りにされたわずかな本のあいだに、彼が十五日間も窮乏状態に見舞われながらフールヴィアに贈った『ダーバーヴィル家のテス』を見つけたのだった。
「持ってゆく本と残してゆく本を選んだのは、誰です? フールヴィアだったんですか?」
「彼女です」
「ほんとうに彼女?」
「ええ、たしかです」と、女管理人が言った。「本に関心があるのは彼女だけですから。彼女が手に取って、彼女が手ずから行李に詰めました。でもなによりも彼女が気にかけていたのは蓄音機とレコードです。本は、ご覧のように残してゆきましたが、レコードは一枚残らず持ってゆきました」
入口からイワンの頭が覗いた。丸く、青白くきわだって、まるで月みたいに見えた。
「どうした?」とミルトンが言った。「やつらが登ってきたか?」
「いや、だが行こうぜ。時間だ」
「もう二、三分だ」
しかめ面をしてため息をつきながらイワンが頭をひっこめた。
「あなたにもあと二、三分お許し願いたい。もう二度とお邪魔しませんから、戦争が終わるまではお寄りすることもないでしょう」
女は両腕を広げた。「おわかりでしょう。危険さえなければ、ねえ。あなたのことはとてもよく覚えてますよ。さっき、あなただとすぐにわかったでしょう。それに言っておきますとね……あのころ、お嬢さんに会いにいらしたころ、わたしはあなたが気に入ってたんですよ。ほかのどのお友だちよりもあなたをね。ほんとの話、クレリチ坊ちゃんよりも、あなたをね。ところで、クレリチ坊ちゃんを見かけたことはありませんの? 彼もやはりパルチザンかしら?」
「ええ、ぼくらは一緒です。ぼくらはいつも一緒だったんだけれど、ぼくは最近、別の旅団に転属させられて。ですが、なぜジョルジョよりもぼくが気に入っていたなんて言うんです? むろん、訪問者としては、ですがね」
あの女はためらって、さきほどの言葉を取り消すか、せめて些細なことに見せる仕草をしたが、「おっしゃい、おっしゃい」と、ミルトンは身体じゅうに張りつめた神経の命ずるままに急かせた。
「クレリチ坊ちゃんにお会いになったときに話したりなさいません?」
「おや、そんなことをするように見えます?」
「クレリチ坊ちゃんには」と、そこで女が言った、「わたしは心配させられたし、腹もたてました。あなたにお話しするのはあなたに敬意を持っているからで、あなたはとても真面目な顔をした青年で、言わせてくださいな、あなたほど真面目な顔つきの青年をわたしは見たことがないからです。おわかりでしょう。わたしなんかまるでつまらないただの別荘管理人ですが、フールヴィアの母親の奥さまが、お送りしたときに、わたしにお頼みになって委ねられたのです……」
「養育係みたいな」と、ミルトンが水を向けた。
「それそれ、とてもそんな大げさなもんじゃありませんが。ですから、わたしはあの娘の身のまわりに起こることについてはいささか注意せねばなりませんでした。おわかりでしょう。あなたのときはわたしは安心でした。安心しきってましたよ。おふたりはいつも、何時間でもお話しなさってらして。というか、あなたがお話しになってフールヴィアが聴いていた。違います?」
「そうです。そうでした」
「ところがジョルジョ・クレリチときたら……」
「ええ」と、舌をかさかさにして彼が言った。
「しまいには、つまり去年の夏、四三年の夏には、あなたは兵隊でしたね、たしか」
「ええ」
「しまいには、彼は頻繁に来すぎて、しかもほとんど決まって夜に来て。正直言ってわたしはそうした時間帯は気に入りませんでした。タクシーに乗ってきて。いつも市役所のまえで客待ちしていたあの車、覚えてらして? あの綺麗な黒い車、おまけにあの滑稽なガス発生装置をつけて、
ねえ?」
「ええ」
女は首をゆさぶった。「彼らふたりが話しているのを聞いたことは一度もありません。わたしは立ち聞きしましたよ。そう言ったからって少しも恥じゃありません。義務として立ち聞きしたんですから。でもいつも静まり返っていて、まるでそこにいないみたいでした。それでわたしは安心どころじゃなかったんです。けど、こうしたことはあなたのお友だちにはどうかおっしゃらないように。だんだん遅くなって、回を重ねるごとに遅くなって。せめていつでもここの外に、セイヨウミザクラ木立の下にいてくれれば、わたしもそんなには心配しなかったでしょうに。でも彼らは散歩に出るようになって。丘の頂を越えて行ったんですよ」
「どこいらへ? どこらへんへ向かったんです?」
「ええ? そりゃ、あっちこっち、けどたいていは川のほうへ向かいましたね。ねえ、この丘が川に突きでるあたり」
「わかりました」
「わたしはむろん彼女を待って起きてましたが、そのつど遅く帰ってくるんです」
「どのくらい遅くに?」
「真夜中ってことも。わたしはフールヴィアに意見すべきだったのかも?」
ミルトンは激しく頭をゆり動かした。
「そう、意見すべきでした」と、女が言った。「でもそんな勇気はぜんぜん持てなかった。彼女には気圧されて、歳の差をいえば、わたしの娘でも可笑しくはないのに。とうとうある晩、というか夜に、彼女はひとりっきりで帰ってきました。ジョルジョがなぜ送り返さなかったのか、とうとうわからずじまい。とっても遅くて、真夜中すぎのことでした。いまも思い出しますが、丘じゅうで一匹のコオロギももう鳴いてませんでした」
「ミルトン」と、外からイワンが口笛を吹いた。
振り向きもせずに、彼は頬のてっぺんをひきつらせただけだった。
「それから?」
「それからなに?」と女管理人が聞く。
「フールヴィアと……彼は?」
「ジョルジョは別荘へはもう姿を見せませんでした。彼女のほうが出かけたのです。逢引してました。彼は五十メートルほど先で、生け垣に紛れるように凭れて待ってました。でも、わたしは見張ってましたから、彼を見ました。あの金髪で彼だとすぐわかりました。あのころはどの夜も月が皓々と照っていましたから」
「それがいつまで続いたんです?」
「まあ、去年の九月初めの頃まで。それからあの休戦発表の大破綻とドイツ軍による災厄です。やがてフールヴィアはここから父親と一緒に発ちました。そしてわたしは、それは彼女が可愛くはありましたが、ほっとしたものです。心配でたまりませんでしたから。ふたりが悪事を働いたと言うのではなくて……」
彼はその場で、ずぶ濡れのカーキ色の軍服のまま小枝みたいにぶるぶる震え、肩にかけたカービン銃をかたことさせながら、鼠色の顔に半開きの口から大きなかさかさの舌を覗かせていた。咳きこむふりをして、なんとか声をだすための時間稼ぎをした。
「言ってください。フールヴィアは正確にはいつ発ちましたか?」
「正確には九月十二日です。彼女の父親も田舎のほうが大都会よりもはるかに危険になった、とようやく気がついたのです」
「九月十二日」と、オウム返しにミルトンが言った。そして彼、彼は一九四三年九月十二日にはどこにいただろう? とてつもない努力をはらって、彼はそれを思いだした。リヴォールノで、駅の便所に雪隠詰めになって、三日間もなにも食べておらず、施し物の私服を浅ましくも着こんでいた。便所での絶食と発散物ゆえにいまにも気絶しそうになって通路に顔を出したところで、ズボンの前ボタンを嵌めていたあの機関士にぶつかったのだった。《兵隊、どこから来たんだ?》と彼がささやいた。《ローマだ》《で、おまえの家はどこか?》《ピエモーンテだ》《トリーノか?》《近くだ》《そうよな、おれはおまえをジェーノヴァまでなら乗せてってやれるが。三十分以内に発車だが、いますぐ石炭車に隠れてもらわないとな。あとで煙突掃除人みたいに見えたってかまやしないだろう?》
「ミルトン!」とイワンがまた呼んだが、さっきほどには切迫した調子ではなかった。それでも女管理人はびくっとした。
「ねえ、もうほんとうに行かれたほうがよろしいんじゃ? わたしまで怖くなってきて」
機械的にミルトンは向きを変えて戸口に近寄った。女にまともに挨拶せねばならない義務がいまやおしつぶすような重荷となって彼にのしかかってきた。目を強くつぶって彼が言った。
「どうもご親切さま。よくぞ教えてくれました。なにもかもありがとう」
「いえ、どういたしまして。あなたとここでまたお目にかかれて、よろしかったですわ。そんなに武器を身に帯びてらしたにしても」
ミルトンは最後の一瞥をフールヴィアの部屋へ投げた。彼は霊感と力を掬いあげようとそこに入ったのに、出たときには裸でうち砕かれていた。
「ほんとにありがとう。なにもかも。すぐに、また閉めてください」
「たいへん危険なんでしょう、ほんとに?」となおも女が尋ねた。
「いえ、それほどでは」と、彼がカービン銃を肩に背負いなおしながら答えた。「これまでのところはぼくらは幸運でした。たいへん幸運でした」
「最後までその幸運がつづきますように。それに……最後にはあなたたちが勝つというのは確かでしょう?」
「確かです」と、蒼ざめて彼は答えて、イワンのわきをさっと通りすぎるや、セイヨウミザクラ木立の小径を駆け抜けた。



彼らは六時ごろトゥレイーゾに戻った。山道は彼らの足もとで烟って夕映えの光が、雨によって丘の斜面に縫いつけられた灰色の靄のいくつかの固まりにそそぎ集まっているかに見えた。
それでも歩哨は遠くから彼らの姿を認めて、名前を呼びながら遮断地点の横木を素早くくぐって二人を出迎えた。歩哨はジレーラという名の十五歳になったばかりの固太りの小柄な少年で、背丈はその手に持つ旧式銃よりもほんの少し高いだけだった。
彼らは到着した。鐘楼の鐘が六時を打ち、その音調はミルトンの耳には永久に違って響いた。彼らは到着した。あの極度の湿気で村のどの厩舎もかつてないくらいに臭気を発し、村道は牡牛たちの糞が溶けて黄色がかった雨水の小川となっていた。彼らは到着した。ミルトンはイワンの三十歩ほど先をゆき、あいかわらず広い歩幅で迅速に進んでいたのに、相棒のほうは疲れ切って後を追うのをやめた。
「ミルトン」と、ジレーラが言った。「アルバでなにか面白いものを見た?」
返事もせずに少年を通り越して、彼は足を速めて村の内懐にある小学校に向かった。そこにレーオがいて、旅団司令部があった。
「ジレーラ」とイワンがささやいた。「夕飯はなんだか知ってるか?」
「とっくに知らされてるよ。肉にひと握りのハシバミの実だ。パンは昨日のだ」
イワンは道を横切ってゆき、歩哨番所にもたせかけた丸太のうえで身体をぐにゃりとさせた。それから頭をのけ反らせて壁にあてて、小刻みに揺すった。上塗りが剥げ落ちて頭のうえに雲脂みたいに散らばった。
「イワン、そんなにぶうたれて、いったいなんなのさ?」
「ミルトンのせいだ」と、イワンが答えた。「ミルトンは街道の殺し屋だ。おれたちは時速百キロで舞いもどった」
少年が興奮した。「やつらに追跡されたのかい?」
「とんでもない。やつらが追跡してきたのなら、請けあっとくがな、おれたちがそんなに急くものか」
「でもそれなら?」
「だからほっといてくれ」
ミルトンの実に奇怪な気狂いじみた行動に触れないでは、あの帰還を説明することはできなかった。ジレーラに話せば、旅団じゅうをその話がひと回りして、避けようもなくミルトンの耳にも入り、やつはもろに彼イワンに対してそのことを根に持つかもしれない。いまでは、イワンはほんのわずかしか生き残っていない学生たちを尊敬して恐れていたが、ミルトンはそのごくわずかの部類の中にいた。
「なんて言ったの?」と、ジレーラが信じがたそうに言った。
「ほっといてくれ、って言ったんだ」
ジレーラは腹をたてて遮断地点にもどり、イワンはイギリス・タバコに火をつけた。身体を漏斗状に捩りあげるような咳の発作に見舞われるかと思ったのに、最初の一服はスムーズに肺に入った。《こん畜生め!――と頭のなかで罵った――だが、やつはなにを怒っていたのか? あの別荘からロケット弾みたいに飛びだしてきて、帰り道もしまいまでロケット弾みたいに吹っ飛ばしてきた。なのにおれは後ろで、脾臓が破裂しそうだというのに、理由が皆目わからずに、やつをその宿命に、見殺しにすることもできなかった。おれはやつを見殺しにして、この脾腹を破裂させずに帰ることもできたのだ》
横木に凭れかかって、ジレーラが彼を横目で睨みながら、片足で地面を踏みつけていた。
イワンは首を別の側によじった。《だが、やつはなにを怒っていたのか? 言っておくが、やつは気が狂うか、その寸前だった。それでもやつはいつもしっかりした若者だったし、しっかりどころか、冷淡なくらいだった。あのレーオ自身が頭に血がのぼっちまったときでさえ、冷静そのものだったやつを、おれはこの眼で見ている。おのれの本分を尽くす若者だ。だがやつも学生には違いないし、学生ってのはみないくらか頭が変だ。おれたち庶民はずっと物事の核心を衝くというのに》
下界の大気がふと振動して、大粒の水滴がぱらぱらと落ちてきた。
「また雨が降るぞ」と、大声でイワンが言った。
ジレーラは返事をしなかった。
「おれは茸になったぞ」と、イワンが重ねて言う。「誓って、この身に感じるんだ、黴が背中に生えてきたぞ」
ジレーラは肩をすくめて下り坂を眺めだした。そのとき雨だれが止んだ。
イワンはまた考えはじめながら、指のあいだで腐ってしまうまえに吸いおえようとタバコをいっそう繁くふかした。《おれが知るものか、やつがなにを怒ったのか、あの金持の家でやつがなにを見たのか、それとも聞いたのか。わかったものじゃない、あの婆がやつにいったいなにを言ったのか?》吸いさしを投げ捨てて、それから両耳のうえの頭を強く、狂ったように掻きむしった。《あのくそ婆め! やつになにを告げ口したんだ? おれたちの経験しているいまの時節を思えば、おくびにも出さずに済ませたはずなのに。なにを言ったか、知れたものじゃない。こんなときには、娘が絡んでいると、人はすぐ言うものだが》しかしそのあいだにも彼は信じがたさと蔑みで声を出さずに笑った。《そうだ、まさしくいまがひとりの娘のために正気を失う、その時と場所なのだ。ミルトンみたいに本気のパルチザンが。娘たち! 今日日! 笑わせるよ。娘たちはむかつくし哀れだ。とにかく、そいつは以前の暮らしでの事柄なのはたしかだ。そしてそうした事柄に舞いもどるのは良いことよりも害をもたらす。いまおれたちが経験している暮らしと仕事では些細なことで危機に陥ってしまう。以前の事柄はあとだ、あとでだ!》
「風が出てきた」と、とうに不貞腐れるのを止めて、静かにジレーラが告げた。
「そうだな」と、ある種のありがたさを声にこめてイワンが言い、両腕を交差させ、両手を肩甲骨において、丸太のうえにうずくまった。
アルバの方角からたっぷりと、低く、はりつめて風が吹きあがってきた。
それにもっと由々しい別の出来事があったと、イワンは考えつづけた。サン・ロッコの地雷が埋まった橋でのことだ。まもなくミルトンはあの橋にさしかかる、あんなに動顛はしていたが? しかし橋に地雷の埋まっていることは草や木や岩だって知っていた。部落の少し手前でイワンは百メートルほどミルトンに引き離されていた。しかも斜めの崖のせいで彼の姿が見えなくなった。橋への懸念はまさしく偶然に閃いたのだが、そのときとうに脾臓が皮膚を突き破りそうだったのに、イワンはいきなり崖を攀じ登りだして上にたどりついて見れば、ちょうどミルトンがロボットみたいに和らげがたい盲た足取りで橋へと下っていた。欄干まであと二十歩ほどだった。ミルトン、と名前を大声で呼んだが、やつは振り向かなかった。一音ずつ区切って、手をメガホンにして、苦痛もなにもありったけの声で叫んだ。向かい側の丘の上でも聞こえたに違いなかった。ミルトンがぴたっと立ち止まった、まるで背中に命中弾を浴びたかのように。ゆっくりと彼がふり向いた。崖上に真っ直ぐに立って、イワンが小橋を二度三度と指さし、それから片手を額のまえでひらひらさせた。橋には地雷が埋まっている、気狂いかおまえは? ミルトンがようやく頭で合図を返し、橋の下流へ下りて渓流を岩づたいに渡った。で、それから、礼を言いに、やつはおれを待ってでもいたか? 谷川を徒渡ると、またもあの恐ろしい速歩を再開したから、イワンは彼の背中にステン銃の連射を浴びせかけてやりたくなったくらいだった。
イワンは丸太から身体を起こし、手を尻にあててみて、ズボンの底がブラシを掛けるよりは絞ったほうがましなことに気がついた。村の中心に耳をそばだててから言った。「しかしこの静けさはどうだ? ジレーラ、ほかのみなは?」
「ほとんどみんな川へ行ったさ」と、また不貞腐れた声で少年が答えた。「増水して一見の価値があるんだと」
「大げさな」と、イワンが言った。「おれとミルトンは二時間まえにアルバで川を見た。増水はしているが、まだなにも特別なことはない」
「かもしれないけど、ここいらでは川はずっと狭まっているから、大増水に見えるんだ」
「いいか」と、イワンが言った。「おれは川が増水しないでほしいと思っているわけじゃない。氾濫すればいいくらいだ。それならせめて川の方面は安心していられるからな」
荒れ狂った足音が聞こえてすぐに止まったと思ったら、急坂の上にミルトンが現われた。一陣の風がまともに彼に襲いかかったけれど、ずぶ濡れの軍服を剥ぎとりはしなかった。彼はレーオの所在を尋ねた。司令部にはいなかったのだ。
「午後はずうっとそこにいたんだがな」と、ジレーラが答えた。「おいらがなんで知ってなきゃならないんだ? 医者の家にロンドン放送を聞きにいったのかもしれない。そうだよ、医者のとこへ行ってごらんな」
行きかけてミルトンは、放送の時刻と長さを見つもって、レーオはすでに医者の家を辞したと判断した。そこで、まっすぐ司令部に帰った。
実際、レーオは戻ったばかりで、カーバイドの灯りを点けてそのつまみを調節していた。
彼は教卓の後ろに立っていた。机がみな片隅に寄せられていたので、それはその場所に止まっていた唯一の備品だった。
ミルトンは敷居を跨いだだけで、明かりの届く範囲の縁に止まっていた。
「レーオ、明日ぼくに休暇をくれ。半日休暇を」
「どこへ行かねばならないんだ?」
「なにマンゴまでだ」
レーオは慌てて明かりの量を増やした。いまや彼らの影は胴が天井に届くほどに伸びた。
「なあ、きみはもしかして昔の旅団が恋しくなったのと違うか? なあ、きみはまさかこの未成年者ばかりの部隊にぼくをひとりっきりで放りだすつもりじゃあるまいな?」
「レーオ、安心しろよ。戦争が終わるまでぼくはきみと一緒にこの部隊に止まる、とサインしてもいいと言ったろうが。そいつを確認しておくよ。ぼくがマンゴにひと走りするのはたんにある男と話すためなんだ」
「ぼくの知っている男か?」
「ジョルジョだよ。ジョルジョ・クレリチ」
「ああ。きみとジョルジョはとても仲が良かったよな」
「ぼくらは一緒に生まれたんだ」と、ミルトンはくいしばった歯の奥で言った。「それじゃぼくは行けるんだね? 正午には戻ってくる」
「夕方でもかまわないぞ。明日は、やつらもぼくらを退屈させてくれるだろう。思うに、ここしばらくはぼくらを退屈させてくれるんじゃないかな。攻撃するとしたら、赤のほうをだろう。残りのひとつに少しばかり。最新の痛手はぼくらがこうむったものな」
「正午には戻ってくる」と、ミルトンが律儀に言って退こうとした。
「待てよ。で、アルバについてはどうだった? なにもなかったのか?」
「実質的にはなにも見なかった」とミルトンは答えたが、また近寄りはしなかった。「ぼくが見かけたのはせいぜい環状道路にパトロールの一隊だけだ」
「正確にはどのあたりだ?」
「司教の庭園の高さだ」
「ああ」レーオの目がアセチレンガスの焔のなかで白い閃光を放った。「ああ。で、どこへ行った。新広場のほうへか、それとも発電所のほうへか?」
「発電所のほうへ」
「ああ」と、レーオがまた不機嫌に言った。「拘泥するわけではないんだが、ミルトン、単なるマゾヒズムさ。実際はぼくが愚かしくもアルバに惚れてしまったということだよ。わが旅団の重力の中心としてあの町を考えるあまりに……そうとも、もしきみが許してくれるなら、ぼくはきみの町に愚かしくも惚れてしまった。だからぼくは知る必要を感じるんだ、ひどくね。どこで、いつ、まるでぼくに…… だが、どうした?神経痛か?」
「なにが神経痛だ!」と、ミルトンがかっとなって言った。いまなお眼をぎょろつかせ、いまもなお顔にはっきりと刻まれた苦しみの渋面を見せながら。
「そんな顔をしてたんだ! ぼくらの多くが歯痛を病んでいる。このひどい湿気のせいに違いない。ほかになにか見たか? ポルタ・ケラースカの新しいトーチカをきみは一瞥してきたかな?」
そしてミルトンは《もう耐えられない――と考えていた――彼がまだ質問をするのならぼくは……ぼくは彼を……! しかもほかならぬレーオを。レーオを! ならばほかのみななんて。事実は、もうぼくにはなにも大切じゃないということだ。一瞬にして、なにもかも。戦争も、自由も、戦友も、敵も。ただあの真実だけは》
「トーチカだ、ミルトン」
「そいつは見てきた」と、ミルトンがため息をついた。
「それなら話してくれ」
「出来は非常に良さそうだ。街道方面ばかりか、川に向けて開けた野をもを射程に収めているからだ。忘れるなよ、製材所とテニスコートに向けてだ」
フールヴィアはあそこでジョルジョとテニスをした、いつもシングルスで。ゲームのまえにジョルジョがことに念入りにローラをかけて水を撒いた赤いコートに降り立った天使たちみたいに、彼らは純白で異彩を放っていた。ミルトンはというと、フールヴィアがつけるように命じた得点を忘れるか、混同するかしながら、ベンチに坐っていた。坐り心地は良くなかった。ひっきりなしに長い脚を動かしながら、ズボンに張りをもたせて腿のひらったさを隠すためにポケットのなかのこぶしを握りしめ、啜って飲みつつ平静を装う清涼飲料を買う小銭もなく、悶えるまで節約せねばならないタバコを一本だけ余分にのこし、片方のポケットの底にはイェイツの詩篇の試訳を書きつけた小紙片を潜ませて。《When you are old and gray and full of sleep...》[おまえが歳をとり髪は白く眠りに満たされるときに……]
「気分がよくないのかい?」とその悲しげな辛抱づよさでレーオが言っていた。「ぼくはたずねてたんだ、きみはこれまでにテニスをしたことがあるかって」
「いや、いや」と、慌てて彼が答えた。「金がかかりすぎるよ。あれこそぼくのスポーツだとは感じたんだけど、金がかかりすぎるよ。ラケットの値段からして良心の呵責を覚える数字だった。だからぼくはバスケットボールに熱中したんだ」
「すばらしいスポーツじゃないか」と、レーオが言った。「まるっきり、アングロサクソン的だ。ミルトン、そのころ、全然きみの頭を過らなかったのかなぁ、バスケットボールをする者はファシストにはなりえないという考えが?」
「そのとおりだ。いまになってぼくもそう思うよ、きみに言われてね」
「で、きみは上手な選手だったの?」
「ぼくは……まずまずだった」
やっとレーオは満足した。ミルトンは戸口のほうへ退きながら、正午までには戻るから、とくり返した。
「晩までに戻ればいいさ」と、レーオが言った。「ああ、きみ関心あるかしら、ぼくは今日で満三十歳になったんだけど?」
「そいつは新記録だ」
「明日、くたばってもぼくは老いたことを恥じながら死ぬだろう、という意味かい?」
「ほんとうの記録だ。だからぼくはきみにお祝いは言わずに、おめでとうとだけ言っておくよ」
外では、風がやんでかぼそくなった。木々はもう吼えずに雨だれを落としもしなかったし、葉叢がわずかにそよいで、耐えがたいくらいに悲しい音楽的な音をたてていた……《Somewhere over the rainbow skies are blue,|And the dreams that you dare to dream really do come true》[虹の彼方のどこかで空は青く澄みわたり、/おまえの夢みた夢がほんとうに実現される]
村はずれで犬が吠えたけれど、短く脅えた鳴きかただった。切って落としたように暗くなったが、どの頂の上にもまだ銀色の光の帯が逆らっていて、その光は空の縁のようではなくて丘そのものの迸りみたいだった。
ミルトンは明日こえてゆくトゥレイーゾとマンゴのあいだにわだかまる高地をふり返った。急速に錆びてゆくあの銀色の帯に捺されたみたいな、逆さ丸天井の樹冠をもつ孤立した大木に、彼の眼は磁石みたいに惹きつけられた。《真実ならば、あの木の孤独はぼくの孤独と比べたら冗談でしかないだろう》やがて誤りのない本能に促されて、彼は北西のトリーノの方角に向きなおると声にだして言った。《フールヴィア、ぼくを見てくれ、ぼくがどんなに酷いありさまか、わかるだろう。真実ではないとぼくに知らせておくれ。ぼくはそれが真実ではないことをこんなにも必要としている》
明日はなんとしても彼は真実を知るだろう。たとえレーオが外出許可を出さなかったとしても、彼を拘束したとしても、それでもやはり彼は抜けだして、行く手の歩哨という歩哨を迂回して侮辱しながら行くだろう。明日まで彼がもちこたえればの話ではあるが。彼の人生でいちばん長い夜をこれから過ごさねばならない。しかし明日には真実がわかるのだ。知らないではもう彼は生きてゆけないし、なによりも知らないでは死ねない。彼みたいな若者が生きるよりも死ぬことを求められている時代だというのに。あの真実のためになら彼はなにもかも打ち捨てたことだろう。あの真実と被造物の知性のどちらかなら、彼は前者を選んだかもしれない。
《真実ならば……》それはあまりにも恐ろしく、彼は両手を目のうえにおく。けれども激しい怒りに、自ら盲ることを望むかのようだった。やがて指をずらして、夜の闇があたりを隈なく覆ったのを指のあいだから見た。
戦友たちはみな川辺から戻っていた。今夜は異常に静かだった。戦友のひとりが教会堂の広間に横たえられ、埋葬を待っていたとしてもこれほど静かではなかったことだろう。隊舎から洩れでるざわめきは村人たちの家々から昇るそれを上回らなかった。ただ一人、声を張りあげているのはコックだった。
戦友たち、彼と同じように選択をして、同じ約束のために丘に登った少年たち、笑うも泣くも同じ動機をもった彼ら…… 彼は激しく頭を振った。今日、突然、彼はみなと運命をわかちあえなくなってしまった。あと半日か、一週間か、ひと月か、彼が知るそのときまで。そのあとならばたぶん新たに行動できるかもしれない、戦友たちのために、ファシストを敵に回して、自由のために。
つらいのは明日までもちこたえることだった。今夜、彼は夕食を摂らなかった。すぐにも眠りたかった、なんとしても眠りのなかに頭から突っこみたかった。眠れなければ、村をひと晩じゅう徘徊し、たえまなく歩哨から歩哨へと歩きつづけて、敵襲への懸念を嵩じさせ、うんざりするほど質問責めにあうかもしれない。ともあれ彼に意識がなかろうと、熱に浮かされて徹夜しようと、それでもマンゴに向かう山道のうえに夜明けはやはり訪れることだろう。
《真実。ぼくと彼とのあいだの真実のひと勝負だ。彼はそれをぼくに言わねばなるまい、瀕死の男から瀕死の男へ》
明日、哀れなレーオをたったひとり敵襲のまえに残すことになると彼が知ったら、黒シャツ旅団のまっただなかを彼が通らねばならないとしたら。

0 件のコメント:

コメントを投稿